「悪魔」の葬儀

 その男は「悪魔」と呼ばれていた。男は盛んであった事業に参入し、見事勝ち抜いて財閥を作り上げたのである。ところで「悪魔」と呼ばれるようになった所以は諸説ある。男の親類が出した伝記には「頭脳、笑み、人たらし、全てをとってもその男は悪魔のやうだった。事業の成功により他の事業者に恨みも多く買ったであろう。しかし、その男はいつも笑っていた。」と書かれている。その悪魔が昭和××年6月、雨の多い時期に急逝した。男の歳は七六、髯や髪は白く、眠っているような姿で妻に発見された。その「悪魔」の葬儀が、執り行われることになった。


 葬儀の当日、やはり雨が降っていた。悪魔をあの世に送りかえすその儀式は大々的に男の屋敷で行われた。大きな屋敷は主人を喪い、がらんどうとしている。さながら心臓を失くしたようだ。雨にぬれた屋敷の大広間には三十人程か、衆人が集っていた。その他にも玄関には常に人がたむろし、悪魔の屋敷にはその日百人を超える人々が来たのである。男には妻、三人の子供、二人の孫がいた。参列者が雨にぬれながらお悔やみの言葉を男の家族に語る。しかし家族は血の気が通っていないような返事をかえすばかりである。悪魔の恩恵に浴していた親類が読経の最中、葬儀の席でひそひそと話す。


「ねえ大旦那が亡くなって、橘川財閥もどうなることかしら」

「私達も大旦那に世話になりっぱなしでしたからねえ。ところで大旦那の跡継ぎはどうなるのかしら」

上品そうな女はコソリと言う。

「決まっていないのでしょう。決まっていたら、橘川のおば様もあそこまで機械的な対応をしないでもっと嬉しそうにするはずよ」

下卑た色の紅をさした女はくすくすと笑う。

「奥様、大旦那にいじめぬかれていたのだもの。それこそ悪魔に虐げられるようにね」

「そうですか。悪魔ですか。鬼ではなくて悪魔ですか」

二人の女の側から遠くまで通る、しかしながらつぶやくような声が聞こえた。二人の女が振り返ると品のいい仕立てのスーツを着た紳士が一人、ごちていた。品のいい男は、身の丈六尺ほど、かっちりとポマードで頭を固めている。年の頃は三十路に見える外見をしている。

「何故、橘川翁は鬼と呼ばれなかったのか。恐ろしいものなら「鬼」でもよい筈なのに、親類からも「悪魔」と呼ばれるあの方はなんなのだ」

真っ赤な紅を引き、あだっぽい雰囲気を通わす女は流し目をして男を見つめる女に声をかけた。

「なんなのかしらあの男」

「知らないわよ」

 坊主の読経の声が大きくなり、鈴の音が響く。女たちは顔を見合わせ、叱られている気になり、黙りこくることになった。


夕刻。やがて読経もおわり、老女が抜け殻にすがりつく。その顔は参列者が息をのむほど白く、その表情はまるでこの世の終わりであるというものであった。すがりつく老女の着物から見える腕や首にはうっすらと赤い線も見える。品のいい男は、主人を喪ったその姿を遠目からただ、ただ眺めている。すすり泣きの声が大広間に広がる。虐げられていた奥方が何故、そんな表情をしていたのか。それは後に譲ろう。

嗚咽のやまない婦人に声をかけたのは小さな女児であった。天使のように穢れのない容姿をした少女は青ざめた顔をした祖母の頭を撫で、ふんわりとほほ笑んだ。この、悪魔の妻の嗚咽以外が一切しないこの会場であたたかなともしびのような声がした。

「おばあさま、そんなに泣かないでくださいな。おじいさまはこんなにお友達に囲まれているんですもの。幸せですわ。」

孫の温かい言葉に会場に漂っていた冷たい空気から一転、温かい空気が漂い始めた。しかし、「悪魔」に残された家族と品のいい男にとっては、何故だか背中に冷たい一本の線がピンと走ったように思えた。


 一刻が過ぎ、やがてぱらぱらと人々が天に送り返された悪魔の顔を覗き込んでいた。悪魔は、ただ眠っていて次の瞬間起き上がりそうな顔色であった。大広間では人々は悪魔の顔を拝み、なにを想うか。とある貴婦人はやはり「悪魔」の異名におびえたような雰囲気で男の顔を見る。とある男は、温かな視線を魂を失くした悪魔に捧げる。誠に奇妙な拝顔が式場で繰り返された。その中で品のいい男は何かを考え込むようにしてただただ、座布団に座していた。それでも視線は「あの方」に向けていた。


 やがて、段々と人々は故人を惜しむよう固まり会話を始める。大広間では笑い声も聞こえない、ただただひそやかな会話が繰り広げられていた。それは異様な光景であった。広間の中央には、敬うべき悪魔を亡くした羊たちが青白い顔でこそこそと集まり、それを同心円状に他の参列者たちが取り囲み、しめやかな雰囲気で会話をしている。とても奇妙な光景であった。そこにすうっと割って故人の顔を拝顔しにいったのが、あの品のいい男である。男が歩いていくと人々は男を花道のように割って迎えいれたのだ。誰も見知らぬようで、男の姿を盗み見ると男は誰かを囁きあう。

 やがて、男は「悪魔」の下にたどり着く。悪魔はそこに臥している。男はじっくりと布団に横たわる「あの方」を観察する。―血色の良い死んだとは思えぬ顔、白い着物、悪魔とは思えぬ丸い耳、旁にいる老女―そっと、男はしゃがみ込み、布団をめくる。老女はあわえたように声をかける。

 「もし、なにをなさるのです」品のいい男は弾んだ声で言う。

「あの方が本当に亡くなったかどうかわからないので確かめたいのですよ」

「あの方?そもそもあなたは何者なのですか」

そう老女は金切り声を上げて男に掴み掛る。男はこう答える。

「橘川翁にはかつて若いときに世話になりました。奥様、あなたにもね。私は藤堂蔵人。若い時分、お金が無いときには随分と援助を頂きました。職業は、探偵です。」

「探偵。藤堂。戦中の好景気のさなかに父様がお拾い致した」

「左様で」

 男はほろほろと手を放した老女に向かい、笑いかけた。当時にしては色白で、髪を整えてあり貴公子のような印象を与える男―藤堂蔵人―はスーツのうちに手を入れにっかりと笑っている。参列者や親類、家族までも誰かは分からない。悪魔とその妻、蔵人にしか分からぬ絆があったようだ。妻はぴたりと止まり、貴公子が布団をめくるのを止めずにただ見つめるだけであった。

 「ほら、奥様、橘川翁は誰かに取られたのですよ。心の臓腑を。病死ではありません」

 「なんてことを。これはなんでしょう」

現実の悪魔の身体には赤く莇の紋が付けられていた。

 「アザミの花ですね。アザミの花言葉は復讐。橘川翁は僕は多大なる恩がある方だ。しかし、きっと僕の知らない事もやっておおせの筈だ。僕は調べ上げて、橘川翁の敵、必ずとりますよ」

蔵人は燃えるような目つきで言う。写真の中の「悪魔」に向かって。


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