暗射地図

深川夏眠

暗射地図①


【ⅰ】


 砂の岬でレールは途絶え、旅行者は船に乗り換えた。空調が行き届いていない。青年は襟を緩めた。

 旅人も行商人も誰一人、彼に注意を払いはしないが、その出で立ちは周囲とあまりに異なっていた。取り敢えず、色の濃いサングラスは外した方がいいだろう。もう顔を隠す必要はないのだ。

 席を探して船首側へ移動する。ようやく空のボックスを見つけて腰を下ろした。三十分ばかりの航海だ。居眠りをする暇もない。

 彼はトランクから革製の書類ケースを取り出した。中には白地図の束が収まっている。旅程を記さねばならない。どこからどこへ、いつ、どのように移動したか、克明に。

 左手首の時計を見る。これは、しかし、生体反応板を内蔵したブレスレットである。肌に密着する薄い金属。自力で外すことは出来ない。任務を終えて帰還するまで、彼のおよその現在地を監理官に知らせ続けるのだ。

 船内のアナウンスも、乗客たちのさざめきも、すべては異国の言葉だ。膨大な音楽のシャワーでも浴びているようだが、青年の頭には、言うなれば翻訳ソフトが仕込まれているので、必要な情報を掬い上げるのは簡単だった。あるを切除した分の空き領域に組み込んだ訳だ。上手くやってくれたものだ、と彼は苦い笑みを浮かべた。

 向こう一週間の天気予報に、ぼんやり耳を傾けるうち、船は露天商や迎えの人出で賑わう港に着いた。

「そこのお若い方」

 嗄れた声に呼び止められ、振り返ると、出店の老婆が手招きしている。

他所よそからいらしたね。ご滞在は?」

「さあ。出来れば短い方がいいけど」

「いずれにしても、そんな気密性の高い服装では、これから先、死ぬ思いをなさいますよ」

「つまり?」

 老婆は卓上に並べた衣類や装身具を示して、

「どれでも、お安くいたしましょう」

「そう。じゃあ、ひとつ忠告を聞くとしようか」

「はい、あちらの個室へどうぞ」

 男性用のゆったりした長衣を腕に掛け、更衣室へ向かった。確かに暑い。彼は着替えがてら全身に制汗剤デオドラント・スプレーを噴きつけた。元の服をトランクに収め、上辺だけはどうにか現地人に成り済ますことが出来た。老婆の前に戻り、支払いの段になって、

「カード? ええ、この港の辺りでなら通用します。但し、先々の街では現金以外扱わないのがほとんどですのでね、身の回りの品はお早目に……」

 彼は黙って明細書にサインした。氏名、

「は?」

 妙な名前だと思ったのだろう。老婆が目を丸くした。任務終了までのコードネームである。偽の身分証明共々、監理官によって事前に登録がなされていた。

「何か問題でも?」

「いいえ、結構でございます。よい旅を——」

「どうも。お世話さま」

 街を目指して歩き出す。露店の連なりが、そのまま中心地のバザールへ続く遊歩道プロムナードになっている。鮮魚、茶、スパイス、香水——噎せるような匂いと熱気に包まれ、振り向くと、空と海は忌々しいほど青く、深かった。

 詩人の残した気配を辿って、地図にマーキングを施しながら移動するのが、シュグルの務めだった。青年は、彼の生まれ育った世界に於いて、死、あるいは終身刑を宣告される罪を犯したが、特命を受けて出獄していた。権力者をあからさまに批判し続ける吟遊詩人、アムワージュを捕縛するためだった。詩人の行動範囲は広い。行く先には様々な危険が待ち受けているに違いない。監理官たちも、また、彼らに命を下した国王も、青年が事をなし遂げて帰るのを全面的に期待している訳ではなかった。彼がどこかでたおれるなら、むしろ手間が省けるというものだ。統治者は城の内外が血でけがれるのを極度に恐れた。

(ケツの穴の小さい奴らだ)

 青年は毒づいた。

(世にもおぞましい犯罪だと?)

 あまりに不吉であるとの理由から、彼は自らの罪にまつわる記憶を削除され、代わりに、幾許いくばくかの知識を与えられて出発した。見事、詩人を捕らえて凱旋した暁には、それを返還された上、晴れて無罪放免となる。しかし、彼は任務をまっとうする意志が決して固いとは言えなかった。娑婆に未練はないが、牢獄で死を待つよりは異郷で野垂れ死にした方が余程マシだ——というくらいの、半ば捨て鉢な気分で旅立ったのだった。

 バザールの外れに、宿屋が並んでいる。もう夕方だった。一刻も早く汗と埃を洗い流したかった。見渡したところ、〈古拙庭園ギネーナ・アディーム〉というのが、辺りで一番構えが立派で清潔そうな旅館だった。迷わずフロントへ向かう。

「いらっしゃいませ。お一人で?」

「ええ」

 豊かな口髭を黒々と蓄えた中年の支配人が、続けて訊ねる。

「何日のご予定で?」

「取り敢えず、一週間」

 支配人は帳簿を捲って、

「かしこまりました。ええと、途中で移動していただかずに済むには——ああ、二番目に広いお部屋になりますな」

 独りでは持て余すであろう、という口調だった。また、予算上の問題はないのかと訊かれているようでもあった。

「構いません。前金で払います」

 カードが利用出来ない場合が多いという、港の老婆の言葉を思い出し、シュグルが紙幣を取り出すと、支配人の口許くちもとが僅かに綻んだ。

「ありがとうございます。お疲れでしょう。すぐ御案内いたします」

 記帳が済み、支配人が声を掛けると、エプロン姿の若い娘が奥から姿を現した。

「いらっしゃいませ」

「身内の者です。何でもお気軽にお言い付けください」

 編んだ髪を垂らした娘は、溌溂とした表情の中に微かな羞じらいの色を浮かべて彼を見つめた。青年は彼女がトランクを運ぼうとするのを制して、

「自分で持ちます」

「でも——」

「無理だと思うけど」

「……」

 確かに、彼女の細腕ではびくともしなかった。支配人は声を立てて笑った。

「失礼。わたくし、ムディールと申します。どうぞよろしく」

「こちらこそ。お世話になります」

 青年は、にこりともせずに応じ、娘の後に続いて階段を登った。さほど興味がある訳でもなかったが、気が向いたので訊ねてみた。

「さっき、身内って言ってたけど」

「はい、あの、支配人の甥が婚約者ですので——」

「なるほど」

「今は商用で留守にしておりますが、十日か二週間もすれば戻ります」

 娘は含羞はにかみ、頬を赤らめていた。つくづく可愛らしい子だ。まるで別世界の住人だと、彼は思った。

 彼女は二階の端の部屋の鍵を開けて、

「どうぞ」

 手頃なツインルームといったところか。こざっぱりした趣で好感が持てる。娘が照明を点し、窓を開けた。風通しがいいのはありがたかった。

 壁際に、畳んだ屏風が立て掛けてある。

「間仕切りにするんです。その——やむを得ず相部屋になってしまった場合に……」

「使わないで済むことを祈るよ」

 彼は素っ気ない返事と共に背を向けた。

「申し遅れました。私の名はルゥルゥと言います。お呼び捨てくださって結構です」

 彼女はぺこりと頭を下げ、静かに出ていった。彼は腕組みをし、無言で景色を眺めていた。マウンテンビュー。砂地に突然現れる緑の隆起。円錐形の、美しい山だ。乾いた土地にあって、そこだけまるで奇蹟のように、数多の樹木を宿し、潤いを保って聳えている。それ故、人々は崇敬の念を抱き、そして、無数の神話が生まれた——。

 星が一つ、流れて消えた。青年は我に返り、湯浴みに向かった。が、部屋着には袖を通さず、トランクから出した替えの服を着て、ダイニングへ下りた。

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