贄は捧げられた

 橘川翁は「鬼」ではなく「悪魔」となぜ呼ばれていたか。それが藤堂には引っかかっていた。「鬼」であれば、「厳しい」とか「恐ろしい」という印象もあるが、同時に「強い」という含みがある。しかし「悪魔」といえば、災いをもたらすものであるとか、人をたぶらかす、悪い印象のみがもたらされる。藤堂にはそれが不思議であった。大広間での顔合わせが終わった後、藤堂は橘川邸の庭を散策しながら考えていた。庭にはアジサイやアサガオ、アザミなど様々な植物が繁茂している。

藤堂は真相にたどり着くにはもっと橘川翁のことを調べねばなるまい、そう思ったのである。しかし、家族たちはみな一様に黙りこくり、翁のことを話そうともしない。異様な光景であった。昭子だけが「おじいさまは善き人でしたわ。私と遊んでくれましたもの」と無邪気な一言を述べただけである。そこでY町の山の向こうに住まう『橘川秀吉翁成功伝』を書いた親族に話を聞くことにした。


藤堂は汽車に乗る。汽車は黒い煙を吐き出しながらやがて軍港で栄えている街に向かう。汽車は心地よいとは言えない振動をしながら山の中を進んでいく。混雑した中心街を超え、閑静な集落にその家はある。「ごめんください」藤堂は玄関を強めにたたく。扉を開け、面倒くさそうに出てきたのは一人の老人であった。「僕は藤堂と申します。橘川翁のお話をお伺いしたいのですが」『橘川秀吉翁成功伝』を差出しながらそう告げた。老人は眼鏡の奥に潜むきらきらとした瞳を輝かせた。

「儂の書いた本を読んでくれたのか」

「ええ。拝読しました。興味深い内容でした」

「おおそうかい。で、何を聞きたいのかい」

「橘川翁が「悪魔」と呼ばれている理由ですね。僕は昔大層橘川翁に世話になりました。そのときはとてもよくしていただいたのですが」

「その本にも書いてあるが、とにかく人たらしでのう。人をたぶらかすのがうまい男じゃった。天性のヒモ体質といったところか。小金持ちであった奥方の実家をたぶらかし、会社を大きくした。同時に、しゃぶるだけしゃぶったらあとは捨てる。そんな冷徹さも持つ男であった。だから商売仲間の間では「悪魔」と呼ばれていたんじゃ。まあ、それだけではないがの」

老人は噂好きそうな瞳を輝かせ、探偵に鵺がなくような声で告げた。探偵は眉をひそめた。

「親族の恥部となるような癖があったのじゃ。誰にも止められない癖がの。それは誰にも知られてはならぬ。それだけは儂にも言えない。」

「そうですか…。そういえば奥方はひどくつらい扱いをなされていたようですね。」

「奥方はまさにしゃぶりつくされた骨じゃ。骨の髄までな。」

そういうと老人は眼鏡をくるくると拭いた。

「あの三人のお子は奥方の子供じゃ。孫は一人養子じゃがの。」

「養子?それはなぜ」

「それは先ほどの話にもつながるでのう。悪魔と呼ばれるが故それぞれに妻をめとってもうまくいかないのじゃよ。たいてい、縁談の段階で断られる。長男のところはたしか何年かはもったが、奥方が実家に帰り、離縁することになってしもうた。次男のところは奥方と死別してな。奥方の葬式にも儂は行ったが、よい葬式じゃった。それで寂しがって孤児院から養子を迎えたそうな」

「さすが、よくご存じですね」

「当たり前じゃ。秀吉とは儂がいっとう仲がよかったからのう。」

三時間ほど話しても家族関係の収穫はあった。しかし、それ以上の収穫もない。藤堂にはまだまだ腑に落ちないことが多く、気分はすっきりとしなかった。


「ところで、儂の新しい本に興味はないか」

 そう別の話にそれた矢先であった。玄関の呼び鈴がなった。「客人の多い日じゃのう」と老人が立って玄関に向かう。玄関から威勢の良い声が聞こえた。

「ご老人、藤堂というものはいまこちらにいらしているか」

藤堂にはどこかで聞き覚えのある声であった。どたどた、と玄関から上がってくる音がする。応接間の扉が開かれた。そこには白いズボンにサスペンダー、白いシャツと白ずくめの背の低い男が立っていた。その男は少し長めの髪をしているが上方役者を思わせる顔つきをしており、青白い顔には走ってきたのか、朱がさしたような色が混ざっていた。その男は藤堂がよく知る刑事、大谷であった。

「おう大谷刑部、聊か遅い出陣だな」

藤堂は飄々と大谷に声をかけた。大谷は汗を袖でぬぐい、怒鳴った。

「阿呆、そんなこと言ってる場合じゃないぞ。事件だと思ってきてみたら本当に事件じゃないか」

「それはその通りだ。今情報収集をしているところだ。殺された橘川翁についてのな」「違う、そっちじゃない。そっちじゃない。俺が到着したときにはすでに」「すでになんだ」「橘川家のご長男、コウジが亡くなっていた。包丁でざっくりやられてだ。とにかく急ぐぞ。急いで橘川家に向かうぞ」


 橘川家では蜂の巣をつついたような大騒ぎにはなっていなかった。黙って、庭の大きな松の木に絡みついた耕史の死体を眺めているだけであった。それは藤堂にとっても大谷にとっても不気味な光景であった。藤堂は耕史の死体を見るなり、顔をしかめた。彼は死体や超常現象が何よりも苦手なのだ。そんな中、大谷は松の木に近づき、死体をまじまじと観察する。

「男の犯行だな。でないとこんな風にはできない。おい、これ、何の花だ」

大谷は藤堂を呼びつける。藤堂は嫌そうな顔をしながらも、死体に近づく。

「これは所謂クローバーじゃないか」「なんでこんなもん握らされているんだ」「メッセージだろう。薊の紋とおんなじだ」「薊の紋?」「あとで話すよ」「で、どういう意味なんだ」


「復讐だろう。恐らく」

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