02 異世界のアリス

「お行儀の悪い子かしら?」


 愛らしい顔面を針が抉る前に、アリスは迫ってきた太い針先を握り締めて止めた。

 毒と喚く男よりもアリスは行儀の悪い大サソリに注目する。

 大サソリは掴まれた尻尾を動かそうとするが、動かない。動かせない。


 白いエプロンドレスに赤黒い雫が落ちる。

 腥い赤は一切生地の上に広がらず逆に純白へと吸い込まれていった。


 アリスはやわらかく微笑んで、臓腑の残骸が付着する針を掴んだまま立ち上がるとそのままポイッと。


 まるで玩具を投げるように。

 まるで胡椒を投げるように。

 まるでティーカップを投げるように。

 まるでトランプ兵達を投げるように。


 ポイッと。


 ひどく軽々と。

 ひどく簡単に。


 大サソリを放り投げた。


 尻尾を引っ張り、縄跳びを回す原理で振り回しながら、巨体を地面に叩き付ける。

 森を揺らす地響き。

 空気が割れ、木々から鳥が飛び立ち、大サソリが落ちた地面は陥没。

 放射線状に亀裂が入った地面の中心で、仰向けになっている大サソリは脚をビクビクと震わせた。


 悪い子にお仕置きをしたアリスは、ふん! と鼻を鳴らす。豪快なフリルと繊細なレースがふんだんにあしらわれる甘美なエプロンドレスの裾を踊らせながら踵を返せば、へたり込んでいる男と目が合う。

 男はヒッと身を震わせた。


「お、お前……な、なん……っ」


 アリスは肩から落ちた銀糸の刺繍入りフリルが付く肩紐を摘み上げると、噛み合わない歯の隙間から疑問を零す男に向かい綺麗な一礼をした。


「わたし達はアリス」


 ホイップクリームよりも柔らかく、お砂糖よりも甘く、素敵なものをたくさん振り撒く愛らしさでアリスは丁寧に挨拶をする。


 どんな時でもお行儀良くするのが淑女の嗜み。


 例え男が立ち上がったアリスに怯えて剣を構えようとも。

 例え男が半狂乱になって剣を乱雑に振り回して走ってこようとも。

 例え男が叫びながらアリスに向かって剣を振り被ってこようとも。

 アリスは静かな一礼をやり通すのだ。


「不思議の国のアリス」


 顔をもたげた時、自分の頭に触れた刃が真っ二つに割れ宙を舞い男が剣から伝わってきた衝撃に両腕を痺れさせながら倒れたとしても、アリスは淑女の微笑みを崩さない。


「退屈な神様作者に弄ばれ、夢見る乙女から狂った国へと昇華した――滑稽な御伽噺のひとつ」


 いつからか色を失って白銀になった髪を揺らし、いつからか色を失って白銀となった瞳を細め、いつからか色を失って真っ白になったリボンとエプロンドレスを整えて、不思議の国のアリスは己を物語る。


「だから無理なのですわ意地悪なお兄さま。意地悪なお兄さま程度では、には傷をつけられませんの。そして」


 少女の姿をした不思議の国はゆっくりと銀色の双眼を恐怖に固まる男から大サソリへと移動させた。


「お前もよ」


 アリスは子供に言い聞かせる声音で、大サソリへとそっと伝えた。

 大サソリはゆっくりと身体を蠢かせ、尻尾を器用に使ってひっくり返していた身体を起こす。背中の表面を覆っていた氷や水晶に付着していた霜が地面に散乱する。


「紛い海亀と一緒にスープの具として煮込まれたくないのなら、お帰りなさい」


 悪戯っ子の悪戯を見逃してあげる。

 そんなふうに唇に人差し指をあててアリスは大サソリへとウインクをひとつ。

 大サソリはたっぷり五秒アリスを見つめ、それから素早く木々を揺らしながら森の奥へと逃げて行った。


「聞き分けの良い子は好きよ」


 森の影に飲み込まれて、小さくなっていく赤い背中。アリスはひらひらと手を振っていたが「化物――!」と突然辺りに木霊した絶叫に引っ張られ、手を止めた。


 男が大サソリが消えていった方向とは別のほうへと走り出す。といっても自分の足にもつれ、転び、ふらつきながら起き上がり、屁っ放り腰で千鳥足で逃げていく。

 ふとアリスは男が大サソリから傷を受けた際に「毒だ」と騒いだことを思い出す。


「大変ですわ。毒は女王のタルトや帽子屋の紅茶よりは危なくないけれど、胡椒のスープよりは危険でしょうね」


 アリスは手を叩くとふらつく男へ一歩近付いた。


「意地悪なお兄さま。良ければわたし達が毒を」


 男の身を案じ、手を貸そうとしたアリスだが男は一層顔色を悪くして三月兎のような騒がしさで脱兎する。


「あら? 意地悪なお兄さまは毒がお好きな方だったのかしら?」


 アリスは人差し指を顎にそえ、考える。考えても何をどう考えれば良いか分からなかったので、すぐに腕を下ろした。


「まあ、意地悪な方の末路は大体が決まっておりますものね。……ああ。なんだか不思議な『はじまりはじまり』ですわ。わたし達は不思議の国なのだから良いけれど……いいえ。でも、いまは鏡の国も地下も色々なアリスが混ざってしまっているのよね。わたし達の『はじまりはじまり』が『はじまりはじまり』でなくなってしまったのはいつからだったかしら?」


 アリスは眉を下げ、マシュマロよりも柔らかな頬を両手で包む。


「サソリさんを追い掛けたほうが良かったかしら? 飽き性で気まぐれな神様作者のせいで、不思議なわたし達はもっともっとひっちゃかめっちゃかですわ!」


 アリスは小さな拳を作るとそれを振り回した。虚空を腕でかき混ぜて、地団駄を踏み、一通り感情を吐き出してから大きく息を吸い、血腥さを感じながら大きく息を吐く。


 転がるふたつの首と食い荒らされた死骸とひしゃげた死体。それから転がる赤い結晶の欠片を見渡したあとアリスは赤い結晶に近付いた。

 尖晶石レッドスピネルのような力強い赤さを有したそれを両手で拾い上げる。

 子豚サイズの欠片を掲げて太陽に翳すとアリスは「きれい」とうっとり呟いた。


「なにも悪いことばかりではないわ」


 自分に言い聞かせながらアリスはポケットに赤い結晶をしまった。

 彼女のエプロンについた小さなポケットは見た目以上に大きくて、何でも入ってしまうポケットだった。ちなみにビスケットならば叩けば増える便利さも持ち合わせている。


 大サソリが落とした赤い結晶をしまったポケットを撫でてから、アリスは前屈みになった際にずれたエプロンドレスの肩紐を引っ張った。少し大きなエプロンは、すぐに肩紐が落ちてしまう。


「頑張るのよアリス。わたし達は不思議の国、鏡の国、地下も子供部屋もどんなアリスも混ざっているわ。一人ではないのよ」


 エプロンドレスを翻し、アリスは白い靴底で青々とした地面を強く叩いた。


主人公アリスが動かなくては、物語ははじまりませんもの」


 踏み締める大地の触感は知らないもの。

 肌に触れる風は知らないにおい。

 広がる森に覚えはなく、出逢った人々やそれ以外の生き物も元来はアリスの物語に登場しない存在達。


 それでも、アリスは進むしかない。


 この程度のひっちゃかめっちゃかで驚きはしない。


 なぜならアリスの物語は――否、アリスやアリスの知る数多くの物語達は既になにもかもがひっちゃかめっちゃかに狂わされてしまっているのだから。


 今回も、いままでと変わらない。

 アリスの役目はただひとつ。


「わたし達はすべての国が混ざったアリス。神様作者を満足させるために動く、神様作者のためだけの滑稽な御伽噺!」


 アリスは走る。

 エプロンのポケットから秒針の存在しない金の懐中時計を取り出して、なにも追い掛けずに走り出す。


「今回も、御満足いただけるアリスを物語ってみせましょう!」


 こうして異世界にてアリスの新たな物語は幕をあけた。


 異世界のアリス――――はじまりはじまり。

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