雨宿り

@koppi121922

雨宿り

 雨の匂いがする。空の色は天邪鬼のように表情を変え、今にも降り出してしまいそうだ。夕立に遭い、びしょ濡れになりながら走る未来が頭を過る。それでもいいと思えたのは、特に取り留めもない一日に対する反抗心からだろうか。いっそこのまま全てを洗い流してくれればいい。そう思いながら、灰色に包まれた帰り道を歩く。


 体も心も、脆いくせに丈夫だ。濡れたって死ぬわけじゃない。傷つけられるのが怖いと言いながら、自分だって無意識に誰かを傷つけてるのかもしれない。世界は複雑だけど案外シンプルで、いつだって自分という存在と対話しながら生きている。


 いつしか、灰色の空は雲を厚くして頭上を覆っていた。時折聞こえる雷の音に驚いている自分が、少し恥ずかしい。


 耳に飛び込んでくる雨の音。聞くたびに、いつもどこか懐かしさを感じていた。屋根を叩く音、地面を叩く音、すれ違った人がさしていた折り畳み傘を叩く音、木々やその葉を叩く音。空から降り注ぐ雨が沢山の音を生み出し、まるで世界が共鳴しているかのように感じる。自分もその一部になれているだろうか。次第に濡れていく髪や体に少し触れながら、そんなことを思う。


 もうすぐ古いバス停がある。そこで雨宿りをしようと思った。ずぶ濡れの状態ならもう諦めて帰ろうとしたかもしれないが、幸いにも雨脚はまだそんなに強くはなく、これぐらいなら雨が止むまで待ったほうがいい。


 帰り道の途中にあるバス停、その後ろには木々に囲まれた神社があり、待合室の真ん中には「無断張紙はお断りします」と書かれた紙が貼られている。利用する人を見たことはあまりなく、日が暮れると少し不気味な雰囲気が漂う。神社から漂う静謐な空気がそうさせているのか、それともただ単に廃墟のような佇まいがそうさせているのかはわからないが、目の前を通るたびに何故か少しだけ惹かれていた。


 そんなバス停に、今日は人がいた。ブラウンのワンピースを着て、白のショルダーバッグを下げた大人びた雰囲気の女性。同じように雨宿りをしているのだろうか。傘を持っている様子もなく、バス停の待合室で雨が止むのをじっと待っているように見えた。


「……あの、隣失礼します」


「はい、どうぞ」


 透き通った声で、彼女はそう答えた。隣と言っても、彼女の位置からは一番遠い、待合室の端っこに座る。彼女はこちらをチラッと気にしたようだが、またすぐに目を逸らし、雨空をじっと見つめている。閉ざされた空間の中で、雨が止むのをじっと待っている。


 だけど数分経っても、一向に止む気配はなかった。夕立にしては少し長い。雨脚が弱まったと思えば、また強く降り出す。傘を持たない身としては、まるで海の上で漂流したかのような気分だった。


 お互い、無言のまま時間が進む。でも不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろどこか落ち着いていて、居心地が良くて、このままずっと雨が降ればいいのにと思ってしまう。


「……雨、止まないですね」


 一瞬、不意を打たれて、その言葉が自分に投げかけられているものだとわからなかった。再び目があった瞬間、それが自分への言葉だと理解する。


「……そうですね。やっぱりあなたも雨宿りですか」


「そうなんです。突然降り出しちゃって。困っちゃいますよね」


 他愛のない短い言葉の交錯。それだけでも、さっきより待合室の空間が綻んだように思えた。彼女の表情はとても優しく、澄んだ瞳をしていた。激しい夕立とは裏腹に、彼女は慎ましやかな出で立ちで、そこに座っている。


 再び、言葉のない空間が僕らを包む。今度はこちらから言葉をかけてみる。


「この辺りにはよく来るんですか?」


「あ、いえ、私今ひとり旅をしているんです。一週間ぐらいかな。今日はまだ四日目です。色々あって、自分を見つめ直す時間が欲しくて。特にプランも考えてないけど、行きたい場所に行こうと思って。まさか今日雨が降るなんて思ってもいなかったから、失敗しちゃったなぁ」


「そうなんですか。いいですね、ひとり旅」


 柔く、温かく、冷たい雨の音に混じりながら、互いに言葉を紡いでいく。


「楽しいですよ。自分の知らなかった景色にも沢山出会えるし」


 そう話す彼女から、旅の途中で出会ったいろんな話を聞いた。旅先で出会った人たちのこと、電車に乗り間違えてあたふたしてしまったこと、夕暮れ時の海の景色がとても綺麗だったこと。夢中で話す彼女は、本当に楽しそうだった。

途中でショルダーバッグから一眼レフのカメラを取り出し、手慣れた手つきで操作しながら話す。


「私、写真が好きなんです。だからこうやって色んな風景を撮ったり、さっきもこのバス停を外から撮ったんですよ」


 見せてもらった写真の中には、さっき彼女が語った景色が彩りを持って映し出されていた。それは四季が織りなす景色だったり、色んな人の表情だったり。雨の中のバス停という閉ざされた空間にいながら、まるで自分が旅をしているような感覚に陥りそうだった。

 でも、どこか引っかかりを覚えたのは、彼女の表情が少し寂しげに見えたからだ。彼女は突然何かを思い出したかのように、少し悲しい表情をしながら言葉を続ける。


「……でも、時々わからなくなるんです。自分はもしかしたら逃げているだけなんじゃないのかって。それとも何かを探しにいこうとしているのか、その何かって一体何なんだろうって。考えば考えるほどわからなくなっちゃって。だから丁度この夕立に遭った時に思ったんです。この雨が全部洗い流してくれたらいいのになぁって」


 突然見せた彼女の暗い表情に、どうしていいかわからなくなる。取り留めのない毎日を過ごしている僕にとって、彼女の生活はとても眩しかった。そんな彼女がこれまでをどう生きて、何に悩んで、何を考えて今この場所にいるのか。僕には知ることが出来ない。それは当然のことであり、だけど悲しかった。どんな言葉をかけていいかもわからないまま、数秒。


「……ごめんなさい、私、なんでこんな話してるんだろうね」


 力のない笑顔を浮かべながら、彼女はそう言った。気づけば、もう雨脚は弱まっていた。雷の音も遠のいている。雨雲が過ぎ去り、もうすぐ晴れ間が覗きそうだった。望んでいた瞬間のはずなのに、何故か心は晴れない。


 ……いや、僕も同じなんじゃないのか。同じように「このまま全てを洗い流してくれればいい」って思ったんじゃないのか。雨に濡れても死ぬわけじゃない。だからこそ、迷うんじゃないか。


「突然ごめんなさい。私、もう行きます。なんだか色々話せてすっきり、」


「あの!」


彼女の言葉を遮るように言った。


 「……多分、答えなんてないんだと思います。雨が止んでも、いつかまた雨の日が来るし、それは霧雨かもしれないし、夕立かもしれないし、もしかしたら台風かもしれない。恋をして、結婚すればゴールって訳じゃないみたいに、死ぬまで探し続けなくちゃいけないものなのかもしれません。僕も……ずっと探している最中ですし。だから……今を楽しんでください。旅を楽しんでください」


 勢いで言ってしまった自分の言葉に、少し気恥ずかしくなる。それでも彼女は「……ありがとう」と、屈託のない笑顔でそう言った。


 雨が降り止んだ灰色の世界で、お互いにそれぞれの道へ進む。取り留めのない毎日に、少しだけ彩りがついた。子供の頃に見た彩雲が、脈絡もなく脳裏に映像として過る。


 彼女とはもう二度と会うことはないのかもしれない。突然の夕立が巡り合わせた瞬間はとても短く、それでも確かに僕らの中で存在していた。


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