家出少女の結婚初夜

稲庭風

家出少女の結婚初夜

「すぐ行くさかい、待っとってや……」


 駐輪場にバイクを置いたはるかは、ヘルメットを片手にげ、もう片方の手にスマホを握って、雨の中を駅前のターミナルへ走った。


 帰宅ラッシュも落ち着いた午後8時とは言え、まだまだ人の多い駅前。傘をさしている人々の間を縫って歩きながら、遥はあたりに目を配るが、誰が遥の探している相手なのかはまるで見当がつかない。


 人の流れから外れ、駅舎の短い屋根のひさしの下に潜り込むように壁に背中を預けて立つと、遥は持っていたスマホに目を落とし、それに指先を走らせた。


『今どこ?』

『バス停のベンチに座っています』

『わかりました。すぐ行きます』


 頭の中は関西弁なのに、チャットでは思わず標準語のうえに敬語でやりとりしてしまうことに苦笑いしながら、遥はスマホを下ろすとまた人の隙間を縫って小走りにバス停へ向かう。


 バスが出て行ったばかりのバス停の前の三席しかないベンチには、どこかの制服らしきものを着た少女がずぶ濡れになってぽつんと座っていた。少し足を速め、遥はその小さな背中を目指して走る。

 遥が前に回り込むと、両手で握りしめたスマホをじっと見ていた少女は顔を上げた。少しやぼったい黒縁眼鏡のレンズ越しに、黒いライダースーツをまとった遥を見て数度瞬きしたあと、彼女は小さな声で訊ねる。


「クロエ……さん?」

「うん。……トワイライトフェザー?」


 キャラ名で呼びかけられた遥は、同じくそこにいるはずの彼女のキャラ名で呼び返した。

 少々物々しいその名前で呼ばれた彼女は頬を赤くして浅くうなずいたあと、恥ずかしげにぽそりと言う。


「な、成瀬晶なるせ あきらです。恥ずかしいから、キャラ名で呼ぶのやめてください……」

「ふふ、ゲームの外でキャラ名とか口に出して言うもんやないねえ。ほんならうちも。黒浦遥くろうら はるかや。直接は初めまして」


 スマホをヘルメットの中に放り込むと、遥は晶に片手を差し出してにこりと笑った。



-◆◆◆◆◆-


 晶にはシャワーを勧め、自分はTシャツにバミューダパンツという軽装に着替えて頭にタオルを乗せた格好で、遥はスマホを眺めていた。


 ぎりぎりワンルームでない1Kのマンションのバスルームには脱衣所パウダールームなどというものはなく、水音が途切れてしばらくすると、すりガラスのはまったドアの向こうのキッチンスペースで、おそらくは裸の晶の肌の上をタオルが動くのがおぼろげに見える。


 思わずそれをじっと見つめてしまっていた遥は、彼女の影がドアに近づくと、慌ててまたスマホに目を落とした。すぐに小さな軋み音とともに、部屋とキッチンを隔てるドアが開く。


「……あがったよ」


 そして顔を出した晶がそう告げると、遥は結局ほとんど見ていなかったスマホから顔を上げた。


 遥のスウェットが少し大きいせいで、上下とも少しだぶつかせている晶は、体の小ささと不安げな表情の精でずいぶん幼く見えた。その晶を手招きしてソファの隣を勧めると、充電ケーブルを挿したスマホを机に置き、遥は彼女に訊ねる。


「落ち着いた? なんか食べられそう?」


 その問いに、勧められるままソファに腰を下ろした晶はうつむいて首を横に振った。つやつやのショートヘアが揺れてふわりと届いた香りに、自分が使っているシャンプーのものなのに少しときめきを覚えてしまいながら、遥は彼女を見つめる。


 明るいところでよく見ると、晶の左の頬はうっすらと赤く腫れていた。ソファの隅で小さくなっている彼女を見たまま、両手でソファの上に自分の足首を片方ずつ引き上げる遥。


「せっかく来たんやから、愚痴りたいことあったら何でも話してな?」


 その言葉に、晶はまた無言で浅くうなずいた。口の重い彼女に、遥は困ったような苦笑いを向ける。


 晶ことトワイライトフェザーは、遥ことクロエのネットゲーム内での結婚相手、いわゆるネトゲの嫁だった。

 ゲーム内のチャットで出会い、とあるアニメの話題で意気投合した二人はその後急速に仲を深め、今ではともすればお互いのリアル友人よりも長く一緒に過ごす間柄になっている。

 そのうち、二人はゲームの中のことだけでなく、外の事もそれなりに話すようになっていた。それゆえに、なんとなく晶のことも見当がついた遥は、上半身を前に倒して下から彼女の顔を覗き込むと、穏やかな口調で言う。


親御おやごはんと喧嘩したんやろ、トワ」


 いつもゲームの中で使っている愛称で呼ぶと、一瞬身を震わせたあと、晶は遥に視線を返してまた浅くうなずいた。晶がゲームの中で話すことのうち、二割程度は親に関する愚痴だった。せやろなあ、と胸中で呟きながら体を起こして背中をソファに埋め、遥は視線を彼女の横顔に向けて続ける。


「娘の顔、そない痕が残るほどひっぱたくとか……よっぽどひどい喧嘩したん?」

「……いつもこうだよ。お母さん、わたしが何か気に入らないことをしたり考えたりしたと思ったら、いきなり叩くの。そのあと文句」


 母親からの言葉をお説教とすら認識していない晶の表現に遥は苦笑いしかけ、だが彼女自身もかつてそう思っていたことを思い出してやめた。背筋を伸ばし、視線だけでなく顔を晶のほうに向けると、遥は続けて問う。


「せやけど今日は、いつもよりひどかったんと違うの?」

「……うん。学校から帰ったらいきなり叩かれて、机にしまってたわたしの描いた絵ばらまかれて。なんなのこれは気持ち悪い、って……」

「強烈やなあ」

「びっくりして部屋に行ったら、机もベッドも本棚もぐっちゃぐちゃで。そしたら今度は玄関からお母さんのぎゃーっていう声がして……」

「忙しいなあ」

「……笑い事じゃないよ」


 思わず笑ってしまった遥を、晶が不満げに睨んだ。晶に小さく頭を下げ、遥は話の続きを促す。


「ごめん。ほいで?」

「玄関に戻ったら、お母さんがわたしの鞄の中身ぜんぶひっくり返してスマホ見つけちゃってて……。それで、また叩かれて」

「え、いまどきスマホ禁止?」

「うん。小学校の時のキッズケータイずっと持たされてる。お母さんと電話しかできないし、GPSでいつも場所見張られるやつ」

「……大丈夫なん?」


 それなら、この場所だってすぐ足が着くのではと少し不安になった遥に、晶は初めて笑顔を見せた。肩をすくめると、彼女は朗らかに笑って言う。


「大丈夫だよ、家に捨ててきたから。それで見張られてるってわかってるんだもん」

「思い切ったなあ」

「その時はほとんど何にも考えてなかったけど……。わたしのスマホ踏みつぶそうとしたお母さん突き飛ばして、キッズケータイ投げつけて、スマホ拾ってそのまま飛び出してきた」

「そりゃまた鮮やかなコンボ繰り出したもんやな」

「……武闘家だもん」


 晶の言葉に、遥は笑いを返した。二人で笑い合った後ふっと体の力を抜くと、晶は甘えるように遥に肩を摺り寄せる。


「わ、どうしたん急に」

「よかった。やっぱりクロエだ」

「うん?」


 晶の小さな体を抱き止めながら、遥は首を傾げた。さらに体を寄せて彼女の肩に頭を乗せて見上げると、晶は安心したような笑みを浮かべる。


「最初会った時、ちょっと思ってたのと違って……。女の人なのは知ってたけど、想像してたより背高いし、関西弁だし、顔もちょっと怖い感じがしたし」

「背高いし顔怖いて。うちは鬼面巨人かいな」


 二人が遊んでいるゲームに出てくるメジャーなモンスターの名前を挙げて遥がおどけると、晶はまた笑った。晶が倒れてしまわないように遥が彼女の腕にそっと手を添えて支えると、その手に晶は自分の手を重ねる。


「でも、クロエと同じだった。優しいところとか、話にいちいち相槌うってくれるところとか、わたしのことわかってくれるところとか」

「それはちょっと、買いかぶりやと思うけど……」

「そんなことない」


 がばりと体を起こして、晶は両手を遥の肩にかけた。遥の体が斜めに滑って、ひじ掛けに頭がぼすんと当たる。遥に覆いかぶさるような勢いで晶は彼女に顔を寄せて続けた。


「わたしのクロエの好きなところ、遥さんだもん。わたし、女の子は好きになったことないし、会ったばっかりだけど遥さんは好き。大好き。ずっと前から……」

「待ち待ち、晶ちゃん。急に盛り上がりすぎやって」


 笑って言うと、遥は晶の背と頭に両手を回した。ぽんぽんと落ち着かせるようにその背中を優しく叩きながらそっと抱き寄せ、胸元に晶の頭をおさめると、遥はまだ湿っているその髪を指先でゆるゆるとすく。


「ちょっとお母はんと激しい喧嘩したりとか、来たことないところ来たりとかでテンション上がりすぎとるんよ、晶ちゃん。な、ちょっと落ち着こ」

「……でも、遥さんもすごくドキドキしてる」


 ぽそりと晶がこぼした指摘に、彼女の頭を撫でていた遥の手が止まった。遥の胸元に耳を当てたまま、晶がそこから彼女の顔を見上げる。

 小動物のような瞳でじっと見つめられて、遥はふうっとため息をつきながら、晶を抱きしめていた腕に少し力を込めた。


「一生懸命我慢しとんのに、この子はもう……」

「遥さん……」

「……晶ちゃん、うちは晶ちゃんとちごて普通に女の子好きになってまう女なんよ。うちの嫁の中の人がこない可愛かわええ子やったんやもん。そらドキドキするて。せやけど、うちも一応大人やからね」


 囁きながら体を起こし、遥は晶の前髪をかき上げてそこに軽く唇を落とした。そしてにこりと微笑むと、彼女は腕の中の少女を抱えるように立ちあがってすぐそばのベッドに向かう。


「助けてあげたいけど、うちが今の晶ちゃんにできること言うたら、話聞くことぐらいしかあれへん。明日の朝になったら送っていくさかい、今日はもう寝よ。な?」

「……」


 言って、遥はうつむいた晶の頭をもう一度優しく撫でた。そして、振り向いて電灯の紐を二度引いたところで、不意に晶は背伸びして両手を遥の顔に伸ばした。ぎゅっと強く自分のほうを振り向かせると晶は目を閉じ、顔を傾けて遥の唇に自分の唇を重ねる。


 小さな豆球の淡いオレンジ色の光の中で、晶は遥の首を抱くようにさらに手を伸ばした。呼吸を弾ませる小さな少女に柔らかい唇と硬い眼鏡を押し付けられ、遥は少しためらったあと、もう一度彼女の細い背中に腕を回す。


「ふぁ……」

「っは……」


 やがて、二人の唇がゆっくりと離れた。淡い光の中でもきらきらと潤んだ瞳を遥に向けて、晶は熱っぽい声で言う。


「あるよ……。話聞く以外にもできること、ある」

「晶ちゃん……」


 正面から合わさった胸と胸が、お互いの激しく高鳴る鼓動をお互いに伝えていた。

 はあっ、とため息をつくと、遥はひょいと晶から眼鏡を取り上げ、それをベッドサイドに置く。


「あ……っ」

「うちの理性にかて、限度ちゅうもんがあるんよ。ほんまにもう、ほんまに、可愛えんやから……!」

「んん……っ!」


 上から覆いかぶさるように、今度は遥が晶に唇を重ねる。

 そのまま、遥は晶の背中を支えながら彼女をゆっくりとベッドに押し倒した。

 そして息を継ぐように遥が唇を離すと、晶が彼女の腕の中でくすりと笑って呟く。


「……新婚初夜かも」

「新婚て。結婚してどれだけ経つ思うてんの。……やけど、これが初夜やったら、今までの分の埋め合わせはせなあかんね……」

「ん……」


 再び重ねる二度目のキス。

 三度目のキス。

 四度目のキス。


 繰り返すたびに、晶と遥の表情はとろんと緩み、瞳が潤んでいく。

 そしてもう一度。五度目のキスを交わした後、遥は晶の瞳を覗き込んで囁いた。


「もうほんまに止まれへんから、覚悟しぃや……」


 その言葉に、上気した顔で晶はうなずく。

 微笑みを返すと遥はもう一度唇を重ね、今度はもっと深く晶に口づけた。



-◆◆◆◆◆-



 電子音の目覚ましが、眠りの世界から遥の意識を引き戻す。

 カーテンの隙間から差し込んでくる光の眩しさに眉を寄せながら彼女がうっすらと目を開けると、目の前にすうすうと寝息を立てる晶の顔が見えた。


 控えめに言って天使。


 そんなことを考えながら遥がぼんやりと目を閉じ、もう一度開くと、そこには誰のいた痕跡も残っていなかった。

 のろのろと体を起こすと、遥は重いため息をつきながら頭をかく。


 あの翌朝、晶を駅に送ってから二週間が経っていた。


 あれから、晶から遥にはメッセージもメールも送られてきていない。遥の側から送ったものにも、既読のマーカーすらつくことはなかった。

 毎日のように入っていたゲームにも、トワイライトフェザーのログイン履歴は見当たらず、遥は晶と音信不通の状態が続いている。


 晶のことを心配しながらも、それ以外にコンタクトの手段を持たない遥にはもう打つ手がなく、ここ二週間、彼女は悶々とした日々を送っていた。


 出勤して仕事をこなし、帰宅してログイン履歴とメッセージを確認し、落胆して寝る。


 その繰り返し。


「……仕事行かな」


 今日もそれを始めるためにごそごそとベッドから遥が抜け出した時だった。

 充電ケーブルだけ繋いでテーブルに置いていたスマホが、ぶるっ、とひとつ震える。


「誰や、こんな朝から……」


 ぼやきながらスマホを手に取り、遥は指紋センサーを指先でなぞった。そして次の瞬間、彼女は寝ぼけ眼を見開いてクッションに正座する。


『起きてますか?』


 そこには、晶からの二週間ぶりのメッセージが表示されていた。急いで画面をタップし、遥はメッセージを返信する。


『起きてるよ!』

『よかった。メッセージとかメールとかいっぱい来ててびっくりしました。ずっと返事しなくてごめんなさい』

『ごめんなさい。心配でいっぱい送ってしまいました。私は大丈夫です。そっちは元気にしてる?』

『いろいろあったけど、なんとか大丈夫です。前のが』


 中途半端なメッセージ。

 またお母はんにひっぱたかれてるんと違うやろうか、という不安が遥の頭をよぎる。

 だがその数秒後、チャットアプリの右上のアイコンが点滅した。ボイスチャットの要請アイコン。『声聞きたいです』と用件の表示されたそれを、遥は急いでタップする。


「……遥さん?」

「晶ちゃん……久しぶり」

「うん、ごめんなさい。前のスマホ、結局お母さんに壊されちゃって」

「そうなんや……」

「うん。それでいろいろあって、お父さんと住むことになって。お父さんが新しいスマホ買ってくれたんだけど、前のパスワードがなかなか思い出せなくって連絡取れなかったの」

「え、待って。お父はん……ええっと」


 どう続けるのが失礼に当たらないのかを迷って遥が言いよどむと、晶がくすりと笑った。そして、晶は穏やかな調子で話を続ける。


「わたしが小さい頃に離婚したの。連絡先も知らなかったし、ずっと会えてなかったんだけど、遥さんちに止まった日、お母さんが大騒ぎしてお父さんにも連絡したみたいで。その後、話し合いとかいろいろして、お父さんにお世話になることになったの」

「そっか……お父はん、ええ人?」

「わかんない。まだ一週間ぐらいしか暮らしてないし。でも、なんていうか……息ができる感じ。いきなり叩かれたりもしないし。あと、掃除とかご飯作ったりとかすると、すごくお礼言われる」

「あはは。まあ、ともかく安心したわ。あ、そや。お父はんのところにおるっちゅうことは、引っ越してしもたん? ……遠く?」


 遥の問いに、晶は一度言葉を止めた。

 少しの沈黙。

 マンションの近くを車が通りすぎる音。

 そして、晶は遥に問い返す。


「遥さん、わたしが遠くに行ったら寂しい?」

「お、駆け引きっぽいセリフを繰り出して来よったな」

「……寂しくない?」

「最近は、物理的に近くにおれへんでも連絡手段はいっぱいあるしなあ。……うん、やけど寂しいよ。……好きやもん」


 遥が言うと、晶は照れたような笑い声でスピーカーを震わせた。そして、彼女はそのまま言葉を続ける。


「わたしも好き。……大丈夫、そんなに変わってないよ。転校もしてないぐらい。定期に遥さんちの近くの駅が入らなくなっちゃったけど……」

「ちゅうことは、あっち側か。オタクライフはかどってまうなあ」

「えへへ……」

「よっしゃ、よかったら明日ちょっと一緒に繰り出せへん? お姉さんがいろいろあの界隈の事教えたるわ」

「ほんと? 行く! ……デート?」

「うん、デート。お昼ぐらいに駅前でええかな」

「10時!」

「午前中かいな。まあええか。ほんなら10時に駅前」

「うん。……あっ、そろそろ行かなくちゃ。学校遠くなっちゃったから。それじゃあ遥さん、また明日」

「うん。ほなね」


 少し名残惜しげにボイスチャットの終了ボタンを押した遥の胸の中には、浮き立つような気持ちがあふれていた。あかん、めっちゃにやけとる。中学生男子かいな、と自嘲しながら両手で頬を揉み、遥が深呼吸してスマホを見ると、そこには遅刻ギリギリの時刻が表示されている。


「やっば!」


 テーブルを蹴立てる勢いで立ちあがり、シャワールームへ駆け込む遥。

 今夜ははよう寝な、ともう明日の計画に思いをはせながら、彼女はシャワーのコックを捻った。

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家出少女の結婚初夜 稲庭風 @InaniwaFuh

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