海風の吹く宿で獣は笑う
夜八時。雨が降り続く中、しめやかに、橘川翁の「野辺の送り」が執り行われた。橘川翁はこの町のみならずK県内では誰もが知る大金持ちの家である。その葬列はひどく立派であった。山辺に提灯の灯りの行列が行くのを海辺の宿屋の娘、せい子は窓辺に座り見ていた。K県Y町は海辺と山のふもとに集落があるが、焼き場は山の方にしかない。故に葬列が行われる際は山に遺体を運んでいくのだ。近所でも、他所でも「悪魔」と呼ばれていた橘川翁はあまり自分とはかかわりがなかったがどのような人物であったか、そう思いをはせていると、もしと玄関の扉が滑るように開き、若い男の声が聞こえた。「ハァイ」とせい子は声をかけ、急ぎ宿屋の主である父を叩き起こし、玄関にかけて行った。玄関には上品なグレーのスーツを着た、身の丈六尺もあるか、大きいと近所から言われるせい子の父よりもより大きい男が飴の缶を開けようとして苦戦していた。
「うちになにか御用で」せい子は海辺の町育ちらしく、威勢よく声をかけた。男はせい子の姿をちらりと見、再び飴の缶に視線を戻し、顔を赤らめた。どうも、缶を開けられなかったのが恥ずかしかったらしい。「ああ、君。君はこの宿屋のお嬢さんですか。僕は橘川婦人にここの宿を紹介されたのです。この宿に泊まりたいのですが。あと失礼だが、この缶を開けてくれたまえ」男はおずおずと缶を差出した。せい子はその缶を黙って受け取り、缶に力を込めた。缶は力を要さず、軽やかな音を立て開いた。「すまないね。ありがとう。お礼に君にも一つ、差し上げよう」男はせい子から開いた缶を受け取ると白い歯を見せ、一粒をせい子の手に押し付けた。白いドロップであった。男は嬉しそうに桃色のドロップを含むと沈黙が訪れた。その沈黙を破ったのはせい子の父の喧しい足音であった。せい子はその足音にいつもは感じない恥じらいを感じた。
「へえ、橘川のお宅から伺っています。御客人、名前は確か藤堂さま。こちらにお名前をお書き下せえ。」そう言って父は袋戸を開け、横帳を取り出した。男は懐からペンを取り出し名前を書いた。せい子と父はそうっと覗き込む。
「藤…堂…蔵…人さま。珍しいお名前で」父はにっかりと汚い歯を出し、笑う。男―藤堂蔵人―は父の失礼な指摘に対し、何ら気にも留めぬように「よく言われます」とだけ答えた。藤堂は横帳に目線を向けるとおや、と一言漏らした。せい子は黙りこくった父に代わりに口を開く。
「如何いたしました」
「あ、いや、気にしないでおくれ。僕の外に一人お泊りなようだね。あまり夜更かしも出来ないなあと思って」
「アアこの方ですか。この方、一週間前からいる御病気の方でね。こっちには静養のためいらしたと聞きましたよ。」
「岡部さん…職業欄は何も記載なされてませんね」
せい子は客の私的な領分に踏み込んでくるとは、この男は何者だと思った。ふと帳簿を見れば、職業欄には「探偵」と一言書かれていた。探偵と言えば、近年Eという作家の探偵小説が有名だ。その探偵がこんなところに如何なる用事があるのか。がぜん、せい子は知りたくなってきた。
「ネエ、藤堂さま、藤堂さまはどうしてこんなさびれた海辺に来たの?造船所で栄えている山の反対側に行けばよかったのに。ひょっとして橘川の大旦那の突然死が絡んでいるのじゃあないかしら」
「こら、せい子。客人に失礼だぞ。それに探偵というのは職業上の秘密があるってE先生の小説に読んだ」父は意外と博識である。せい子は父をほんの少し見直した。藤堂は声を出して笑う。
「察しのいいお嬢さんですね。詳しくは言えませんが、その通りです。僕は橘川の大旦那さまのことで少しね。ああ、主人、お金は橘川婦人が立て替えて下さるそうなので、請求は橘川家にお願いいたします」
「かしこまりました。ゆっくりどうぞ」
「それともう一つお願いがあります。K県警の大谷という刑事に電報をお願いいたします。内容は「シキュウキタレ」でお願いします。それと彼がここに泊まれるよう手配をお願いいたします。彼の分のお金は僕が払いますから」
宿屋海猫屋はにわかに珍客が増えそうだ、とせい子は思った。「オイ、部屋までアナイせい」と父に命ぜられ藤堂を引き連れ、部屋に向かった。海猫屋は五部屋しかない小さな宿屋である。せい子は「夜更かしをする」という彼のセリフから岡部の部屋から少し離れたところに彼をあないするつもりであった。廊下を歩いていくと偶々寝間着の岡部とすれ違った。岡部は身の丈の大きな、スーツをかっちり着込んだ男を見ると目を見開いた。
「こんな田舎の漁師町にきっちりかっちりした格好の男が来るなんて、大体金持ちか代議士の先生だろう。嬢ちゃん大物連れてきたな」
「アラ、違うわよ。岡部さん。この人は」と、そこまで言うと藤堂に口をふさがれた。「文豪気取りの書生です」藤堂はおだやかに言う。
「原稿を書くので、遅くまで起きていることがあるかと存じますが、ご迷惑をおかけいたします」
「おう、構わないぞ。俺は少し患ってな。空気が良いこっちに逗留する事にしたんだ。まあ、売れたら一冊献本してくれや」
「ええ。必ず」
岡部は厠へ向かっていった。「さて、部屋に案内してください。お嬢さん。私のことはしがない書生ということで通してください。お願いしますね」
藤堂は笑む。まるで賢しい、狼や虎を連想させる笑みだった。
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