黄色の日常

@kyla

黄色の日常

昨日、黄レンジャーを見かけた。

 夜の十一時くらいか。残業を終えた俺は、半分抜け出た魂をなんとか抑えながら我が家に帰った。我が家と言っても、しなびたアパートでの一人暮らしである。ペット禁止だから、帰ると同時に飛びついてくる犬もいない。それ以前に犬アレルギーなので、飛びつかれるとひとたまりもない。

 寂しいひとり暮らしかというとそうでもない。いや、むしろ忙しい。来る将来に備え、いつか出逢うはずの運命の人との幸せな空間を実現するための準備がある。寝る間も惜しいほどだ。人はそれを妄想というけれど、シミュレーションと言い変えてしまえば、実に戦略的である。

 戦略家である俺のシミュレーションでは、運命の人の誕生日は夏である。きっとその人はサプライズが好きだから、初夏の今から準備を始めた方がいいに違いない。昼間のデートは、まあなんとかするとして、今日はディナータイムのシミュレーションだ。その日のために研究している美味しいサングリアも完成間近だし、それいかに提供するか。それが今夜の課題だ。会社から帰る時も、そのことしか頭になかった。残業を切り抜けるにはこれが一番なのだ。

 夜道を駆け抜ける黄色い人影を見たのは、そんな時だ。驚いて、すでに半分抜け出ていた魂が全部スポンといってしまうかと思ったけれど、なんとか踏みとどまり、黄色い人影を視線で追った。

 暗くとも、黄色は目立つ。黄色い全身タイツとヘルメットの人影は、目立って仕方ない。そんな黄色が、いや、そんな黄色だからこそ、あたりを見回しながら妙にコソコソ歩いている。

 どこかで見たことがある。もちろん、卒業アルバムや会社の取引先の類ではない。あのエグいほど黄色いタイツに走る一本の銀色のライン。手袋についたヒラヒラ。でかいバックルのついたベルト。小さい頃、テレビか何かで見たのだ。

 思い出した。マイクロレンジャーだ。ヒーロー戦隊ものでも異色中の異色作、マイクロレンジャー。おそらく名前を先につけ、ストーリーを後付けにしてしまったのだろう、そのやたらと規模の小さい物語は、当時の子どもたちには噴飯ものだった。ヒーロー戦隊史上唯一、ワンクールも放送されずに打ち切られた伝説のヒーローである。北関東一帯制圧という、現実的には大きいが、悪の秘密組織的にはみみっちい目論見は、マイクロレンジャーと戦うミニマムな組織としては、精一杯な目論見だったのかもしれない。俺はそんな「SFの中に現れる、どうでもいい現実感」が、今は好きだと言えるが、あの当時は受け入れることができなかった。

 そんなマニアックでシュールなレンジャーのコスプレをして街を練り歩く人間がいるとは。やたらとあたりを見渡しているが、そのクセ俺には気づいていない。この迂闊さはどことなく愛らしい。

 さっきまで半分抜け出ていた魂が、やつを追えと俺に告げた。ここからなら家も近いし、明日は休みだ。ちょっと遠回りしてみるのも面白い。

 辺りを見渡しながらぬき足差し足で歩いている。こっそり歩くなら、そんな格好して出歩かなければいいと人は言うかもしれないが、おそらく黄色は、日々家の中だけでコスプレを楽しんでいたのだけれど、どうしてもその格好で外に出たくなった。今日が初めてかどうかは知らないが、ただちょっと外に出るだけでは物足りなくなり、練り歩いてみたくなった。そして、俺に見つかった。そういうことだろう。

 どうやら帰る途中だったらしく、黄色は自宅というのか秘密基地というのか、とにかくヒーローには似合わないしなびたアパートに入って行った。ヒーローらしい素早い動きで、ヒーローらしくないコソコソした歩みで入って行ったその部屋は、俺の隣の部屋だった。黄色は、隣人だった。

 

 となりの部屋に住むのは、確かひとり暮らしの大学生だ。あまり近所づきあいはないからよく知らないが、一度部屋でのんびりしていると、隣の部屋から「レポート~!提出日明日~!間に合わない~!」という悲鳴が聞こえてきたことがあり、誠に勝手ながら大学生だと判断させていただいた。

 そうか、彼は黄色か。

 目が合っても挨拶もしない陰気な青年だと思っていたが、そうか、彼は黄色か。

 赤ではなく黄色を選ぶそのセンスがたまらない。決して主役ではないが、いない場合もある緑ほど存在感が薄くもない黄色。そこに謙虚の心やささやかな自己主張を感じる。

 きっと――。俺は想像する。きっとこの黄色は小さい頃にヒーローになれなかったのだ。友達とするヒーローごっこも、戦闘員Cの役だったに違いない。幼い黄色は心に誓った。いつかヒーローになってやる。そしていつも僕を戦闘員Cにするタカシをやっつけるんだ。タカシはいつも赤レンジャーの役をするけれど、実際のところ悪の統領がイメージ的に近いし、よしんば戦隊メンバーだとしても、紫あたりがお似合いだ。そう堅く誓った。タカシという同級生がいるかどうかは知らないが、具体的な名前があった方がイメージを掴みやすい。

 黄色は夢を叶えるべく、全身タイツを買った。そこらでは取り扱っていない黄色の全身タイツを見つけるのは、骨の折れる作業だったに違いない。黄色のスプレーを吹き付けるというアイデアもあったが、乾いたらパリパリするから動きにくい。黄色はそこに気付ける賢い子だった。フルフェイスのマスクはヘルメットを改造すればいいし、これはスプレーでも構わない。黄色はそういう妥協もできる大人な子だった。

 買った場所は、おそらくドンキホーテだ。パーティーグッズ・コーナーにて、トラックスーツという名で売られているその黄色いスーツは全身タイツではないが、そもそもヘルメット、否、フルフェイスのマスクを被るのだから頭部は必要ない。問題は腕と体に入っている黒いラインだが、四階で売っている夜道で光る銀色の交通安全テープを縫い付けた。俺が遠くからでも見つけられた要因であるのはこの交通安全テープだが、実はマイクロレンジャーのスーツのイメージに一番近い。

 こうして出来上がったマイクロレンジャースーツを、毎晩着ていたのだろう。なんといじらしい。俺はそんな黄色に、興味を持った。

 

 ワインのオシャレな入れ方は、左斜め後方から肩を抱くようにそっと手を肩に添え、もう片方の手でグラスに注ぐことだと確信した。正確にはサングリアだが、運命の人は甘いものが好きだろうからワインよりこちらがいい。食事はサングリアに合うものを用意するとして、一番の問題は、食事の後だ。俺のシミュレーションでは先週買った三人掛けのソファにふたり並んで映画を見るのだが、これは何を見るべきか。三人用を買ったのはスペースに余裕を持って抱きつくためだが、ここはやはりラブストーリーだろうか。とりあえず、いい映画を見るとして、俺は抱きつくタイミングを計るために、実際にダイブしてみた。しかし、思いの他ソファは軽く、俺の体に押されてずれてしまい、俺は壁に思い切り頭をぶつけてしまった。ゴンという音が体の芯まで鳴り響く。痛みに耐えながら、シミュレーションを続ける。

 そうだ。セリフが大事なのだ。俺はシミュレーション用に購入したクマのぬいぐるみの肩を抱きながら、そっと囁く練習をする。

 「今夜の君は、最高だよ」

 ダメだ。チープな映画のチープなラブシーンは、むしろコメディだ。

 「君の瞳に、乾杯」

 ダメだ。噴き出さずに言える自信がない。

 また、どこまではっちゃけていいのかも問題である。せっかく運命の人が来て、ふたりで映画を鑑賞したのだ。運命の人は少し照れ屋に違いないから、いきなりいちゃつきだした俺に、本当はまんざらでもないのに一応拒むフリをする。その時俺は、なんて言えばいい。ふざけてガオーッと襲いかかる時、どう吠えればいやらしくない。

 「食べちゃおうかなー」

 言ってみたそばから自己嫌悪に陥った。こんなチンケなセリフ、今時酔ったおっさんでも言うまい。

 「俺から、逃げられるかな?」

 いかん。これではヒーロー戦隊に出てくる悪者が、小さい子を浚って言うセリフである。

 頭に浮かんだセリフを、ひとつひとつ声に出しながら検証する。時にはソファに座り、時には立ち、時にはまたがり、彼女のハートを掴んで離さない一言を研究する。あくまで自然に、ドラマチックになりすぎないよう、かといって淡泊になりすぎないよう、絶妙な具合を俺は研究する。実際これは意外と難しい。声に出して練習しているとついつい熱が入り、最終的には安い芝居みたいになってしまうのだ。このアパートの壁は決して厚くないから、隣の部屋に聞こえないか心配だ。俺は声が大きくなっていることに気付き、「静かにしようぜ」と自分に言い聞かせて、シミュレーションを再開させる。長い夜になりそうだ。

 

 最近、黄色が妙に目につくようになった。黄色の行動自体は変わらないが、今までは視界の端っこに入っても気にしなかったのが、今は気になって仕方ない。

 どうだ、今日も頑張っているか?

 今日も、世界は平和か?

 俺はそっと彼を見守っている。

 そのせいかやたらと目があうので、最近は頭を下げる程度に会釈するようになった。俺も、いきなり元気に挨拶するのもなんだから、まだ会釈だけだ。いつかは敬礼したいと思っている。

 そんな折、アパートで事件が起きた。いや、起きようとしている、らしい。情報源は大家の家舗さんだ。家舗さんは井戸端会議名誉議長とも呼ぶべき噂好きのご婦人で、ワイドショーがももひきを履いて歩いているようなものだ。「事件の臭いがするわ」が口癖である。

 「あなたの隣にいる学生さん、実はねえ」と、朝の挨拶も早々に切り上げ、顔を近づけてきた。

 曰く、今まで家賃を払う時以外姿を見せなかった黄色だが、最近は双眼鏡を持ってベランダに立つ目撃されるという。趣味にプラスアルファした人たち御用達だという高価な双眼鏡で、近所を見渡しているというのだ。

 「でしょお?」

 「でしょお?」と言われても、何が「でしょお?」なのかはよく分からないが、目的は間違いなく防犯だ。なぜなら黄色はレンジャーだからだ。

 「それも、ずっとキョロキョロしているの。何か探しているのかしら」

 赤レンジャーだろう。

 「ひょっとしたら、誰か見張っているのかも!怖いわあ。気をつけなくちゃねえ」

 それだけ言うと、さっさとどこかへ言ってしまった。

 黄色はレンジャーだぞ。ストーカーみたいな真似をするはずがないだろう。

 しかしその夕方、俺を不安にする出来事が起こった。俺が仕事から帰ってくると、黄色が双眼鏡を使って辺りを見渡しているのを見かけたのだ。黄色がレンジャーであることを知っている俺も、それは怪しいだろう、それはまずいだろうと思いながら、それでもこれはあくまで悪を監視するためなのだからと気づかぬフリをした。

 俺はアパートの前にある自動販売機の前に立ち、今夜テレビで漫才を見ながら一杯やるためのビールを購入した。たまにはこうしてシミュレーションも休まないと、いい流れを作ることができない。

 ビール代も馬鹿にならないから一日一本と決めている。明日の分もついでに買っておくか、自動販売機の前に立って悩んでいた時、ふと気がついた。

 黄色の双眼鏡がこちらを向いている。さっきまで定まることのなかった視線が、俺に注がれているような気がする。俺は悩むフリをしながら、顔をアパートの方に向けぬよう目線だけで黄色を見た。知っている人を見つけたから目を向けた、というには長すぎる。

 こちらを見ている。間違いなく。いや、見張っている?

 最近目が合うのはお近づきのしるしではなく、見張られていたのだ。

 だとしたら、これはいかんことである。どういった経緯でそんな誤解が生まれたのかは知らぬが、とにかくいかんことである。レンジャーが監視するくらいなのだから、俺は悪だと思われているに違いない。それならば、なんとかして誤解を解かなければならないが、だがどうやって?

 アパートの入口に向かいながら、俺は横目で黄色を追った。黄色は双眼鏡を外し、肉眼で俺を一瞥すると、イソイソと自分の部屋に戻って行った。

 部屋に戻ってもなんだか落ち着かない気分だ。なんだというのだ。黄色の奴、よりによって俺を見張っているのか?

 いや待て。シミュレーションとはあらゆる状況を想定すべきだ。俺の勘違いということもありえる。例えばたまたまアパートの近くで赤レンジャーか何かを見つけた黄色が、それを探しているだけなのかもしれないのだ。小さい頃、親父が言っていた。むやみに人を疑うな。俺のシミュレーションは、「人への信頼」という美しい信条に基づいている。もう少し様子を見るべきか。

 しかし、そうも言っていられない事態となる。次の日、俺は自販機の前で立ち止まった。ビールを買うふりをしながら横目でそっとアパートのベランダを見ると、やはり黄色が双眼鏡を持って立っている。そしてこちらを見ている。なんだかんだで不気味だ。

さすがに黄色も大学生、毎日監視する訳にもいかないらしいが、意識してみればここ数日、確かにその姿が視界に入る。部屋にいても黄色のことが気になり、運命の人との時間も集中しきれない。やはり、今俺の心を捉えている問題を解決せずには何も進まないのかもしれない。

 悶々としていると、いきなり隣の部屋からガタガタと物音が聞こえてきた。一体何の音だ。これはもう仕方ない。俺の隣の部屋の様子を探ることにした。

 俺は壁にガラスコップを当てて、黄色の部屋の物音を聞くことにした。ストーカーみたいだが、致し方あるまい。

 十五分ぐらい経っただろうか。もういい加減疲れたと思っていたら、コツッ、という音がした。グラスから響いてきた音は予想より大きい。聞いたことのある音だ。壁にグラスを当てて、本当に向こう側が聞けるのかは甚だ怪しかったが、意外といける。俺はさらに神経を集中させる。

 それにしても、何の音だ。以前聞いただけじゃない。もっと近い過去、例えば今日。どこだ。どこで聞いた。俺は一度壁から耳を離し、肩を揉んだ。じっとして動かない、というのは案外疲れるものだ。俺はもう一度気を取りなおして、壁にグラスを当てた。静かに当てたと思ったが、何の物音もしない部屋では、そのコツッという音すら耳につく。

 ・・・・・・。

 コツッ?

 この音か!

 なんてこった。ひょっとして黄色も俺の部屋の物音を聞こうとしているのか。いるはずなのに何の物音もしないのは、黄色も身動き一つとらずに壁に押し当てたグラスに耳をひっつけているからか。

 これは勝負だ。俺は息を殺して神経を集中させる。おそらく壁の向こう側でも同じことが行われているに違いない。俺と黄色は壁を挟んで対峙する。グラス片手にもやし学生とおっさんが壁に張り付いている画は、とても見られるものではないかもしれないが、これでもふたりは真剣である。

 「出て来いこのやろう」

 シミュレーションをしている時、俺は口数が多くなる。ひとりでペラペラ話しているものだから気持ち悪いかもしれないが、シミュレーションに大切なのはリアリティだ。

 気分は張り込み中の刑事である。横に住んでいるのは悪ではなくレンジャーだが、俺は俺の中にいる相棒に声をかける。

 「よう、動きはどうだ?」

相棒は言う。

 「じっとしてやがる。そう焦るな。ちょっとでも動きをみせたら・・・」

 俺が返す。

 「ふん、俺がこの手で、ってか」

 あくまでシミュレーションだから、一人二役である。

 その時、隣の部屋でコトッっという微かな物音が聞こえた。さっきの音と似ているが微妙に違う。さらに、何かガタガタという音が聞こえてきた。いくらグラスを使っているといっても、こんなに隣の物音が聞こえるのは大問題だと思う。いや、今はそれどこじゃない。俺は、いったん呼吸を整えてもう一度隣の部屋の音を聞こうとした瞬間、インターフォンの音が鳴り響いた。やって来たのはおそらく・・・・・・。

 ドアを開けると、そこにやはり黄色が、否、マイクロレンジャー・イエローが立っていた。まさかこの格好で来るとは。全身をエグイぐらいの黄色で包み、左手を腰にあて、右手の人差し指を顔の付近に掲げる、決めポーズを取っている。しかしよく見ると、その人差し指がプルプルと震えている。ものすごく緊張しているのだろう。いくら顔を隠していても、ヒーロー戦隊のコスプレをして隣人の家に乗り込むのだ。ちょっとどころの勇気と勢いで出来ることではない。日常をぶっ壊す心意気と、もしもの場合は本当にぶっ壊れる覚悟がないと、とてもじゃないけど出来ない。

 黄色は震える指を俺に向けた。

 「悪に代わって、あ、違う!」

 一番大事な決めゼリフを噛んだ。違ったこともアピールした。悪と戦うことを意識しすぎたんだろう、ちょっとした勇み足なのだろうが、そこを間違ってはレンジャーとしての在り方、存在価値そのものが変わってきてしまう。

 気を取り直してほしかったが、本日ヒーロー・デビューを迎えた黄色にそれほどの余裕はないらしく、視覚的にもなんだか妙に縮んだ気がした。

 「あ、あのですね・・・・・・」

 しどろもどろである。ここで変に絡んではいけない。俺は悪ではないが、正義の口上は最後まで聞くのが礼儀である。目をそらせては男がすたる。

 しかし、黄色は何を勘違いしたのか、一歩下がって更にしどろもどろし始める。

 「あ、あの、よくないと、思うんですね」

 口上は諦めたようで、訳の分からないことを言いだした。いや、何がしか誤解されているのは自覚しているが、その何がしかが何か分からない限り、その意味が理解できない。だが、黄色は説明をとことん省いている。とりあえず、何かに対してよくないと感じているらしい。

 「いや、何を言ってるのか、分からないんだけど」

 悪いが口を挟ませていただいた。待っていてはキリがない。

 黄色、否、マイクロレンジャーは大きく深呼吸すると、腹を決めたらしく、言った。

 「僕は、いや、私は正義のヒーローです、ヒーローだ。この度は悪を滅ぼし、正義を体現する為参上仕った。君の部屋で行われているであろう悪行を、私の心が見逃す訳にはいかない!」

 言っている途中で気分が乗ったか、後半部分は実に堂々とした口上だった。多少早口だったが合格だ。が、何のことだ。

 俺の部屋。行われている。悪行。・・・・・・行われている?

 ひょっとして・・・・・・。俺の頭がシミュレーションスタイルでフル回転しはじめる。

 そういえば、ソファにダイブして頭を打ったことがあった。俺的にはちょっとしたハプニングだったが、黄色にとっては事件だった。びっくりしてそっと耳をすますと、隣の部屋からヒソヒソと声が聞こえてくる。しかし、俺も大声を出している訳ではないから、声がするということ以外は何も分からない。そこで黄色は漫画でよくある手を思い出した。キッチンにあったグラスを壁に当てた瞬間、「俺から逃げられるかな?」という恐ろしいセリフが聞こえてきた。

 普段は陰気な学生でも、その心はレンジャーである。隣の部屋から聞こえてきた大きな音と、誰かを襲おうとする恐ろしい声。黄色は正義に燃えた。とんだ勘違いではあるが、義憤に駆られた。だが、部屋を飛び出す勇気はなかった。

 証拠を掴む為か、ただ乗り込むのが怖かったのか。とにかく黄色は事実確認から始めたのだろう。壁にコップを当て、様子を探った。ここまでシミュレートして少し腹も立ったが、俺も同じことをしたので文句は言えまい。

 その後も俺の部屋の音をグラスで聞き続けてきた。しかし、聞こえてくるのは愛を囁く言葉だけ、広がる空間はラブ・アンド・ピース。黄色は安心していたが、今日、いつもとは違うセリフが聞こえてきた。

 「ちょっとでも動きをみせたら」「この手で」

 それを聞いた黄色はついに決心した。隣の部屋では小さな子供が監禁され、怖い事が行われているに違いない。ここで動かねば正義ではない。腹をくくって変身し、悪の巣窟に乗り込んだ。そんなところだろう。

 立派な口上を述べた黄色だったが、その後が続かない。俺と黄色はそのまま見つめ合う形になった。俺はシミュレーションによって事情を把握しているから問題ないが、黄色は戸惑ってしまったのだろう。彼の予想では俺がここで正体を現すはずなのだろうが、残念なことに俺は悪ではないのだ。ちょいワルですらない。正体を現したとしても、三十歳のしなびたサラリーマンしか出てこない。

 部屋の中まで乗り込む勇気はまだないようで、マイクロレンジャーのポーズを保ったまま静止している。

 「し、尻尾を現したな!」

 黄色は、いろいろ端折って無理やり軌道修正し、自分の予想通りに進めようとしやがった。そうはさせるか。俺のシミュレーションでは、俺は尻尾を出さない。出す尻尾もない。

 燃えあがっていた心は長い沈黙で少し覚めてしまったらしく、黄色はちょっとたじろいだ。俺は何も言っていないが、何かに気圧されて一歩下がった。ここで勇気を見せられたら、黄色は何かを卒業できるのだが。

 「き、君が罪のない子供を浚い、部屋に閉じ込めているのは、分かっている!」

 卒業おめでとう。

 「い、今すぐ、開放するんだ!」

 でも成績はCマイナスだ。

 こうしていても何も始まらないので、俺は仕方なく黄色を部屋に入れることにした。人の部屋に入りなれていないのか、丁寧なのか分からないが、悪の基地に乗り込むヒーローのくせに「おじゃまします」と呟いた。

 部屋を見渡した黄色の頭の上に「?」が三つほど浮かんだ。いるはずの子どもも、怖いことが行われていた形跡もない。

 「あの、どういうことでしょうか」

 黄色が戸惑いながら聞いてきた。でも本来なら、それはたぶん俺のセリフだ。

 どうもこうもない。単に隣は悪の組織ではなく、愛情溢れるサラリーマンだったというだけの話だ。多少独り言が過ぎたのは事実かもしれないが、お茶目の範囲内だろう。

 「御覧の通り、捕われた子供なんかいない」

 黄色は不思議そうに俺の顔を見た。頭の上の「?」がひとつ増えている。

 「子供?」

 「ああ。君はここに子供が捕らわれていると思って乗り込んできたんだろう?」

 「いえ、あの、違うんですけど、すいませんでした」

 自分があらぬ疑いをかけられたことよりも、一番大事な所でシミュレーションが崩れたことがショックだった。小さい頃見たレンジャーが助けていたのはいつも子供たちだ。違うとは何事か。

 言い淀む黄色を、俺は問い詰めた。最初から半落ちだった黄色は、すぐに完落ちとなった。俺がそれほど怒っていないことを悟った黄色は、恐る恐る告白した。

 「あの、以前あなたの部屋から大きな音が聞こえて、何か事件かと思いまして」

 その後の展開も俺のシミュレーション通りだ。では何を否定するのか。

 「あなたが部屋に、女性を監禁しているのか勘違いしてしまい・・・・・・」

 なんと、黄色はレンジャーのくせに、想像していた事件だけはやたらとリアルで卑猥なものだった。どうやら俺が子供を攫って改造するのではなく、女性を攫って悪さをしていると思ったのだ。なんたる侮辱。シミュレーション上の運命の人にも撃退されている俺が、どうして現実の女性に悪さなどできようか。

 背中を丸めてすごすごと去っていくレンジャーは、かつてないほど格好悪かった。正体がバレないようにか、俺が部屋に戻るのを見届けるまで廊下にじっと立っていた。だが、俺が部屋に入った瞬間、隣からドアを開閉する音が聞こえてきて、あれでは事情を知らない人間でもレンジャーは隣人だと気づくだろう。迂闊なことこの上ない。

 思えば隣人に興味がなかった俺は、隣にレンジャーがいるなどと想像したこともなかったし、まさかそのレンジャーに悪者だと思われているとも想像していなかった。だが、この数日間、不思議な隣人との駆け引きはなかなか楽しいものだった。些細なこととはいえ、繰り返しの日常に刺激を与えることができた。近隣住民との関係が希薄な現代では、きっと大切なことに違いない。

 黄色とは、隣人として挨拶するようになった。最初はぎこちなかった挨拶も、最近は一言二言言葉を交わすようになった。

 言葉を交わすようになって二週間ほど。簡単ながら会話もするようになったそんな折、黄色が俺の部屋を訪ねてきた。

 「相談があるんですけど」

 黄色の顔が近付く。いつものおどおどした表情ではなく、目は凛とした光を湛えている。だが、頼もしさよりも危うさを孕んでいる。

 「家舗さんなんですけどね」

 大家の名前を口にした。

 「ここ数日監視していたんですが、本当は悪の組織の幹部じゃないかと思うんですよ」

 えらく突飛なことを言う。家舗さんはただの噂好きのおばさんだ。俺は呆れたが、あるものが俺の視界に入った。手に掲げた袋から、黄色のスーツ以外に青い布が見えるのだ。まさか、俺に青レンジャーになれとでもいうのか。黄色の目を見ると、黙ってコクリと頷いた。俺にできることは、ため息をつくことだけだった。

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