01 はじまりはじまり *

 アリスがまず始めにすべきことは時計を持った白兎を追い掛けること。


 それが不思議の国のアリスという物語の『はじまりはじまり』


 しかしいつからかアリスの『はじまりはじまり』は変わり、気付けば始めにすべきことは始めにすべきことではなくなって――――

 いまでは、なにもかもがに狂っていた。


「……あら」


 だから意識が浮上した時。

 自分が青々とした芝に真っ白なエプロンドレスの裾をミルクを零したかのように大きく広げて座り込み、立派な樹に背中を預けていたとしてもアリスはいまさら驚きはしない。

 ただ一言「今回はラストシーンから始まったわ」と、欠伸混じりに呟いた。


「なんてすてきな黄金の昼下がりかしら」


 降り注ぐ金色の木洩れ日に眼を細め、穏やかに頬を緩める。

 アリスの眠そうな声はあっという間に森の空気に溶け込んで、当たり前に響くのは風に撫でられる草木の笑い声だけ。

 森の一角であろうひらけたこの場は動物達の憩いの場所のようで、絶好のお昼寝場所スポット。草木の香りが気持ち良く肺を満たす。


『はじまりはじまり』のはずなのに『めでたしめでたし』と勘違いしそうになる始まり方。

 夢から覚めた直後の、まだ意識が現実が固定されずに漂う感覚はとても心地が良くてアリスはついつい微睡んだ。


 白い睫毛に包まれた瞼を閉じ――――世界を引き裂く悲鳴に森が揺れた。

 アリスはすぐに瞼を持ち上げる。


「……あら?」


 高級な真珠よりも澄んだ白銀の瞳をゆったりと動かせば、再び甲高い悲鳴。

 次いで、草木を掻き分けて何かが飛び出してきた。

 ようやく時計を持った兎のお出ましかと期待したが、飛び出してきたのは傷だらけの二十代くらいだろう金髪の男が一人。立て続けに、彼よりも若い女が一人。


「兎ではないのね……」


 金髪の男は騎士のように剣を持っていたが、アリスの知る騎士とは程遠い装いだった。

 妙に細かな彫り込みが施された薄い鉄の胸当てがついているだけで他の部位は革製の防具。

 革にも模様が描かれ、金具はツノの生えた獅子に似た獣の形をしていた。実戦向きというよりは見栄えを重視していると素人目にも判別できる。


 男の真後ろについてきた黒髪の女は所々に装飾としてたくさんのベルトをつけながらも服自体は露出が激しい服装で、あまりの肌色の多さに「まあ!」とアリスは口を大きく開けて目を丸くした。


 その間に登場人物が増える。

 六角形に磨いた青い水晶の嵌め込まれる魔女のとんがり帽を被り、豊満な胸元を強調させ身体のラインをなまめかしく際立たせた娼婦じみた格好の女と発条ゼンマイと管が絡まった奇妙なランタンを持つ白い修道服らしき装いの女が息を切らせながらやってきた。


 顔色が悪く酷く疲弊した様子の修道女が息を荒げながら何かを口にする。

 青白くなった唇の動きは、待って――! と助けを請うものだったが、それが言葉となって辺りに響くよりも早く修道女の首が飛んだ。


 死刑宣告をされたトランプ兵の如く豪快に、首が飛ぶ。


 豪快さに見とれてしまっていたアリスの耳朶に届いたのは、首狩りの暴君を讃える喝采ではなく恐怖に染まった悲痛な絶叫。

 娼婦なのか魔女なのか分からない格好の女が尻餅をついていた。

 肩を震わせ、服というよりも布と表現すべきだろうスカートから素足を大きくさらけ出してズルズルと後退る。腰が抜けたのか動きが鈍い。


 アリスは知っている。

 愚鈍なトランプ兵がどうなるのか。


「首をお刎ね」


 アリスの言葉に呼応したわけではないだろう。

 だが、アリスの言葉通り。

 尻餅をついていた女の頭が飛んだ。


 帽子と頭部が虚空で別れ、重い頭が先に鈍い音を立てて転がった後、別の場所に帽子が落ちた。

 そこに飾られていた装飾がかしゃんと音を立てる。


 女達の首を刎ねたのは鋭利な鎌ではなくぶ厚い甲殻をまとった鋏。それはまがい海亀と一緒によく見ていた海老に似ていた。四匹一組になりカドリールを踊る海老達は、それはそれは可笑しくて見物だったとアリスが思い出にふけていると唐突に怒号が上がる。


「なんで効かねえんだよ! レッドスコーピオンは氷結に弱いんだろ!」

「あたしに言われたって知らないわよ!」


 アリスの銀の視線が残った男女へと移った。二人は喉から声を張り上げて言い争う。


「普通効くだろ!」

「だから知らないってば! 効くって言ったのはあんたでしょ!」

「お前だって言ったろ!」


 半ばパニックを起こしているのか、男は一方的な疑問ばかりを口にして、女は現実を見たくないとばかりにすべてに否定的な返答を吐き捨てる。


 甲高いやり取りは公爵夫人と料理女のよう。

 胡椒や食器が飛び交う二人の激しい様子が脳裏に浮かび上がり、ついついアリスは思い出し笑いならぬ思い出しくしゃみをしてしまった。

 その音に男女は弾かれたようにアリスへと意識を向ける。


「……は? ガキ?」


 ようやく二人は樹にもたれ掛かっているアリスに気が付いたらしい。


「なんでガキがこんなとこに?」

「やだ! なにあれっ……うげえ、真っ白じゃん。気持ち悪い」


 アリスからも間合いを取るように後退る二人。が、不意に男のほうが足を止めた。


「こんなとこにいるんだ。捨てられたんだろ」


 悪者の面持ちで男はとても悪い言葉を言い放った。

 間髪入れず「なら、どうなったっていいよな」と、勝手に自己解釈すると男は大股でアリスの元へと走ってきた。


「コイツ、餌にして逃げる時間稼ぐぞ!」


 ハートの女王を思わせるなんとも自分勝手な言い分。

 露骨な悪意を受けながらもアリスは一応男に忠告してみる。


「だめですわお兄さま。意地悪な継母のようなお兄さまでは無理ですわ」


 当たり前のようにアリスの親切な忠告を無視し、男は剣を持っていないほうの手でアリスの細い腕を乱暴に掴む。

 そしてそれはもう力強く、子供に対して絶対に与えてはいけない力加減でアリスの腕を引っ張った。ただあいにくと、アリスは立ち上がるどころか微塵も浮きはしない。

 男が驚愕し、目を剥く。


「――っ、ふざけんな! なんだお前!」


 驚きが苛立ちに変化し、眉をつり上げる男。

 何度もアリスの腕を引っ張るが小さなアリスは座ったまま。


「無理ですの。無理ですのよお兄さま。だって意地悪なあなたは」

「きゃぁあああ――――ッ!」


 アリスの声が途中でかき消される。

 空を切る何か。歪な地響き。木々倒れ、息を飲む男。

 修道女と魔女のような女の命を絶ち、双方の亡骸を貪っていた大サソリが毒針を携えた尻尾で女の露出している腹部を刺した。


 背中に霜に包まれた太い結晶を幾つも生やし、象以上の巨体を有する赤いサソリはアリスの腕よりも太い針を持ち、それを深々と黒髪の女の腹に貫通させる。

 串刺しにされた女は手足をばたつかせながらもがいた。悲鳴は嗚咽に変わり、腹部に損傷を受けたせいで逆流してきた血液が女の口から溢れ出す。


 女が脂汗を浮かべる顔を上げ、涙に濡れた眼で男を射抜く。

 女は怯える男に向けて、真っ直ぐに、苦悶の表情でごぼごぼと濁った呪詛を口にした。


――――お前のせいだ!


 血濡れた怨嗟は明確な言語として発せられはしなかったが、アリスですら口の動きで理解ができた。

 ならば、仲間である男が分からないはずはない。

 女の身体が揺れる。

 サソリの尻尾がしなり、女を地面に叩き付けた。

 一度。二度。三度。四度。

 五度――――女は関節の存在しない綿人形のように四肢を揺らし、芝に盛大な赤い花を咲かせた。


 血溜まりの中で関節をおかしな方向に折り曲げて震える女はもう事切れている。

 ただ筋肉が反射的に痙攣しているだけで、あれもすぐに沈黙するだろう。

 アリスが気にかけたのは女よりも尻尾。


 ずるり、と。


 女の腹部から赤い糸を引いて抜かれた獰猛な尻尾がその矛先を変えた。

 勢い良く男へと針が向かってくる。

 情けなくひっくり返った悲鳴とは裏腹に、男は辛うじて針を避けた。だが針先が男の腕を掠り、男は衝撃で地面に倒れ込む。


 毒が! と叫んで腕を押さえる男にアリスは意識を一瞬持っていかれた。

 が、それは本当に一瞬だけ。

 男が逃げたことにより針がアリスの顔面を貫いた。


「まあ」――――

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