暗射地図⑤
彼は起き上がったが、
「大丈夫ですか? その様子じゃ、もっと寝てた方がいいみたいだけど」
「……そうするよ」
頭の芯が鈍く痺れていた。貰った薬が身体に合わなかったのかもしれない。
ファルーカが小声で歌っている。最初は子守歌のつもりかと、ぼんやり思った。が、どうやら違うらしい。薄れゆく意識の中、窓際の机に片方の肘を突き、こちらに向かって椅子に腰掛けた少年の姿が、朧に映った。この土地の言葉ではなかった。
(……?)
どこかで聴いた気がする、哀愁を帯びた節回し。少年は、自身の心を解放するかのように、朗々と歌い上げた。うっとりと潤んだ目を閉じ、呼吸を整える。頬は歓喜に紅潮していた。
(——素人じゃない)
何かがおかしいと、青年は思った。だが、確かめようもなく、彼は重い眠りの泥沼に沈んでいった。
【ⅳ】
翌日、シュグルは周囲の病人扱いに甘んじて、寝たり起きたりの一日を過ごした。
星々が墨色の空を飾る頃、赤い柘榴の花を携えて、娼婦が見舞いに訪れた。彼女は大理石のペン立てから、無造作に筆記具を取り出すと、花瓶代わりに水を満たして花を活けた。
「どこがお悪いの?」
女はからかうような口調で訊ねた。彼は半身を起こして、
「見当もつかない。誰かに一服盛られたんじゃないかと思うよ」
負けじと質の悪い冗談で応じて、彼女の
「元気じゃない。心配して損したわ」
浴室から水音が聞こえていた。寝台に押し倒された女は眉を
「あの子、お風呂でしょ? まずいじゃないの」
「しばらく出てこないよ」
彼は躊躇せず、
「嫌だってば。やめてよ」
無意識に声を潜めつつ、抵抗を続けたが、力で敵うはずもなかった。
「そんなつもりで、来たんじゃないのに……」
じゃあ、何だというんだ。そもそも仕掛けてきたのはそっちじゃないか。鼠蹊に軽く歯を立てる。たった今、彼女の顔に滲み出した感情の色も、彼の目には入らなかった。遊び
ファルーカは一部始終を察しているかのように、わざとシャワーを出したまま、脱衣場に立っていた。よく乾いた清潔な部屋着を頭から被って、雫の滴る洗い髪もろとも、扉に額を押し当てる。少年は
【ⅴ】
続く五日目、シュグルはどうにか普通の食事を摂れるまでになったが、外を歩き回れる自信はなかった。
「ソルベはまだなの?」
ハイビスカス・ティーを飲みながら、ファルーカが訊ねると、ルゥルゥは小さく舌を出して、
「ごめんなさい。甘さの加減が今一つで……」
出来上がりに納得が行かないので、もう少し待ってくれと、彼女は答えた。シュグルは無邪気な遣り取りに耳を傾けながら、一昨日の
(あれは予言だ。だが——)
この子供が何を知っているというのだ。横顔を盗み見る。しかし、答えが記されているはずもなかった。
「さて、そろそろ仕事に戻るとしますかな」
ムディールが立ち上がったとき、息を切らせたメッセンジャーが駆け込んできた。
「失礼いたします。シャバーブ・アーディー様より御連絡です」
婚約者の名を聞いて、ルゥルゥの顔が輝いた。
「『日程が繰り上がったので、予定より早く帰宅する』とのことです」
「ありがとう。御苦労様です」
ムディールが礼を言った。が、相手は続けて別のレポートを広げ、
「こちらに、ナーディル様と仰る方はお
「私ですが」
青年が低く答えると、メッセンジャーは彼の側へ向き直り、咳払いをした。
「アムワージュ様が、お目通り願いたいと申しておられます」
「誰だって?」
聞き違えはしなかった。だが、眼光鋭く、彼は相手に復唱させた。
「アムワージュ様です。面会の場所まで御案内するよう、仰せつかっております」
どういうことだ。読みが当たっていたにしろ、向こうがこっちの居場所を知っているというのが解せない。奴も情報屋を雇ったのか。何にせよ、進んで会おうとするからには、相応の構えがあるに違いない。彼は意を決して立ち上がった。しかし——。
貧血か。頭がくらくらした。冷たい汗が首筋から背中へ流れ落ちる。ファルーカが心配そうに顔を覗き込んで、
「そんな調子で出掛けて平気?」
「大丈夫、とは言えないがね。何とかなるだろう」
問題は事後だが、詩人が投降するとせざるとにかかわらず、一旦、身柄を情報屋の根城に預けるとしよう。
シュグルは部屋で身支度を整え、再びダイニングへ降りた。だが、行っては駄目だと、少年の眼差しが無言で訴えている。
(さて、どうしたものか——)
ファルーカについては、
「ようございます。坊ちゃんは責任を持ってお世話いたしましょう。ですが——」
「保証金、だな?」
支配人は揉み手をしながら頷いている。青年が忌々しげに舌打ちすると、
「長衣の下に隠しておられる、その——大層値打ちのありそうな銃をですな、お預かりしますが」
「冗談だろう」
「御心配なく。代わりの護身具を貸して差し上げましょう」
指示を受けたルゥルゥが奥へ下がり、また直ぐに戻ってきた。恭しく三日月刀を差し出す。妙に芝居がかった所作が不愉快だった。
「敵が飛び道具だったら話にならないぞ」
だが、ムディールは笑みを湛えるばかりで答えなかった。シュグルは溜め息と共に刀を受け取った。鞘には家紋が入っていた。引き止めようとするファルーカを振り切って、彼は外へ出た。メッセンジャーが幌馬車で待っていた。
ファルーカはベッドに腰を降ろすと、膝の繃帯を解いた。虚ろな眼で傷口を眺めていると、誰かがドアをノックした。
彼女が来るのは分かっていた。いつものように、臍の際に小さな宝石を飾ったルシェッタは、黙って少年の傍らに救急箱を置いた。彼は座ったまま、彼女に向かって満足げな目線を投げかけた。
幌馬車は灼け付く日差しの
「どうぞ」
馭者に扮したメッセンジャーに促され、彼は馬車を降りた。辿り着いたのは、絞首台こそ見当たらないものの、夢の中に現れた岩山の麓に違いなかった。
メッセンジャーは手際よくパイプを組んで麻布を張り、
やがて、彼方から小さな影が近づいてくるのが見えた。駱駝に跨った男の面差しは、逆光で判然しない。彼は立ち上がり、日除けの外へ出た。駱駝が歩みを止める。相手は滑らかな身ごなしで地面に降り立った。手綱をパイプに結び付ける。顔は、まだ分からない。頭に被った
「お待たせしましたかな」
威厳のある深い声で、詩人は言った。彼らは向かい合わせに腰を下ろした。
「気分は良くおなりか?」
シュグルは小さく
「薬を呑まされましたな。まあ、水で中和すれば大事には至りませんでしょう。さあ——」
銅製のカップに冷えた鉱泉水をなみなみと注いで手渡す。ひりひりと喉が渇いていた。シュグルはためらいもせず口をつけた。詩人も同じように水を飲み乾すと、疑惑の色を浮かべた彼の眼を見据えて、
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