暗射地図③

 彼らが解放されるのと入れ違いに、また、情報屋の一人が獲物を従えて帰ってきた。しかし——。

「おいおい、今度は子供じゃないか」

 一同と同じような長服に身を包んだ少年は、目から下を薄布で覆い隠していた。顔全体の中で唯一表情を外に伝える黒曜石の双眸が、怯えの色も露わにふるえている。

「座らせてやれ」

 大将の言葉で、部下は少年の二の腕を掴んでいた手を放した。ぎこちない動作で腰を下ろす。と、シュグルは少年が脚に怪我をしているのに気づいた。

「どうした? 転んだのか、誰かにやられたか」

 衣服の裾を撥ねる。左の膝の裂傷が、まだ新しい血を滲ませ続けていた。

「おっと、こりゃ酷い」

 早く手当をしないと大変だ、と大将が言った。シュグルは黙って、少年の顔を覆った布を剥ぎ取った。真っ青だった。

「何かないか」

 すると、手から手へ、水パイプが回ってきた。気付け薬だと、誰かが言った。歯の根が合わない口の中で、吸い口がカチカチ音を立てた。だが、程なく少年の頬に仄かな赤味が射し始めた。

「話せるか?」

 少年は小さく頷いた。

「名前は?」

「……ファルーカ」

「どこから来た」

「東……」

 彼を連れてきた情報屋が、そのときの模様を語った。ふらふらと、意味不明の文句を発して歩いていたので、捕らえたという。

ウグニヤがどうとかって聞こえたんで、こりゃ怪しいと思って、つい……」

「違う」弱々しく否定して、「僕は姉妹ウフトって言ったんです。妹のことを考えてて……」

「何だ。手荒な真似して悪かったね」

「わかった」と、シュグル。「ともかく、放り出す訳にもいかないしな。大将、医者を呼んでくれないか」

「旦那」大将は軽く舌打ちしながら顎を上げた。「ご存じないかね。医者はすぐには来ない」

「何故だ」

「この街には一人もいないからでさ」

 呆れ返る青年に向かって、ファルーカが言った。

「薬なら、少し持ってます。ただ、動転してたし、自分じゃ上手くやれないんで、そのまま……」

 いずれにしろ、著しく体力が低下しているらしい彼を任せられるほど、情報屋たちが親切とは思えない。

(追加料金を払えば話は別なんだろうが——)

 仕方ない。使わずに済んで欲しいと願っていた、あの間仕切りを活用するしかあるまい。シュグルはファルーカを連れて宿へ帰った。

 支配人は目を丸くして、

「どうなさいました?」

「ケガ人なんだ。部屋で手当する」

 彼らが二階へ上がるのを見たルゥルゥは、

「何事ですの?」

「さぁ。取りあえず、軽い食事でも用意して差し上げた方がよさそうだ」

「はい……」


 迷える小鹿のような手負いの少年が、浴室で傷口の汚れを洗っている。我ながら酔狂な——と、ベッドに寝転んだ青年は思った。が、単に慈悲の心で助けた訳ではない。相手は彼が詩人の行方を追って目算した地域エリアの内外を歩き回っていたのだ。多少なりとも情報を得られるに違いない。

 ファルーカは借りた部屋着を被って椅子に座ると、革袋を開いて、外傷薬と繃帯を取り出した。シュグルは慣れない手付きで処置をしながら、

「妹がどうかしたのか?」

「……」

 少年は口籠もったが、彼を信頼するに足ると見極めたのか、やがて小声で話し始めた。

 ファルーカは妹と共に、親類の家から自宅へ戻ろうとしていた。隊商キャラバンが近くまで送ってくれるはずだった。だが、一行は途中で賊に襲われ、ある者は咄嗟に荷物を捨てて逃げ、またある者は抵抗して殺されてしまった。

「皆、僕と妹を庇って逃がしてくれたんです。でも、気付いた奴が追ってきて——」

「攫われたのか」

 少年は微かに頷いた。恐怖の記憶を反芻してか、小刻みに身体を顫わせている。と、遂に掌で口を塞ぎ、弾かれたように立ち上がった。シュグルは素早く、彼を洗面所へ引っ張っていった。少年は胃液を嘔吐した。無理もない。妹が帰ることはないのだから。

 ドアの外で、ルゥルゥが控え目に呼び掛けるのを聞いて、彼らは階下へ下りた。テーブルに並んだ皿を前に、断るかと思いきや、ファルーカはゆっくりと料理を口に運び始めた。ついさっき吐いたばかりにしては、頼もしい食欲だ。隣でミントティーを啜りながら、シュグルは小さく笑った。

「お気の毒に」ムディールは眉をひそめ、溜め息を漏らした。「御実家に報せなければいけませんな」

 とは言ったものの、通告員メッセンジャーを呼び付けて少年の家へ走らせるまでには、それなりの時間が掛かる。

「何でもいいから頼みます。連絡がつくまでは相部屋で」

「いいんですか?」

 遠慮がちに訊ねるファルーカに向かって、

「申し訳ないが、別に一部屋取れるほどの持ち合わせはないんだ」

「こちらとしては一向に構いません。まあ、大変な事があったばかりで、お一人では心細いでしょうし」

 支配人は快く承知すると、ルゥルゥを顧みて、

「すぐ行って、屏風を出して差し上げなさい」

 頷く彼女を制して、シュグルが立ち上がった。

「いいです。やりますよ」

「ごちそうさまでした」

 ファルーカも後に従い、テーブルに残された二人は顔を見合わせた。

「ますますわかりませんわ、あの方……」

「フム」


 間仕切りは百花繚乱であった。毒々しいまでの艶やかさが、あるか無しかの後悔の念とあいって、またも青年の眠りに夢魔をもたらした。



【ⅲ】


 翌日、娼婦が昼の顔で彼のもとを訪れた。もっとも、臍を出した服装とピアスに、変わりはなかったが。

 戸口で少年と鉢合わせしたルシェッタは、驚いて身を引いたが、屏風の向こうから現れたシュグルを見遣ると、

なすった?」

「……違うよ」

 なかなか可愛い子じゃないの——と、彼女は尚も冷やかしたが、

「柘榴売りが来てるわ。行きましょう」

 そんな話もあったかと、彼は腰を上げた。誘ってみたが、ファルーカは外へ出たくないと答えた。怪我と神的な負担の相乗効果で、微熱が続いている。

「そうだな。寝てた方がいいだろう。後でルゥルゥに氷を持ってきて貰うよ」

 二人は通りへ出た。

「何者なの?」

「さる豪商の御子息だ。無事に屋敷へ送り届ければ褒美を取らす、とさ」

「それはそれは」

 元は宿泊所だったらしい、古びた無人の建物の前に、人が集まっている。売り子は音楽を流しながら、ただ一人、手際よく客を捌いていた。女性歌手の寂びた歌声。彼らは列の後ろに並んで順番を待った。

 売り子は見たところファルーカと同じ年回りで、まだ子供と言って差し支えないはずだが、不思議に老成した眼を持っていた。ルシェッタはシュグルの耳許に口を近付けて言った。

「いつも来る男の子。ここの仕事を任されてるそうよ。商売の期間中は、決まって後ろの空き家に、寝泊まりしてるんだって」

 およそ労働という行為が似つかわしくない、暹羅シャム猫のように優雅で高貴な佇い。だが、少年は自分の仕事を楽しんでいる様子だった。しなやか指先で、果実を水桶から取り出し、ナイフで断ち割っていく。美しい所作だった。

 買い物を済ませた客が散っていき、ざわめきが失せた日覆いの下に、三人だけが残っていた。

「お久し振りです」

 売り子はルシェッタに向かって涼しい笑顔を見せた。

「覚えててくれたのね」

「きっと、また来てくれるだろうと思ってました」

 ルシェッタは持ち帰り用と別に、この場で食べる分も欲しいと言った。売り子はまず、網の手提げ袋に、水の滴る柘榴を詰めて渡した。彼女は紙幣を出して、

「おつりは取っといて」

「ありがとうございます」

 売り子は小さく頭を下げると、水甕いっぱいに活けた花の一輪を、彼女に差し出した。

「あら、嬉しい」

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