星の記録係の手記

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星の記録係の手記



 これから紹介するのは、空がエメラルドグリーンに輝く星の中で最も大きな国で生まれ育った、変わった少年の手記を抜粋したものだ。

 まず、この少年について大まかに説明をしておこう。

 少年は、大きな山と山に挟まれた位置に存在する、木々に囲まれた村で生まれた。その村はとても閉鎖的で、当たり前のように数百年前の風習・因習が残っており、神や悪魔といった存在を強く信仰していた。少年は、金髪と茶髪が多いその村では珍しい黒髪を持ち、黒は悪魔を象徴する色という考えから村人から嫌われていた。また、世界的にとても珍しい黄と青のオッドアイを持って生まれ、肌は白く異様に顔が綺麗だったので、結果として村人から「化け物」「悪魔の子」と呼ばれ、虐げられていた。

 ある日、少年はとうとう村を逃げ出し、その国の首都へ流れ着いた。しかし身寄りのない少年はそこでも劣悪な環境の路地裏で過ごす事になり、泥塗れの雑草や小指の先程しかないパン屑さえ他の者と奪い合う飢えの中生きていた。少年が生き延びるために、裏社会の仕事を引き受けて生存に必要な物を手に入れるようになるまで時間はかからなかった。少年は、危険薬物の運搬からマフィアの機密情報の受け渡し、敵対組織への潜入捜査まで、実に様々な仕事をやってのけた。気が狂う程の罪悪感、恐怖、悲哀、それらに類似する全ての感情を無視して、無理を重ねに重ねた結果だった。躊躇無く人を騙し、物を盗み、女の振りをして情報を引き出し、自分の身を顧みず相手の懐に飛び込んでみせた。少年は記憶の底に封じて忘れているが、時には人を傷付け、故意ではなくとも殺してしまい、トラウマになっている行為を自分も人に行ってしまった事実に絶望して自殺を思案した事もあった。

 それでも少年は、生きる道を選んだ。きっと「生きたい」と願った理由は、少年自身もわかっていない。当然自分もわからないが、ただ一つ言えるのは、この宇宙で最も尊く、貴重で、そして無意味な「愛」と呼ばれるものを、少年は渇望していた。

 さて、これ以上は話さない方が良いだろう。百人中百人が「可哀想」と口を揃えて言う幼少期を過ごした少年が、どのように気を保ち生き延びたのか。そして、生き延びた末に少年はどのような人生を送る事になったのか。

 貴方が望むと言うのなら、今から語って差し上げましょう。


 一日目

 遂に僕は、「星の記録係」になることが出来た。この国の王宮の厳重な管理の下でしか活動を許されていないくらい重要で難しい職業に就けたなんて、夢みたいだ。今日から僕は、王宮内の寮に住み、一生好きなことを仕事として生きていく。これで死ぬまで良い暮らしをすることが出来る。幼いながらに必死で生き抜いてきた甲斐があった。

 今となっては、独りぼっちだった昔が懐かしく感じる。僕が生まれたのは王都からかなり離れた場所にある谷底の村で、大昔の風習がたくさん残っているくらい他の村と孤立していた。僕は女の子みたいに肌が白く華奢で、村では珍しい真っ黒な髪と、世界的に珍しい黄と青のオッドアイも合わさり、「悪魔の子が惑わしに来た」と言われていた。他の子より勉強が出来るのも悪魔のせいだなんて言われたこともあったな。村人から除け者にされて、悪魔の子を産んだとされた両親には子どもと認めて貰えず見捨てられて、村に置いてある本を全部読み終わった十歳の時に、村を飛び出した。村から何十キロも離れた駅まで走って行き、大きな貨物列車に忍び込んで運ばれるままに運ばれた。そうして行き着いた王都では、昼夜問わずどんなに汚い仕事も引き受けてお金を稼いだ。路地裏で野宿し、食べ物は運が良い時に飲食店で譲って貰った食品廃棄物を住処に溜め込み、お金はほとんど本に費やした。随分と無理をしたものだけど、結果的に無理をした甲斐はあった。昔から憧れていた星座と関わる仕事に就くことが出来たから。きっと村の人は、新聞を見て驚いただろう。

 「星の記録係」は、年齢や国籍などの制限が一つもない代わりに、世界一難しい試験に合格しなければいけない職業だ。ありとあらゆる知識を持ち、特別試験に合格し、その上この星で一番大きいこの国を治める気難しい王様に信用され、気に入られないと就くことが出来ない。ましてや僕は十六歳という、それまでの最低年齢である四十五歳を遥かに下回る年で就くことが出来た。今日王宮に来るまでの道中でも、王宮内での休憩時間でも、写真は撮られまくり、インタビューもたくさん受けて、たった一日で今や世界一の有名人なんて言われるようになった。僕が世界中の人から褒め称えられる人物になったと知って、村の人はどんな反応をしたのだろう。まぁ、まだ僕を悪魔の子だと信じているのなら、きっと記事は見なかったことにして、噂話も村の中に持ち込まないようにしているだろうけど。

 でもそんな忌々しい過去は、もう忘れよう。これから王様の次くらいに身分の高い「星の記録係」として暮らしていくのに、嫌な記憶はあまり呼び起こしたくない。

 これからここに書くのは仕事のことばかりになるだろう。この先も忘れないように「星の記録係」が覚えておくべきルールをこの手で書いておこう。

 一、 この星の永続を願い仕事に励むこと。

 一、 星とは臓器であり、手足であり、星座とは星を肉体とする宇宙に住まう不老の妖精のような者のことである。星座は一つでも星が欠けたら、生きることは出来なくなる。

 一、 「星の記録係」とは、星座との交流を試み、力を貸すように説得する者のことである。

 一、 星座から借りた力は、この星の住人の生活に必要なエネルギーを補うことのみ利用することを許可する。万が一平和を乱す行為に利用した場合、死刑に処す。

 一、 星座は普段、肉体そのものである複数の星を自由気ままに移動している。若しくは他の星座の元へ出掛けている。

 一、 星座は自身の星に存在するエネルギーがそのまま力となっているため、恐ろしく巨大な力を持っている。

 一、 星座はステラ語という独自の言語を筆談の形で使っている。星座と話をする際は星座に合わせ、ステラ語を筆談で用いること。

 一、 とうの昔にこの星の資源を使い果たした人間は、星座の力がなければとっくに滅んでいた。その事実を忘れず、星座には常に最大の敬意を持って接すること。


 二日目

 今日は王宮の案内をされて、召し使いや近衛兵など、それぞれの寮にいる人達への挨拶回りをした。仕事が出来なかったのは残念だけど仕方ない。「星の記録係」に合格したと知らせが届いた一昨日まで、僕は街の路地裏で粗末なテントに住んでいた。そして急遽王宮に連れて来られた昨日は、荷物の整理や手続き、世界中から来た記者のインタビューに答えることで忙しく、王宮を見る時間はなかった。これから生活する敷地内とお世話になる人を最初に把握しておくのは合理的だ。仕事は明日から始めればいいだけの話だし。

 それにしても、王宮がこんなに広いとは思わなかった。住み込みで働いている人の寮やこの星に移住してきた星座のための屋敷があるから広いのは当たり前だけど、それにしたって庭が大きすぎる。小さな町一個分はある。噴水も八個は見かけた。最初車に乗せられた時は不思議だったけど、徒歩だったら日が暮れてしまうから車を使うのは納得だ。

 広いと言えば、僕に与えられた部屋もかなり広い。どこの寮の部屋も同じだと思っていたけど、今日見た他の寮の部屋はこの部屋の半分にも満たない広さで、もっと粗末な部屋だった。移住してきた星座と「星の記録係」だけ特別に広い部屋を与えられるのだと、その時初めて気付いた。役職に就いている「星の記録係」の部屋はもっと上の階にあるけど、新人の僕の部屋は三階にある。南側には大きな窓と真紅のビロードのカーテンが並んでいて、バルコニーへ続くガラス張りのドアがある。バルコニーも全体的にお洒落で、中央に置かれた丸いテーブルと椅子はそこでくつろぐために用意されているらしい。部屋の床は見慣れない材質だと思ったら、高価と言われている大理石だった。大理石の成分は炭酸カルシウムだと自分に言い聞かせないと、最初は踏むのが怖くて仕方なかった。キングサイズのベッドはふかふかで、僕一人ではスペースが余ってあんまり落ち着かない。他にもテーブル、ランプ、ソファ、クローゼット、柱時計までみんな高級品で、まだ慣れていないからいるだけで疲れる。

 寮の二階は全部倉庫になっていて、一階には大浴場と食堂があった。大浴場は、ライオンの口からお湯が出ている謎の飾りがあるのを除けば全体的に黒の石で統一されている落ち着いた空間で、長い間お湯に浸かっていると眠ってしまいそうだった。食堂はいつでも晩餐会を開くことが出来そうな部屋で、厨房がすぐ隣にあるから良い匂いがしていた。部屋の端から端まである伸びたテーブルには金の燭台が置いてあって、シャンデリアがキラキラ輝いているのはいかにも王宮内の建物という雰囲気だった。

 そういえば、王宮が用意してくれていた服も身の丈にぴったりだった。用意されていたのは僕好みのシンプルで動きやすい服だったけど、どことなく物語の王子様っぽい服で落ち着かない。一か月後の給料日は、もっとラフな服を買いに街へ出掛けようと思う。「星の記録係」の制服は物語に登場する魔法使いみたいな黒いローブで、襟元の赤いラインと「星の記録係」を表す古代文字が彫られた金のブローチがすごくかっこいい。あのローブとブローチを身に付けて大勢の人の前に出る時は、柄にもなく悠遊と歩いて見せびらかしたくなりそうだ。結構な数の服をもらったからこれで支給される服は全部かと思ったら、今度はタキシードを作ってくれるらしい。タキシードはフォーマルな場で重宝するからと、今日の夕方細かい部分まで採寸された。タキシードなんて女顔の僕に似合うのか不安になるけど、そこはお金の力で良い物を作らせるんだろう。

 「星の記録係」の給料や生活は、世界中から集められた星座税によって成り立っている。僕が平民だった時は必死に稼いだお金を奪われて憎かったのに、受け取る側になってしまった。背徳感はあるけれど、僕を虐げていた村人や、街で僕に酷いことをした人達のお金が僕の生活を成り立たせていると思うと、記憶にこびり付く嫌悪や憎悪が少しだけ薄くなるから、僕もやっぱり今まで出会った汚い大人に毒されているのだろう。そもそも子どもらしくしたことなんて一度も無いけど、自分の人格が汚くなってしまったと自覚するのはそれなりに苦しくなる。

 理由は色々あるけど、兎も角庶民の中でもかなり貧乏だった僕が王宮生活に慣れるのは大変そうだ。


 三日目

 今日は、一生忘れられない日になった。

 仕事場である建物は寮の一階から渡り廊下で繋がっていて、夜中まで仕事をしていても、夜中に唐突に何か思いついても、自由に安全に行き来出来るらしい。建物の一階は共同スペースになっていて、そこで情報を共有したり、話し合いをしたりするらしい。

 今朝は働いている全員がそこに集まって、緊張していた僕を歓迎してくれた。老齢な彼らにとって僕は孫のように見えるらしく、自己紹介した後たくさんお菓子をもらった。仕事の説明を受けている間も何かと僕に構ってくれる彼らに、僕は最初戸惑ってしまった。飲み込みの早い僕を見て頭を撫でて、抱き締めて、「良い子だね」「すごいね」「頑張ってるね」と褒めてくれる。そんなこと、生まれてから一度も経験したことがなかった。

 僕は二歳の時にはほぼ完成された人格を持っていて、記憶もかなりしっかり残っている。一番古い記憶だって、一歳の時の記憶だ。一歳の頃から、僕は両親と村人全員から「お前は悪魔の子だ」「化け物」と言われていて、その頃から行われていた「正義の罰」という名の理不尽な拷問は、今でも全身に醜い傷を残している。街に出てからも、汚れた仕事をたくさんしていた僕は、ただのチンピラから裏社会の幹部まで色んな人から狙われて、火器やナイフで傷付けられるのも普通だったし、裏社会らしい拷問をされたこともある。僕が今まで関わってきた大人には、僕を心身共に傷付けて、自分の私利私欲のためにしか生きている人しかいなかった。甘言や優しい言葉は、例外無く僕を陥れるための、何かしらの意図がある罠だった。

 だから、策略も下心も無く無条件で優しくしてくれて、自分を褒めてくれると、知らない感情で胸が埋め尽くされて訳がわからなくなって、堪え切れず泣いてしまった。「泣く=無意味な行為、怒られる行為」という方程式が確立していた僕は、涙が出ているのを認識した瞬間、後退って顔を隠して、必死に謝った。だけど先輩達は泣いているのに優しくしてくれて、驚愕した。「何でそんなこと言うの」「何で頭を撫でるの」と、正直に疑問を伝えた僕に「普通泣いている人には優しくしてあげるんだよ」と教えて抱き締めてくれた彼らには、きっと一生頭が上がらないだろう。その後僕は、過去はなるべく忘れようと決めていたのに、気が緩んで精神が退化したらしく村でのことを少し話してしまった。悪魔の子と罵られていたと知られたら距離を置かれると思ったのに、彼らは「独りでよく耐えてたね」「寂しくて辛かったでしょう」「もう大丈夫だよ」と、穏やかな表情で受け入れてくれた。

 今まで愛だとか優しさなんて欲しいと思ったことはなかった。僕の願いは、星座と関わる仕事に就いて、裕福に暮らすことだけだと思っていた。だけど今日、僕は初めて自分の本当の願いを知った。

 僕は、ずっと自分を受け入れて、愛してくれる人に出会いたかったんだ。

 生まれてからずっと独りぼっちだった人が、自分を受け入れてくれる人に出会えるのは、きっと数%の確率だろう。僕みたいな人間がその数%を引き当ててしまって良かったのか、心臓と肺を潰す程の罪悪感がある。だけど僕は、すごく幸せだ。この先どれだけ不幸になったとしても、死ぬ時はこの時を思い出して幸せに死ねるだろう。

 そして今日、もう一つ気付いたことがある。僕はここに来るまで、老若男女関係無く、目に映る人全員信じず、誰とも深く関わらないようにしていた。

 その本当の理由は、命を守るためではなく、人に暴力や暴言などの嫌な行動をさせてしまう原因である、誰よりも憎い自分に、誰も関わって欲しくなかったからだ。僕と関われば、相手はどうしても僕を傷付けることが必要になった。僕みたいな価値のない人間なんかのために人格が歪んでしまった。僕の犯した罪をこれ以上無駄に増やしたくなかった。

 ずっと冷酷な振りをしていたけど、僕は案外子どものようだ。

 ・・・独りぼっちの人達が、今日の僕みたいに幸せを味わって安心してくれたら、どれだけ世の中は変わるだろう。どれだけの人が幸せだと感じるようになるだろう。そんな益体もないことを考えてしまった。

 今日は安心してたくさん泣いたから、すごく疲れてしまった。机の隣にある柱時計はまだ八時を指しているけど、もう寝よう。


 四日目

 昨日も仕事についての説明で終わってしまったから、本格的な仕事は今日からだった。仕事に入る日をこんなに引き延ばされるとは、自分でもちょっと笑ってしまう。今日は仕事の具体的な内容と、先輩から星座についてのある話を聞いたから、それを纏めようと思う。

 「星の記録係」の仕事

 まず国から送られてきた資料から、電気や水など、種類ごとにこの星のエネルギーの消費量を計算することから始める。過去と未来の消費量の推移も予測しながら合わせてグラフ化し、それぞれどのくらい補う必要があるかを出来るだけ正確に割り出す。数値を出したら、どの星座の力を借りれば補うことが出来るか、古い文献を読み漁って最も適当な星座を見つける。(星座によってエネルギーを貰う方法や量が違うから、多くの星座を比較するのは大変そうだ。)どの星座にするか決めたら、古い文献の記述と実際に望遠鏡で見える星を照らし合わせ、星座がどこにいるのかを確認する。見つけたら、数週間から数ヶ月間に渡り星座の生活を観察して、記録帳に書き留める。記録帳は後世の人も使うから、出来るだけ丁寧に、そして細かく書かなければいけない。その記録を元に、性格を把握し、その上でどう星座の心を掴んで説得するか考える。それと同時に、星座の元まで行くルートも、技術者と話し合って考えなければならない。前からわかっていたことだけど、あらゆる学問の知識が必要で、星座と話すためにステラ語を使いこなすことも必要だ。

 先輩から聞いた話

 一部の星座がこの星に移住していると知っているのは王宮に住んでいる人だけで、一般人はそれを知らない。僕もそれを知ったのは王宮を案内された日で、決して口外しないように言われた。それから僕は「折角この星に移住してきた星座がいるのに、どうして協力して貰わないんだろう」と、不思議に思っていた。だけど、そんなこと出来るはずなかった。

 星座は悠久の時を生きるけど、不老不死ではない。星座の肉体である星は、何千、何万年の時を超えていつかは必ず燃え尽きるからだ。燃え尽きる時は星によって違うけど、たくさん燃えればそれだけ寿命は縮んでいく。人間が何度もエネルギーを貰ってしまうと、その分星が燃えて、星の寿命は近くなる。この星に移住してきた星座は、みんな何度も人間に協力したせいで寿命が近くなっていた。だから王宮は、人間のせいで寿命が短くなった星座をこの星に迎え入れ、償いにもてなしていたんだ。きっと隠していたのは、星座がさらわれて危ないことに力を使われるのを防ぐためだろう。よく考えれば誰も気付けることで、隠していたその理由も理解はした。だけど、心は納得していない。

 路地裏で暮らしていた頃、僕を含めた一般人はみんな「生活に必要なエネルギーは星座がくれるから、生きていけなくなることなんてない」と思っていた。確かに宇宙は常に変化しているから、星座が死んでも新しい星座は生まれる。エネルギーの供給が完全に無くなることはないのかもしれない。だけど、人間を生かしてくれているエネルギーは、星座が命を削って人間にくれたものだった。「古代より人間は他の生物の命を奪って生きてきたから、その命の恵みに感謝しなければならない」と、みんな一度は小さい頃に言われたことがあるはずだ。それと同じように、星座という神秘に満ちた存在の命を奪って今の人間は生きていることを、一般人も知って感謝すべきだと思う。だってこれじゃ、存在を知られないまま消えて行く星座が可哀想だ。

 なんて僕が嘯いても、世の中は何一つ変わらない。数百年、数千年後にこの星が滅ぶ時が来たらみんな気付くかもしれないけど、その頃僕はもういない。その前に戦争が起きて人類が自滅して、一生気付く日は来ないのかもしれないけど。

 何を言ったって、僕は人間のために星座に命を削るように説得する仕事に就いてしまった。今の僕に出来るのは、事実を知らない人の分も精一杯星座に感謝することだけだ。


 三十五日目

 今日は初めての給料日だった。朝起きると部屋のポストに給料明細が届いていて、中を見て驚いた。税金や光熱費を抜いても家を買えてしまう程だったから、高額だと予想していてもその金額に頭がくらくらした。朝ご飯を食べてる時先輩にそう言ったら「若いねぇ」と笑われて、ちょっと恥ずかしかった。

 給料日は休みだと決まっているから、今日は金曜日だけど休みだった。一ヶ月前から連休になったら街に行こうと決めていたから、街で買い物をした。新聞やテレビで顔が広く知られている僕は、一般人に紛れられるようにキャスケットを深く被って、黒縁の伊達眼鏡をかけた。王宮が用意してくれていた服はどうしてもお金持ちっぽさが出るから、服は自前の白シャツに茶色のズボンを合わせただけにした。カバンやスニーカーも地味な物にしたから、傍から見ればただの少年だった。普段と同じように肩甲骨の下まで伸びた黒髪を一つに縛っていたから、ボーイッシュな少女にも見えたかもしれない。次の誕生日で十七になるのに身長が百六十センチ以下なのは悲しいけど、両親も背が低かったし、そもそも王宮に来るまでろくに栄養を摂っていなかったから仕方ない。

 最初はお金を引き出しに、手の空いていた召し使いの女の人と一緒に銀行へ行った。銀行に入ったことがなかったから、引き出し方とか預け方とか、月に使うお金の目安とか、色々教えて貰った。路地裏に住んでいた時は自分でお金を持っていたからガラの悪い人に奪われることもあったけど、銀行ならそんな心配ないから安心だ。

 銀行での用事が済んで召し使いの人と別れた後、僕は久しぶりに街を歩いた。興味本位で僕が住んでいた路地裏を覗こうとしたら、そこは立ち入り禁止になっていた。入り口の看板を読んだら、どうやら治安改善のために路地裏周辺を徹底的に洗い出しているらしく、もし今でも汚い仕事をしていたら、僕も今頃警察に捕まっていたかもしれなかった。綺麗な生活に慣れ始めた僕にはそれがとてつもなく恐ろしいことに感じて、速足でそこを去った。

 気分を変えようと、次にお洒落な店が並ぶ大きな通りに行った。以前は通る時裏道を通っていたから、堂々と表を歩くのは落ち着かなかった。でも折角お金がある状態で来れたから、勇気を出してそこそこ人が入っている服屋に入ってみた。お洒落な店に入るのはそれこそ初めてで、僕なんかが入って良いのかと怯えていたけど、周りを見て誰も僕に注目していないことがわかったら落ち着いて服を見ることが出来た。今着ている粗末な服ではなく、もう少しお洒落な普段着が欲しいと思って色々探していたら、背の高いかっこいい店員さんが声をかけてくれた。「どんな服が似合うのかわからないんです」と言ったら、店員さんは「じゃあ俺にまかせてください!お手頃な値段でお洒落な服を一式揃えますから!」と元気に言って、お喋りしながら服を選んでくれた。試着室で全部着てみたら、自分でもよく似合っていると思える組み合わせで驚いた。フードが付いたチュニックみたいな青の上着、赤茶のショートパンツ、様々な濃さの茶色でアーガイル柄が描かれた靴下、踝まであるちょっとごつい感じの黒のスニーカー、太い革の肩紐と持ち手が付いたこげ茶色の四角いバッグ。この五つを全部買ってもそんなにお金はかからなくて、確かに「お手頃な値段でお洒落な服」だった。店員さんにお礼を言って帰ろうとしたら、急に「ちょっと待って!」と引き止められて、何だろうと思ったら、店員さんはバックヤードから腕時計とキャスケットを持って来た。「こないだ買い物してたら福引で当てちゃって、使わないけど捨てるのも勿体無いからとっておいたんです。あなたにならあげても良いって思ったんで、受け取ってください」と言われて、どうして僕なんだろうと首を傾げたら「あなた、十六歳で星の記録係?とかになった人ですよね。オッドアイと長めの黒髪っていう特徴でわかりました。実は憧れていたから、会えて嬉しかったです。頑張ってくださいね」と囁かれた。すごく嬉しいのに、「僕なんかを応援してくれてるの?」という思いが強くてちょっと涙目になっていたら、太陽も負けそうなくらい眩しい笑顔を向けられて、僕もつられて笑っていた。他人から、しかも自分とあんまり年齢が変わらない人からそんな笑顔を向けられるのは生まれて初めてで、心の底から嬉しいと思えた。先輩達に言われているからネガティブにならないように気を付けていたけど、やっぱり小さい頃に染み付いた自己否定の気持ちはなかなか消えそうにない。今すぐには無理だけど、少しずつ自分を肯定していけるようになりたいと思う。

 服屋で買い物をした後は、カフェで昼ご飯を食べた。メニューに書いてある料理名はお洒落ぶっていて何が何だかわからなかったけど、料理の写真が載っていたからそれを見て決めた。周りの人はみんなオムライスとかちゃんとした料理を頼んでいたけど、僕は軽食用のスモークサーモンのサンドイッチと、真っ白なホイップクリームと苺がたくさん乗ったパンケーキを頼んだ。紅茶とコーヒーは飲めないから、飲み物はリンゴジュースにしておいた。サンドイッチももちろん美味しかったけど、パンケーキの美味しさにびっくりした。生地もクリームもふわふわで甘くて、そこに苺の酸っぱさが加わって、比喩じゃなくて本当にほっぺが落ちそうだった。いつか同い年くらいの友達が出来たら連れて来てあげたいなんて、叶うかわからないことまで考えてしまった。

 帰って食堂で晩ご飯を食べる時、みんなに今日のことを話したら喜んでくれた。僕が楽しそうにしていると安心するらしい。また街に出掛けた時は、たくさん話してあげよう。


 四十五日目

 今朝仕事に行こうしたら、一階で待っていたらしい召し使いさんに止められた。お客さんが来ているから急いで来てくれと言われて食堂の隣にある応接室へ行くと、スーツを着た若い男女が待っていた。真面目で堅苦しい雰囲気の二人は、僕が挨拶をしても表情を変えずに会釈だけ返してきて、何を考えているのかわからなくて少し怖かった。「僕に用があるんですか」と聞いたら名刺を渡されて、活字で印刷された会社名にどこかで見たことがあるな、と思ったら、インテリアを扱っている世界的に有名な会社の人だった。そんな人がどうして僕の所に来たのかというと、今度世界中の都市で会社の宣伝をする大きな企画があるから、それに協力してくれとのことだった。具体的にどう協力するのかと聞いたら、ポスターに使う写真のモデルになって欲しいらしい。話題性抜群なのは間違いないし、何よりお金をたくさん払うからどうか引き受けてくれないかと、頭を下げて頼まれた。頼まれたと言うか、「本当は上司が来るはずだったのに、王宮に行くのは怖いからって私達に押し付けてきたんです。その時つい渋ったせいで怒らせちゃって、引き受けてもらえなかったらまた怒られそうなんです」と、詳しい事情を話してまで懇願された。「僕なんかが務まるかな」と思ってあんまり気は乗らなかったけど、スケジュールを聞くと半日で終わるらしいから引き受けた。お金とかは割とどうでも良かったけど、責任感のない上司に仕事を押し付けられた二人が気の毒だったからだ。今週の土曜日の午後が潰れるだけだし、お金も入るなら頑張ろう。

 ・・・そういえばどんな写真なのか聞かなかったけど大丈夫かな。僕にぴったりとは言ってたけど、ちょっと不安だ。


 五十日目

 昼ご飯を食べ終えたら、すぐに会社からの迎えが来た。やっぱり僕が「星の記録係」だからか、迎えに来た車は大きい車だった。一時間くらいかけて撮影を行う建物に着いたら、挨拶もそこそこにすぐ着替えさせられた。背中にチャックがあったりリボンを上手く結べなかったりと一人じゃ着られなかったから、衣装係の女の人に手伝ってもらった。何で僕があんな服着たのか甚だ疑問だ。あの服、どう見ても女の子用だった。女の子用でもせめてズボンにして欲しかった。何でわざわざワンピースにしたんだろう。女装は街で裏社会の仕事をしていた時のことを思い出すから嫌なのに、こんなことなら引き受けなければ良かった。後悔しても仕方ないけど。

 でも、僕が着たワンピースはすごく可愛かった。襟がセーラー服風になってて、胸元で結んだ大きな紺色のリボンがよく合っていた。紺色のふわふわした柔らかい布には金色でたくさんの細かい星々と線で繋がれた星座が描かれていて、繊細な模様はすごく綺麗だった。それに紺のセーラー帽を合わせて、左肩の上で緩く一つに結った髪には白いレースのシュシュを付けるとかなり女の子っぽくなった。メイクも少しされて、薄くファンデーションとピンクのチークを塗られて、ピンクのグロスも口に塗られた。あそこまでやるなら、女の子に着せた方が良かったと思う。スタイリストさんの腕は確かでよく仕上がっていて、その恰好で撮影しに行くと通りかかる人全員に「女の子のモデルかと思った」と言われた。当たり障りのないように「ありがとうございます」と言っておいたのは多分間違っていないはず。

 撮影する部屋にはズラリとたくさんのカメラが並んでいて、レンズは撮影用に作られた小さな部屋に向けられていた。毛足の長い白のカーペットには大きさも色もバラバラの星型のクッションがこれでもかと積み上げられていて、その頂点にはカンテラが輝いていた。天井からは円錐みたいな形をした物がぶら下げられていて、底の円に沿ってものすごく長いカーテンがクッションの山を囲うように三角形を描いて広がり垂れていた。正面から見て手前側には大きなキャンドルがいくつも灯されていて、カンテラとキャンドルの橙色の光に包まれた暖かい雰囲気は、眠気を誘った。ちなみに後で聞いたら、あの円錐とカーテンが合わさった物は本来ベビーベッドのテントらしかった。今更文句を言っても仕方ないけど、インテリアをあれだけ上手く組み合わせられるのなら、僕の服ももっとましな服にして欲しかった。あのインテリアに合う男の子用の服は絶対あるはず。

 撮影が始まったら、あんまり内容を知らなかった僕はまずどんな写真を撮るのか教えてもらった。カンテラを片手に本を読む写真と、クッションの上で寝ている写真と、キャンドルをうっとり眺めている写真の三つを撮ると言われた。「時間があんまりないからぶっ通しで撮るね。大変だと思うけど『星に憧れる子ども』になりきって演じてね」とカメラマンに急な指示を出されて、モデルの大変さを少し知った。演技なんてしたことがなかったから、僕はせめて迷惑をかけないように黙って指示に従った。「裸足でカーペットに上がったらカンテラを取って」と言われて、壊さないようにそっと取って、それをキャンドルとクッションの間のスペースに置くと、持たされていた古びた装丁の本を開いた。色褪せた紙には星座とその説明が古語で書かれていて、細かい部分まで凝ってるなと感心した。慣れない場所で、仕事で読んでいるのと同じようなのを見つけたら、嬉しくてつい頬が綻んでしまった。どうやら僕は自分で思っている以上に仕事が好きらしかった。しばらくの間星座の図と文を眺めていて「薄暗いから眠くなるな」と思っていたら、カメラマンが「少し眠くなった動きを入れて、その後本を閉じてカンテラを戻して、クッションに倒れて。そしたら目を瞑って、幸せな夢を見ている顔をして」と、細かい指示を一気に出してきた。かなり焦ったけど、丁度眠くなっていたから指示と同時に小さな欠伸が出た。ちょっと目を擦って指示の通りに動いたら、誰かが「リアルだな」と呟くのが聞えた。ぼふっとクッションの上に倒れて、そのまま体を横にして丸まったら、柔らかいクッションの感触に本当に寝そうになった。たくさんのクッションに包まれたいという密かな夢が叶ってニヤニヤしながら眠気に耐えていたら、また誰かが「呑み込みが早いね」と呟くのが聞こえた。真面目にやっているように見せていただけだから、何となく申し訳なかった。随分と長い間を置いて「起きて一番近くにあるキャンドルを取って、目の前で見つめて」という指示が入り、もうちょっと寝ていたかったなと名残惜しくなりながらも僕はゆっくり起きた。本当はもっと早く動くべきだったのかもしれないけど、ずっと目を閉じていたから柔らかい光でも眩しくてあんまり動けなかった。眩しさに耐えてキャンドルを目の前で見つめていたのは褒めて欲しいくらいだ。目が光に慣れてからも数分間じっとゆらゆら揺れる火を見つめていたらオッケーが入って、僕は帰ることが出来た。帰る準備をしている時「本当にモデルになれそうだね」とたくさんの人から言われて、否定するのも悪いかと思って「仕事に支障がなかったらたまにやってもいいかもしれないです」と言っておいた。ちょっとは世渡りが上手くなれたかな。

 帰りは王宮の車が迎えに来てくれて、慣れない場所にいたせいでかなり疲れたから着くまでの間ぐっすり寝てしまった。晩ご飯の時先輩達にモデルの仕事のことを話したら、気付いたことがあったのか何かを目で会話していた。教えてくれなそうだったから聞き出しはしなかったけど、ちょっと気になる。

 珍しい仕事だから細かく書こうとしたら、長くなってしまった。かなり眠いせいで字がいつもより雑になってることに今少し見返して気付いた。明日は休みだから、ゆっくり休もう。


 五十一日目

 風邪を引いた。朝よりましになったけど、これを書いているのも少し疲れる。朝起きたら喉がものすごく痛くて、声が掠れていた。救急箱から体温計を出して熱を測ると三十九度あって、頭が痛くて仕方ないのも当然だった。怠い体に鞭打って部屋の内線の電話で召し使いさんに言ったら、お粥を持って来てくれた。その後王宮専属のお医者さんと薬剤師さんが来て、薬を処方してくれた。お医者さんは「疲れが溜まっていて、免疫力が弱くなっていたみたいです。ずっと頑張っていたみたいだから、ゆっくり休んで下さい」と言っていた。薬剤師さんは無口な人だったけど、普通の人より少し体が弱い僕に合った薬を出してくれて、ちゃんと効能も説明してくれた良い人だった。

 昼ご飯は、お粥じゃなくて卵雑炊だった。あんまり味がわからなかったけど、ほんのり甘い卵が美味しかった。晩ご飯はトマトリゾットだった。熱くて火傷しそうになったけど、やっぱり美味しかった。お風呂はちゃんと入ったけど、いつも通りお湯に浸かってたらかなり疲れた。今日は結局、辛かったら寝て、寝れなかったら本を読むの繰り返しだった。少しは治ったけど、明日の仕事は休まされるかもしれない。


 五十二日目

 やっぱり仕事は休まされた。朝お医者さんが来て、「若いから割と治ってるけど、ここは高齢の人が多いから、風邪をうつしたくなかったら休んだ方が良い」と言われた。今日も寝ては本を読んでの繰り返しだった。昨日とあんまり変わらない日だったけど、ご飯におかずが付いてたのが嬉しかった。昨日は喉が痛くてあんまり物を飲み込めなかったけど、今日は腫れも引いて食欲も少し戻ったし、固形物もちょっと食べられた。それから、お昼過ぎに召し使いさんが来て、先日の撮影で撮った写真を渡された。会社から送られて来たらしいそれはよく撮れていて、真ん中で微笑む人が自分じゃなかったら気に入っていたと思う。写真を飾ったらどうかと召し使いさんに勧められたけど、自分の写真を飾っても嬉しくないから断った。とりあえず、小さくて使っていなかった机の引き出しにしまっておくことにした。

 昨日は余裕がなかったから書けなかったけど、今思うと僕は病気や怪我をしても心配されたことがなかったから、初めての経験だ。僕は小さい頃から病気がちだったけど、村にいた時は「悪魔の子なんだから悪魔が治してくれるだろう」なんて馬鹿げたことを医者にも言われていつも通り理不尽な拷問を受けていたし、王都に来てからも医者にかかる余裕なんてなかったから、あんまり体調が悪い時はテントの中で毛布に包まって耐えていた。注射で得体の知れない薬物を無理矢理入れられたことはあるけど、口から薬を飲むのは初めてだったから、昨日薬の粒を口に入れた時はあまりの苦さに涙が出た。味覚が少し麻痺している時にこれだけ苦さを感じるなら普通の時に飲んだらどうなるのかとのたうち回っていたら、召し使いさんに笑われたっけ。薬を飲むのも少しずつ慣れていきたいと思う。


 五十四日目

 今朝、またあの会社から封筒が届いていた。中には一枚のDVDディスクが入っていて、部屋にテレビはないから職場の共同スペースで見ることにした。仕事が始まる前に見てしまおうと、ほぼ全員いる朝の時間に再生した僕が馬鹿だったと今では思う。それから、僕は裏社会と関わっていた割に騙されやすいのかもしれないと悩む破目になった。

 穏やかなクラシック音楽が流れると同時に、僕が裸足でカーペットに上がる映像が流れ始めた途端おかしいと思った。正面、斜め、横、様々な角度から映される女装した僕は、加工してあるのかすごく美人になっていて、「誰だこの人」と自分だとわかっているのに疑った。キャンドルを見つめている僕の姿が次第に消えて行って、白い画面に変わり会社名が出てCMだと気付いたら、周りからは「おぉー」とか「やっぱりCM撮影だったんだねぇ」と歓声が上がっていた。僕は「何で写真撮影のはずだったのにCM撮影もされてるんだ。どうりで妙にカメラが多いと思った。完全に騙された。何が悲しくて女装姿を世間の人に見られなくちゃいけないんだ」と、延々脳内で文句を言い続けていた。というか、みんなどうして気付いた時点で言ってくれなかったんだろう。知っててもCMで流される事実は変えられないけど、僕の心が現実を受け入れやすくなっていたとは思う。今回ばかりは頑張ったねと褒められてもあんまり嬉しくなかった。封筒の中には「もし希望されるなら、撮影で使用した衣装をお送りします」という手紙が入っていたけど、見ない振りをしてゴミ箱に捨てた。

 ここに書いておいてあれだけど、本当にあの仕事のことは忘れたくなった。


 七十日目

 今朝、全員仕事を始めないで共同スペースで待つように言われた。急な招集にドキドキしながら待っていたら、黒いスーツにサングラスをかけた集団が部屋に入って来て、路地裏暮らしをしていた頃関わった事のあるマフィアかと思って、心臓が止まるかと思った。無表情で軍隊みたいに背筋を伸ばして素早く動く姿が、マフィアと酷似していたからだ。みんな唖然としていたら、その先頭にいた唯一サングラスをかけていなかったおじさんが一歩前に出て、使う言葉は丁寧だけどどこか高圧的な態度で話し始めた。その人が言うには、昨日の夜警察に匿名で「土曜日、この国に制裁を与える。あちこちで死の花火が打ち上がることだろう」といった内容のテロの予告が送られて来たらしい。これまでの例から王宮に住む人が狙われる可能性もあるから、念のため前日である今日と予告日の明日はボディーガードと一緒に生活してもらうと言われた。一人に一人ずつボディーガードが付けられた状態で仕事をしたから、みんなそわそわして落ち着いていられなかった。僕といたのはかなり若い人で、多分僕とあんまり年が変わらない。気まずいし先輩達を見習ってコミュニケーションを図ろうとしたら、名前は「ルーク」だと教えてくれたけどそれっきり喋らなくて、更に落ち着けなかった。そんな人にご飯時も見張られ、お風呂も外で待機していて、どこに行くにも一緒で、流石に疲れた。本を読んでから寝ようと思ってたけど、今日はもう寝よう。明日は買い物に行こうと思ってたんだけどすごく迷うな・・・。


 七十一日目

 街に行くか悩んでいたけど、行くことにした。ルークのことを考えた時に、もしかしてルークは、いつも大人に囲まれていて寂しいんじゃないかって思ったから。正確に言うと、夢の中でも悩んでいたら、親でもおかしくない年齢の人達と同じように行動する昨日のルークの姿が思い浮かんで、確信めいたものを感じたから。この前店員さんが選んでくれた服に帽子と伊達眼鏡をかけて、僕はすごく渋っていたルークをちょっと強引に連れて行った。ルークはスーツじゃなくて白シャツに黒のベストとズボンを合わせたラフな格好だったけど、ベストの裏側には肩が凝りそうな数のナイフや銃などの武器をしまっていた。「金を貰っている以上、何かあった時にはあんたを守らないといけないから」って言うルークはすごくかっこよくて、このクールな姿は女の子にモテるんだろうなと思った。ルークはすごく端整な顔で、黒髪もサラサラで背も高いし(でも二十センチ以上身長差があるのは凹む)、本当に僕の憧れる姿だ。ただ、「貧弱なチビ」と鼻で笑われたのはちょっと傷付いた。

 僕はこの前も行ったお洒落な通りに行って、別の服屋さんを物色した。ルークはこの前の僕と同じようにそわそわしていたけど、僕が似合いそうな服を持って行くと満更でもなさそうに買っていた。僕も何着か服を買ったら、この前入ったカフェでご飯を食べた。僕はオムライスとオレンジジュースを頼んで、ルークはトマトパスタとブラックコーヒーを頼んでいた。ブラックコーヒーが来た時、匂いだけで口の中が苦くなっていたら、ルークが「変な顔してる」と小馬鹿にしながらも、まだ熱いコーヒーをすぐに飲み干してくれた。拗ねそうだったから言わなかったけど、多分僕に気を遣ってくれたんだと思う。

 どうにか友達になりたくて「ルークのことが知りたいから何か話して」と言ったら、ルークはどうしてボディーガードになったのか話してくれた。ルークは警察の偉い人である父親と、超有名大学の教授である母親を持っていて、幼少期から厳しい教育を受けていたらしい。格闘技全般を修めて尚且つ大人顔負けの頭の良さと冷静さを持つルークは、警察官になって高い地位を得ることを望まれていたらしいけど、両親の束縛から逃れるためにお金をありったけ持ち出して家出したという。以前からスカウトされていたボディーガードの会社に入ったのも同時期らしい。ルークは僕より二つ年上の十九歳で、家出したのは去年とのことなので、割と最近の話だった。

 一人で生きていけるだけのことを教えてくれたことには一応感謝しているけど、自分を自慢ネタを増やすための道具として扱った親のことは一生許さないと、ルークは震えた声で言っていた。早朝から深夜まで勉強と運動の繰り返しで、休む暇なんてなくて、どれだけ泣いても吐いても課題を終わらすまで許してくれなくて、地獄のような家だったと語るルークの目は、憎悪に満ちていた。学校では勝手に大きな期待を背負わされて、何でもこなす器用さにどうでも良いような仕事まで全部押し付けられて、あまりの量に無理だと言えば「優等生のくせに」と責め立てられ、誰も味方なんてしてくれなくて、あまりの疲労と絶望に何度も死のうとしたと語るルークの目は、寂しさで満ちていた。「こんな話するつもりなかったのに何で話したんだろうな」とルークは自嘲気味に笑っていたけど、ルークはもう限界を迎えていて、誰でも良いから助けて欲しかったんだとわかった。どこか知っている姿に、僕は雪の中放置されていたみたいに震えていたルークの手を取って、「ずっと辛かったね。寂しかったね。もう大丈夫だよ」と、笑っていた。それはほぼ反射的なもので、自分でも驚いたくらいだった。先輩達が僕にしてくれたみたいに、安心出来るようルークの冷たい手を握っていた。続けて「よく独りで耐えていたね」と言っていたら、ルークは俯いて、声もなく涙を零していた。今思うと、カフェの最奥にある席に座っていて良かった。衝立がなかったら、ルークが泣いている姿を僕以外の人に見られてしまっていた。しばらくして顔を上げたルークは涼しい顔をしていたけど、顔の強張りがなくなっていた。僕がどれだけルークを安心させられたかはわからないけど、「ありがとう。助かった」と言われたから、ちょっとは役に立てたんだと思う。

 僕の話も聞かせてと言われたから、僕は村から王宮に来るまでの過程を、あくまでも簡単に話した。村の話をしている時、ルークは「胸糞悪い奴らばっかりだったんだな」と顔を顰めていて、路地裏にいた時の話をしている時は、僕の体型がろくに栄養を摂れなかったことが原因だと知って、小馬鹿にしたことを謝られた。確かに村にいた時から全然食べ物を与えられなくて数日食べないことも普通だったけど、そもそも遺伝的な要因があるだろうから、気にしないでと言った。けど、本人はしばらく気に病みそうだ。王宮に来てからの話になると、ルークは安心したような、羨ましそうな、そんな顔でいた。

 話し終わった後、「僕達、もう友達ってことで良いのかな?」って聞いてみたら、案外素直に「初めて友達が出来て嬉しい」と認めてくれた。お互い話し疲れて何となく無言でいたら、ルークが突然「俺も楽しそうだから王宮に住んでみてぇな」って呟いて驚いた。でも、もしルークが王宮に住んだら簡単に会えるようになるから、僕も良い考えだとすぐに思った。だから、僕が王様を説得して何らかの形で住めるようにすると約束した。「良い子ちゃんだと思ってたのに結構やるな」と言ったルークは悪戯っぽく笑っていて、年相応の顔を見せてくれたことがたまらなく嬉しかった。帰ったらその計画を立てようと話しながらカフェを出たら、結構時間が経っていた。召し使いさんには「携帯電話を貸すので、帰りに電話して下さい。迎えに行くので」って言われていたけど、何となく二人で話していたくて、歩いて帰ることにした。結構話は盛り上がっていたんだけど、その途中に邪魔が入った。

 何が起こったかと言うと、T字路を通りかかった時に警官から逃げている強盗犯がいて、不幸にもぶつかった僕は人質にされた。刃がギザギザになっている冷たいナイフが首に当てられて、耳の真横で野太い叫び声を聞かされて、久しぶりに恐怖を感じた。街に住んでいた時のことを思い出した僕は「どうやって抜け出そうか」と考え始めたけど、その直後、ルークの行動を見て驚愕が恐怖を上回った。僕が捕まった瞬間、ルークは着ていたベストのボタンを開けて、銃を取り出していた。強盗犯に体を拘束されてもがく僕は邪魔だったろうに、ルークは獲物を見つけた鷹とそっくりな目で真っ直ぐ犯人の足を撃ち抜いた。その隙に腕から抜け出して振り向くと、強盗犯はすでにルークによって投げ飛ばされていた。背中を強く打ってもなお逃げようと立ち上がった強盗犯に、ルークはズボンのベルトを引き抜いて鞭みたいに振るって犯人をぶっ叩き、倒れた隙に激痛のツボを押して気絶させていた。素人目でもわかる無駄のない洗練された動きに、僕だけでなく野次馬も警官も見惚れていた。気絶したらもう強盗犯には見向きもせず、心配そうに僕の元に駆け寄って来たルークを見て、やっぱり悪い形とは言え英才教育を受けていたんだなと実感した。

 その後、やっぱり危ないからということで召し使いさんに迎えに来てもらって、車の中ではルークが鞭みたいに使っていたベルトを見せてもらった。それはベルト型の剣だったらしく、鞘を少し引き抜くと鈍く光る銀が覗いた。「こんなにしなる剣をよく扱えるね」と言ったら、ルークは「珍しい武器だからあんまり使う人はいないけど、結構応用の利く武器で便利だから使いこなせるようにした」と、ちょっと誇らしげに言っていた。自分の持つ武器に興味を持ってくれたのが嬉しかったらしく、ルークはベストの内側にしまっていた武器も解説してくれた。僕も大量生産されている安い武器は知っているし、使ったこともあるけど、ルークが持つような良い武器を見るのは初めてで面白くて、ルークが話したこと全部覚えているくらい真剣に聞いていた。「もっと見たいな」と言ったら、「今度会う時他の武器も見せてやる」と約束してくれた。ルークの解説はわかりやすいけど、いちいち用語を説明してもらうのは申し訳ないから、今度少し自分で調べておこう。「星の記録係」の仕事場にある図書館に武器関係の本はないけど、近衛兵とかが暮らしている所の図書館ならあるかな。

 食堂で晩ご飯を食べている時、中断されていた王様を説得する方法について真剣に話し合っていたら、先輩にも召し使いさんにも、ルークの上司にも声をかけられて、「二人共友達になれて良かったね」「兄弟みたいに仲良くなったね」と言われた。十回以上同じことを言われたら、大人の中に若い人がいると結構注目を浴びるんだなということを覚えた。

 今日もたくさん書いて長くなった。本当はもっと省略してまとめた方が良いんだろうけど、記憶はどんどん薄れていくものだと知っているから、消えてしまう前に全部書き留めておきたいと思ってしまう。僕が死んだらただのゴミになってしまうとわかっているのに、生きていた証を残したいと思うのは、人間なら誰もが持つ本能的な欲なのだろうか。

 眠気が限界だからか変なことを書いてしまった。いい加減寝よう。


 七十八日目

 今日、僕はルークとの約束を実現するために王様の元へ行った。「星の記録係」の面接の時以来に会った王様は、落ち着いた状況で見るとかなり老けていた。髪は真っ白で顔は皴くちゃ、耳が遠いのか声が必要以上に大きくて、何より腰がすごく曲がっていた。面接や式典の時は頑張って背中を伸ばして威厳があるように見せていたんだろう。豪華でかっちりした真紅の服を着た王様は羽織っていた大きな毛皮のマントに押し潰されそうで「無理しないで下さい」と言いかけた。折角用意した書類を見せて説明している時も、時折すごい勢いでむせ返る王様が心配で仕方なかった。王様が何歳なのかはどこにも公表されていないからわからないけど、頻繁に唾液でむせるくらい嚥下機能が落ちているなら引退した方が良いのではと思った。言ったら多分クビだから言わなかったけど。

 王様もここ数年全国でテロの予告を送り付けられることが多くなったことに危機感を覚えていたようで、この前ルークと協力して作った提案書はそのまま採用された。「星の記録係」は星座を説得出来ることから特に厳重に警護するという建前で、一人につき一人ボディーガードを付けるというペア制度にした。これから一ヶ月で寮を増築して、ボディーガードと隣同士で住めるようにする。今は一つの階に二部屋だけど、横に増築して一つの階に四つの部屋を入れて、人数の増加に伴って食堂を広くする。建物が大きくなると、高齢者は移動が大変になって大浴場とトイレまで行くのも少し不便になるだろうから、一部屋に一つずつトイレと風呂を設置することにした。エレベーターは、車椅子も介助者も余裕で入れる広さのあるものに変えて、ついでに屋上も作ってドクターヘリが着地出来るようにした。費用を必要最小限に抑えられる案も添えておいたのが、きっと有効だったんだろう。

 寮の電話を借りてルークの携帯電話にかけると、暇だったらしいルークはすぐに出た。結果を伝えると「二人で協力して考えたんだから当たり前だ」って自信あり気に言ってたけど、喜んでいるのは隠し切れていなかった。王宮に持ち込める物は限られているから荷物を整理しておくように伝えたら、「武器と本と服しか持ち込まない予定だ」とすごくストイックな返答が来て、思わず笑ってしまった。お互い暇だったので今から会わないかとルークに誘われて、その後街に出掛けた。カフェでお茶を飲みながら、「王宮に来たら僕が案内してあげる」と約束したり、新しく手に入ったという武器をルークに見せてもらったりしていた。会う度に距離が縮まる感覚がして、年を取っても友達でいられるかな、と遠い未来のことを考えたりなんかした。


 百十三日目

 昨日寮の増築が終わって、今日は全員仕事を休んでボディーガード達の引っ越しを手伝った。一ヶ月ぶりに会ったルークは、トレーニングの量を増やしたらしく前より少し逞しくなっていた。ルークの荷物は言っていた通り武器と本と必要最低限の服だけだったから、僕はルークが運び終えるのを待って部屋の掃除を少し手伝っただけで終わった。早々に引っ越し作業が終わって暇になったら、僕はルークが持って来た荷物を見せてもらった。ルークは意外にも観劇が趣味らしく、本棚にはパンフレットをまとめたファイルや、歌の楽譜が並んでいた。歌えるのか聞いたら「一応な」と恥ずかしそうにしていたけど、「寮の部屋防音になってるし、本気で歌ってみて」と言ってみたら、まだ恥ずかしがりながらも歌ってくれて、僕は圧倒されてしまった。全身を震わす声量も、細かいリズムを音も外さず完璧に奏でる繊細さも、歌詞通りの感情が籠っているのも、全部が心に沁みて、泣きそうなくらいだった。低音なのにどこまでも優しい声がすごく羨ましくなって、僕も歌ってみようとした。だけどすぐに僕は低音が出せないことがわかって、代わりにルークが歌えない女性パートの方を歌ってみることにした。一階のロビーに調律されているけど飾り物化としているピアノがあるから、それを使わせてもらった。ルークにピアノを弾いてもらいながら女性パートの方を歌うと、思ったよりすんなり声が出た。知識だけは持っていたから楽譜の指示も一瞬で理解して従うことが出来て、ルークに驚かれた。一時間もすれば一曲歌えるようになっていて、ピアノの伴奏とルークの男性パートと合わせたら「ハモる」と言われている現象を初めて体感した。ルーク程声量はないけど、声が高い分ルークよりも「よく通る声」と言われる声を出せた。お互い良い息抜きになるから、また歌おうと約束した。

 歌を歌うのは意外と疲れた。でも、自分に出来ることが一つ増えたのは純粋に嬉しかった。ピアノの伴奏と二人の声が合わさったあのメロディーが頭から離れない。今夜は少し、良い夢が見られそうだ。


 百三十五日目

 今日はみんなで海に行ってきた。大人が多いから遊んだと言えることをしたのは僕とルークだけだったけど、みんな海の写真を撮ったりビーチパラソルの下でのんびり寝たり、満喫していた。

 僕は全身に醜い傷痕があるから、買っておいた青い水着を一応着て、その上に長袖長ズボンのジャージを着ていた。だって、火傷痕、釘で体を貫かれた痕、単純に殴られたり蹴られたりした打撲痕、他にも切創とか銃創とか、色んな傷痕があるから。街にいた時仕事の報酬で手に入れた薬を塗っていたら少しは傷の色が薄くなったけど、それでも薄く残っている痕が首から下に満遍なくあるなんて、見せられない体にも程がある。

 だから本当はあんまり行きたくなかったんだけど、それでも海というものを初めて見たら、あまりにも綺麗で来て良かったと思ってしまった。海は光の加減によって青にも翠にもなって、太陽の光を反射して宝石箱みたいにキラキラ光っていて眩しかった。空に浮かぶ白い雲も海とよく合っていて、すごく細かい白の砂も、硬いような沈み込むような不思議な感触で面白かった。海水浴場は世間一般では夏休みということもあって混んでいたけど、岩がちらほらと見える端に行けば人はいなかった。服を脱げないし、泳げないというかそもそも泳いだことのない僕は浅瀬で足だけ浸かって、遠くまで余裕で泳ぐルークがたまに拾う大きな貝殻を回収して眺めていた。しばらくそうしていたら、ルークの唇が青くなっていたから泳ぐのを止めさせた。休憩中はルークとお喋りしていて、話の流れで僕も泳がないのかと聞かれた。最初に「泳げないから僕はいい」と言っていたからか、ルークは僕に泳ぎを教えたそうにしていた。流石に泳げないという理由だけでは通せなくなって、思考の末ルークなら言っても良いかと思った僕は、ジャージのチャックを下ろして傷痕を見せた。王宮に来るまでの十数年間、絶え間無く怪我を負っていた体は危険な仕事をしているルークの比にならないくらい傷痕が多くて、ルークは息を呑んでいた。こんな体を人に見せて不快にさせたら申し訳ない、今までそれとなくお風呂に入るのを誰にも見られないようにしていたのも、このためだと説明した。気分悪くなってないかな、と憂慮してルークの顔色を窺うと、ルークは「自分も体に傷痕がたくさんあるから、お揃いだな」と笑ってみせた。「気にしない」くらいは言われると思っていたけど、その返答は予想外だった。ルークは「折角海に来たのに入らないのは勿体ないぞ」と言って、僕のジャージを奪い取ると無理矢理海に連れ込んだ。海はすごく冷たくて、ゆらゆら水が揺れるから体が不安定で最初は怖かったけど、少し慣れると気持ち良くなった。持って来たビーチボールを膨らませて遊んだりして、すごく楽しかった。その時までは。

 岩場だから人は来ないと思っていたのに、突然カップルらしい男女が現れた。偶然通りかかっただけみたいだったけど、二人は僕の方を見ると、「気持ち悪い」と言った。左右で目の色が違うのと、かなり目立つ体の傷痕が不快らしく、「気持ち悪い目」「汚い」「そんな体で海に来るとかバカじゃないの」「不愉快だから謝れよ」と、理不尽な言葉を浴びせてきた。心臓が凍り付いたように体が冷えた僕は、村にいた頃を思い出して咄嗟に謝ろうとした。

 でも、ルークが前に出て、「おかしいだろ」と怒ってくれた。「綺麗な目の色は生まれつきだし、傷痕は必死に生き抜いた証だ。わざと肌を焼いてタトゥー入れて、変な場所にピアスをして髪を脱色しているそっちの方が見ていて不快だ」って、言い返してくれた。ルークは僕の見た目をそんな風に評価してくれていたのかと初めて知って、泣きそうになった。というか、カップルが慌てて去った後泣いてしまった。

 海から上がって休憩しつつ嗚咽が治まるのを待って、落ち着いた頃ルークがとある提案をしてきた。ルークの所属する会社は、職業柄怪我をすることも多いから提携している病院がある。その病院はかなり大きくて美容整形外科もあるから、そこに通って傷痕を消したらどうかと言われた。長い期間通う可能性もあるし少しお金はかかるかもしれないけど、「星の記録係」の給料なら大抵はそこまで痛手な金額ではない。それに、傷痕があることで僕が昔のことを思い出したり、普通の人と同じことが出来ないまま過ごしたりするのは悲しいから、これ以上傷付かないためにも行ってみて欲しいって、ルークはそう言っていた。

 人に見せないように気を付けていれば良いだけだから消す必要もないかと思っていた傷痕だけど、ルークにそこまで言われたら流石に心が揺らいだ。だから、今度病院に行ってみようと思う。どのくらい消せるのかはわからないけど、お金があれば消せるなら、なるべく消してみたい。

 お年寄りが多いから早目に帰ることになって、三時にはもう寮に着いた。お風呂で砂を落とした後、カップルの言葉が頭に残って気分が悪かった僕は、ずっとルークの部屋にいさせてもらった。ルークが新しく仕入れたらしい楽譜を見て穏やかな歌を歌っているのを聞いていたら、自然と涙が溢れる程に平穏な気持ちになって、ルークのベッドで寝てしまった。晩ご飯前に起きると少し吐き気は和らいでいたから、いつもよりは少ないけどご飯は食べられた。でも一人でいるのはやっぱり落ち着かなくて、夜は一緒に寝させてもらうことになった。三人は寝られそうな無駄に広いベッドが用意されていて良かったと今では思う。


 百四十三日目

 今日は嫌な天気だった。午前中から空は薄い灰色の雲に覆われていて、湿度が高くて不快だった。お昼を過ぎるとどんどん黒に近い灰色の雲が空を覆い始めて、三時頃になると土砂降りの雨が降り始めた。ばちばちと雨粒が窓ガラスを叩いて、遠くで雷が低く唸るのをずっと聞いていた。今もまだ降っている。この天気は、本当に昔から嫌いだった。

 でも具体的に何が嫌いなのか、自分でもよくわかっていなかった。暗いのが怖いのか、雷が怖いのか、判然としていなかった。それで、夕方に何となくバルコニーに出て雨粒を手の平に溜めながら空を眺めていたら、食堂に来ない僕を呼びにルークが来た。ガラス越しに目が合うなり「何やってんだ!」と僕をバルコニーから室内へ連れ戻したルークは、何故かすごく焦っていた。どうして焦っているのか聞いたら、「今にも飛び降りそうな気がしたから」と言っていた。自分ではどんな顔をしているのかわからなかったけど、ルークに手を掴まれた部分から温かい体温が伝わって、自分の体が冷えきっていたことだけはわかった。事情を話すと、ルークは僕を変人扱いするでもなく、一緒に考えてくれた。「匂いは人の記憶をよく思い出させるから、昔のことを思い出すんじゃないか」と、基本であるはずの知識と一緒に改めて言われると、本当は理由を知っていたことに気付いた。

 村にいた頃、僕は家に入れてもらえないことが普通だった。幸い一年を通して温暖な気候の地域だったから晴れか曇りなら家の庭で野宿したけど、雨の日は村から少し離れた森の中にある洞穴で雨を凌いでいた。頭の先から靴の中までびしょ濡れの状態で、灯りがないと物がよく見えない程暗い午後から、次の日朝日が昇るまでじっとしていたから、我ながら忍耐強いと思う。ただ、その分あの時の感覚は、五感全てに刻み込まれていた。雨に打たれて揺れる木々と穿たれる土。ざあざあと心臓を震わす雨音と、地震のような揺れと共に鼓膜を破こうとする雷鳴。息苦しい程湿度が高く、濡れた土や石の匂いが混ざった空気。体温を奪われまいと服を脱いでも、濡れた体は容赦なく冷えて、体の感覚がなくなる。体の感覚があるか確かめるために地面に手を這わせると、砂利混じりの泥が雨の匂いと共に染み付く。そうして汚れた手にはぁ、と息を吐いてみても、温かさを感じられるのは一瞬にも満たない。助けなんてないと心の底からわかっているのに、「寂しい」という幼稚な感情は消えず、涙が雨水と混ざって頬を伝い、口の中をしょっぱくする。夜が更けると、雨が止んでも光は森に吸収されるから何も見えなくなる。そうなると不思議なことに音以外は感じられなくなる。断続的な呼吸音と、無意識に自分が身じろぎして体が地面と擦れたらしい音しか聞こえず、途端に不安になる。意識を飛ばしたくて寝ようとするのに不安が邪魔して寝られず、信じてもいない死後の世界に迷い込んだ錯覚に陥る。自分がどこにいるのか、自分は誰なのか、生きているのか死んでいるのか、何もかもがわからなくなる。

 王都に来てからは喧噪が絶えないのでそんなことはなくなったけど、村にいた時何百回と経験したあの感覚は、忘れることはない。

 独りぼっちの恐怖。自分自身さえ見失う暗闇。思考能力を落とす寒さ。

 思い出そうとすれば、いくらでも思い出せた。ただ、その恐怖を思い出すと、過去にされた色んなことまで思い出して震えが止まらなくなるから、思い出すことを拒んでいた。人の「無意識」は、何か強い理由がないと変えられない。それを今日思い出してしまったのは、ルークがいたからなんだろう。友達とは言っているけど、僕達はたまに年の離れた兄弟みたいになることがある。知識はルーク以上にあるだろうけど、まともな環境で育たなかった僕は王宮に来て安心してから、人生をやり直そうとしているみたいに少し精神が退化した。それを十九歳のルークが、「おかしい」とも言わずに受け入れて、何かあれば優しくあやしてくれる。その優しさに、僕は付け込んだ。

 ルークに言われて過去を思い出してしまった僕は、泣いて暴れた。寒い、怖い、痛い、嫌だ、助けて、大嫌い、頭に浮かんだ言葉を吐き続けた。全身を掻き毟りたくなって自分の体を傷付けようとしたらルークが腕を掴んで抑えてくれて、そこで正気に戻った。ルークは僕よりも悲しそうな顔をしていて、今にも泣きそうだった。「こんな僕でごめん。嫌いになったよね」と、タガが外れて暴れたことを後悔しながら言ったら、「嫌う要素なんて何一つない」と、当たり前のように頭を撫でてくれた。「辛いことがあったのにずっと我慢していて、やっと本音を吐き出してくれた人を責めるなんて酷いことするはずがない。むしろ安心した」と言って、赦してくれた。否、赦すというのは僕の認識で、ルークにとっては泣いている子を慰めてあげたくらいの感覚だったんだろう。それでも僕にとってその優しさは痛いくらいで、抱き締められた時に感じた体温は、熱くて火傷しそうなくらいだった。赤ちゃんみたいな声で泣きじゃくっていて、そんな僕が落ち着くまでルークはずっとお兄ちゃんとして傍にいてくれた。

 落ち着いた後食堂に行こうと言われたけど、食欲はなくてむしろ吐きそうだったから、ご飯は食べないでお風呂に入った。ルークはお腹が空いているはずなのに、僕とずっと一緒にいて、部屋まで送ってくれた。ご飯は僕を部屋まで送ったらちゃんと食べると言っていたけど、流石に甘えっぱなしで申し訳なかった。いつかルークが僕を頼る時には、ちゃんと力になってあげようと思う。僕に務まるかはわからないけど。


 百五十三日目

 今、僕は宇宙にいる。やっと仕事の最終段階にたどり着いて、今朝星を発った。ロケットの中はちょっと狭いけど、生活に必要な設備は一通り揃っていて、狭いアパートに泊まっている気分だ。数百年前はロケットの中は無重力状態で、かなり体が丈夫じゃないと宇宙にいられなかったらしい。超高速で移動する技術も開発されていなかったから、ここに至るまでどれだけ世界中の科学者が頑張ったか伺える。さっき寮にいる先輩と召し使いさんに画面越しで会ったら、「体調は悪くないか」とか「危ない星座に出会っていないか」とか、過剰に心配された。今度の誕生日で一応僕も十七歳になるんだけどな、と思いながら問題がないことを報告したら、目に見えてほっとしていた。途中気になったのかルークも現れて、「約束した宇宙の写真は撮ったか」と聞かれた。唯一普通に話してくれるルークの冷静さが嬉しくて、すでに写真は何枚か撮ってあったけどもっといっぱい撮って帰ろうと決めた。

 明日の朝到着して星座と会う予定だから、もう準備は終わらせた。星座は筆談でしか話さないから、僕達もステラ語で書いた文を見せて話す。何を言われてもすぐに出せるよう、色んな文を書いた紙を用意するのは骨が折れた。想定外のことを言われてもすぐに書いて返せるように、書くのが難しいステラ語を完璧に覚えるのも苦労した。でも準備は万端だし、上手くいけば明日の夕方には帰れる。明日に備えて寝よう。


 百五十四日目

 仕事は無事に上手くいった。星座の間で「星の記録係」という存在は有名らしく、若い女の人の姿をしたその星座も僕を見ても驚くことなく話してくれた。初めてだし説得には少し時間がかかる予定でいたけど、むしろ「人間を見てみたかったから嬉しい」と好意的だったから助かった。「ロケットのどこかに捕まって」と言ったら星座は窓の縁に腰掛けて、僕に話しかけてきた。その星座は本当に人間の若い女の人と変わらなくて、着ているドレスは自分で作っているんだとか、仲の良い星座に最近彼氏が出来たとか、そんな話を聞かせてくれた。何か気になることはないかと聞かれて、「星座は手の平に書いた文を見せて会話しているけど、ペンもないのにどうやって書いているのか」と質問したら、「頭に伝えたいことを思い浮かべて、ばーっと指先で手の平に書いたらいつの間にか文字が浮かんでいて、いつの間にか消えている」と曖昧な返事が来た。文字は誰に習うということでもなく、生まれた時から備わっている力のようなものらしい。「聴覚もあるのにどうして筆談なのか」と聞いても、「それが当たり前になってるからわからない」と言われただけだった。お昼頃になると、星座は自由な性格だと言われている通り、ロケットの屋根に上って寝てしまった。暇になるのは想定していたから、僕は本を読んで時間を潰していた。夕方になって、ロケットが星に着陸する準備に入ると、ちょっと名残惜しくなって僕は外を眺めた。一時的にほぼ同じ場所に止まるからずっと流れていた景色も止まっていて、僕は双眼鏡で周りを見てみた。そうしたら、僕は見たことのない場面を見てしまった。

 その人は、サーカスの玉乗りで使われる大きなボールくらいの星の上に立っていた。群青の生地に金銀で星々が描かれたドレスのスカートは、その人の背後に見える銀河と同化しかけていた。白にも見える金色の髪は腰まで下ろされて、髪の間から覗く耳には雫の形をした青のイヤリングが頼りなく揺れていた。顔は俯いていてはっきりわからなかったけど、透き通るような白い肌と薄いピンク色をした唇を見る限り、綺麗な顔をしているのだろうと予想出来た。その人は右手に持っていた真っ白な花束らしき物をそっと口元に近付け、祈るように花びらと接吻した。覚悟を決めたように前を向いたその人は、前髪の間から現れた藍色の瞳を瞼の裏に閉じ込めると、足を踏み出した。あ、と言う間に体が炎に包まれて宇宙の底へ堕ちていくその人に思わず手を伸ばしたけど、届くはずもなく指先が窓に当たっただけで終わった。

 無事着陸してロケットから出て来たら、僕の初仕事が成功してみんなすごく喜んでいた。ロケットの屋根で寝ていた星座も人間に協力的で、たくさん面倒臭い星座と会って来ただろう先輩達はほっと胸を撫で下ろしていた。

 レポートを置きに仕事場の共同スペースに行った時、帰りに見かけた星座について先輩に話してみたら、「よくあることだよ」と言われた。悠久の時を生きる星座も、人間が事故や病気で突然死ぬように、いつ死ぬかわからない。もし恋をして相手と両思いになっても、相手が突然死んでしまったら、死ぬほど辛いのに何千、何万年という時を生きることになる。だから恋をした相手が死んでしまった星座は、大体すぐに自ら流れ星となって消える道を選ぶ。人間は星座を神様みたいに敬って、人によっては信仰しているけど、本当は人間も星座も変わらなくて、みんな弱い心と戦いながら不器用に生きているんだと、そう話してくれた。やっぱり僕も、心のどこかでは星座は神聖な存在だと思ってしまっていたんだと思う。

 星座が自殺する場面をこの目で見てしまった。人間も星座も変わらないと先輩に教えてもらった。人間も星座も幸せになれる何かを思いつくなんて偉大なことは、僕には出来ない。綺麗事だとわかっているし、誰もが同じようなことを言っていると知っている。それでも、一人でも多くの人が笑顔になれるように願おう。そのくらいなら、許されるだろう。


 二百二十五日目

 初仕事を終えたあの後、「面倒臭い星座がいるから代わりに説得しに行ってくれないか」と仕事を頼まれて、それがようやく昨日終わった。筋骨隆々とした強面の星座に会うのは最初嫌だったけど、子どもが相手なら優しい性格の星座だったから安心した。軽く説明しただけであっさりついて来てくれて、生まれて初めて背が小さくて良かったと思った。

 僕が不在だった間にルークが秋祭りの知らせを見つけていて、今日はそれに行って来た。お祭り会場は王宮から車で一時間半くらいの場所にある湖で、快晴だったのもあって湖の側にある紅葉した山はすごく綺麗だった。湖に沿って屋台がずらっと並んでいたから、ルークと一周して見て回った。わたあめというふわふわの砂糖菓子とか一口サイズのカステラとか、僕は甘い物をたくさん買って食べた。ルークは食べ物にはあんまり興味がなくて、代わりに射的の屋台を見つける度に景品を取りまくっていた。ルークは一度も外すことがなくて「やっぱり銃の扱いはプロだな」と思いながら見ていたけど、ほとんどの屋台の景品を取ってしまったらブラックリストに載って出禁になった。それでもルークはプラモデルを取れて十分満足したらしく、他はいらないからとぬいぐるみと大量のお菓子を僕に押し付けてきた。結局重いから歩いている時はずっとルークが持っていたけど。その後、仮設ステージで披露されている手品を見ようかと話していたけど、僕が人混みに酔ってしまったから、山を少し上った所にある公園に行った。結構広い公園だったけど、遊具は全部塗装が剥がれて錆びていて、誰もいなかったからとても静かで、寂しい雰囲気だった。だけど地面が赤や黄色の葉っぱで埋め尽くされているのはすごく綺麗で、忘れ去られているのがもったいなかった。折角だから葉っぱを拾って栞を作りたいと言ったら、ルークも綺麗な葉っぱを探すのを手伝ってくれた。そのついでに公園をぐるりと歩いていたら、公園の奥の方にお墓を見つけた。かなり古い文字で書かれていた上に石が風化していたから読めなかったけど、こんな場所に一つだけお墓があるのは明らかにおかしいと思った。僕が周りを調べている間にルークは携帯で公園について調べていて、心霊スポットに登録されていると伝えて来た。この世は原子で構成されているから幽霊は信じていないけど、流石にここに埋められた人が可哀想だと思って、僕はお墓の裏に見つけた井戸から水を汲んで、墓石にかけてあげた。土埃で汚れていた墓石が綺麗になったら、持っていた紅葉を何枚かお供えしておいた。

 そろそろ帰ろうかと山を下りて迎えの車がいる駐車場へ行ったら、お祭りに来た人全員が引けるというくじがあった。長い列を作っていたから通り過ぎようとしたら係員に声をかけられて、仕方なく並ぶことにした。五分くらい待って、景品リストを見ながら「特に欲しい物ないね」と話しながら引いてみたら、僕が一等でルークが二等を当てた。当事者の僕達は「一等と二等の景品は秘密になってるからまだ嬉しくないね」と冷静だったけど、後ろに並んでいた人と係員はものすごく驚いていた。係員が渡して来たのは、温泉旅行のペアチケットと、若者に人気らしいブランドが特別に作ったお揃いのネックレスだった。帰りの車の中で景品をどうするか話し合った結果、温泉旅行はお年寄りの先輩の中で行きたい人に譲って、ネックレスは記念に自分達で持っていようということになった。ネックレスは宇宙がモチーフになっていて、雫の中に本物の銀河があるように見えて、見つめていると吸い込まれそうだった。ルークは「本当にお前は星に好かれているな」と少し呆れていた。

 寮に帰ったら、ルークに押し付けられたお菓子をみんなに配って、ぬいぐるみを部屋の棚に飾った。赤い蝶ネクタイを結んだテディベアと耳が垂れているピンクのうさぎのぬいぐるみを置くと途端に子ども部屋っぽくなったけど、抱き心地も良いし可愛いから許そう。ネックレスは段々お守りみたいに思えてきたから、明日から身に着けようと思う。

 さっきお風呂でルークと話していたら、「もしかして一等と二等を当てられたのは、綺麗にしてあげたお墓の主が幸運を呼んでくれたからじゃないか」と言っていた。いつもならそんなこと信じないけど、たまには非科学的なことを信じても良いかもしれない。


 二百四十六日目

 今日、ルークが朝から憂鬱そうにしていた。何かあったのかと聞いたら、両親から電話がかかって来たらしい。「年末年始は親戚が集まって大会議をするのに、トップの息子が出ないと色々言われる。親の顔に泥を塗りたくなかったら帰って来い」と、随分な物言いだったようで、流石に同情した。だから、「いっそ遠くに逃げるか」とか暗い顔でぶつぶつ言うルークに、「僕が一緒に行けたら力になってあげられるかもね」と冗談交じりに言ってみた。そしたらルークが急に食いついて、「それ本気か?」とすごい剣幕で言われて、思わず頷いたら「年末年始予定開けとけよ」と言われて、本当に行くことが決まった。父親が怖い人と聞いているから、僕の身の安全は大丈夫なのか聞いたら、「余所者がいた方がみんな自分の立場を守ろうと大人しくなるし、何かあっても連れて来た俺の責任になるから気にするな」と言われた。そんなことを言われたら気にするに決まっているから、それまでにもっと話術を磨いておいて、何があっても自分の意見を言えるようにしよう。


 二百七十日目

 今これを書いているのは、自分の部屋じゃない。自分でもどこにいるのかわからないけど、窓がないから地下室なんだと思う。冬に薄い毛布一枚でここにいるのは、コートがあるとはいえかなりきつい。いつもは持ち歩かないこのノートをバッグに入れておいたのは、もしかして虫の知らせだったのかもしれない。

 今日はルークと王宮から少し離れた場所にある繁華街へ行った。明後日からルークの家に泊まるから、必要な物を揃えていた。何かあってもボディーガードのルークがいれば大丈夫だという、ルークに頼りっきりの甘さが引き起こしたのかもしれない。午前中から夕方まで買い物をしていた僕達は、迎えが来る場所まで歩いて行った。大通りは僕達と同じように買い物から帰る人でごった返していて、進むのが難しいと判断して路地裏を通って行くことにした。以前その道をよく使っていた僕は、危険な人がいると知っていたはずだった。だけど、警察が路地裏を洗い出して治安が改善したという噂が油断させた。いつの間にか、見覚えのある十数人の犯罪者に囲まれていた。ルークは奮闘していたけど、人数の差で押し負けて気絶させられた。僕も二人くらいまでならどうにか逃げられるけど流石に無理で、スタンガンで気を失って、気が付いたらここに一人でいた。少し前に派手な化粧をした女の人が、「王宮から十分な金をもらうまでここにいてもらう。その後はどこかに売り飛ばす予定だから、せいぜい生きてよね」と言いに来た。ルークは無事なのか聞いてみたけど、「どうせもう会うことはないからどうでも良いでしょ」と冷たくあしらわれてしまった。全力で走れば部屋から出られたかもしれないけど、銃を持っていたからやめておいた。あの女の人はよく暗殺の仕事をしていたから、銃で狙われたらひとたまりもない。

 壁も床もコンクリート一色で、あんまり明るくない蛍光灯に照らされたこの空間に時間がわからない状態でいるのは、思った以上に辛い。似たような部屋で軽く拷問にかけられたことがあるし多少は耐性があるけど、王宮での温かい暮らしに慣れたせいか、こうして何か書き続けていないと自分を見失いそうだ。村にいた頃、雨の日に森で一夜を明かしていたのを思い出す。拷問をされた時も思ったけど、「窓のない部屋に閉じ込めて時間の感覚を無くすと人質の不安を煽れる」というネタを最初に小説に組み込んだ作家さんは天才だと思う。何で体験したことが無いのに本当のことを思いつくんだろう。裏社会で働く知り合いでもいたんだろうか。

 それはともかく、今までたくさんの推理小説を読んで、裏社会にもかつて身を置いていた僕には、指摘したいこともある。商品にする予定の人を真冬の地下室に食事も出さずに放っておくのは弱る可能性があるから、価値を上げたいのならもっと丁重に扱うべきだ。僕が人質や捕虜の世話をした時は、必要最底限の栄養と水分、冬なら体温保持の毛布やカイロを、夏だったら保冷剤を与えた。ずっと独りで閉じ込められて、気が狂わないように話し相手になったこともある。殺すのはとても簡単だけど、生かしておくことはとても難しいと、僕はとっくの昔に気付いていたからそうしていた。でも結果的に、それが不利益になったことは無かった。きちんと世話をしてあげておけば恩を売れるから、寝返ってその人に協力すれば後でかなりの大金が手に入ったし、後々自分の味方として役に立たせることも出来たからだ。もう僕は裏社会から足を洗った人間だから協力することもお金をあげることもしないけど、せめて僕の身なりだけでも綺麗にしておけば、本当に運が良く売り場所まで持って行ければ価値を上げられるかもしれないのに、頭の回らない人達だ。

 特に書くことがなくなった。取られたのは腕時計だけで他の荷物は持っているから、とりあえず本を読んで暇を潰そう。読むのに時間がかかる文学作品を持って来て良かった。

 ・・・本を読み終えた。辞書と同じくらい分厚くて細かい文字がびっしり詰められていて、しかも古文で書かれている本を読み終えたのに、何も起きていない。微かな希望を持って、ドアを押したり引いたりしてみたけど、開くことはなかった。ガラスが嵌められている部分に読んでいた本を投げてみたりもしたけど、僕の力では割ることは出来なかった。今が何時かわからないけど、少し眠気を感じる。でも寝ようとしても、この寒さではとても寝ることは出来ない。体を温める方法はないかな。・・・そうだ、歌を歌おう。ルークと一緒に色んな曲を練習しておいて良かった。歌っているうちに疲れて寝れるかもしれない。

 ・・・どれだけの時間歌っていたかはわからない。たくさんの曲を、何度も何度も繰り返し歌っていた。もう喉は痛みすら感じなくなって、ヒリヒリする感覚があるだけだ。ただ思った通り疲れたから、寝ることが出来そうだ。さっきルークとお揃いのネックレスを着けていることを思い出した。お守りみたいに扱っているそれを握り締めて寝てみよう。


 二百七十二日目

 今、僕は病院にいる。あれから僕は、ルークに体を揺さぶられるまで眠っていた。起きたら目の前にルークがいたから、びっくりして飛び起きた。でも起きた瞬間眩暈がして倒れてしまって、ルークに背負ってもらって部屋を出た。僕がいたのは古い廃ビルの地下で、外はもう夕暮れ時だったから丸一日あそこにいたことを知った。ビルの前には救急車が止まっていて、僕はそれに乗せられてこの病院に来た。低体温と貧血だけど、どっちも軽いからすぐに治るだろうと言われた。でも、大事を取って一晩入院することになった。

 一人部屋に案内されて、初めて見る病室の清潔さにそわそわしていたらルークが会いに来て、事件の顛末を教えてくれた。ルークは一回気絶させられたけどすぐに起きて、僕がいないことに気付くと悔しさを殺して父親に電話したらしい。「星の記録係」が誘拐されたと知ったルークの父親はすぐにあらゆる手段を使って手掛かりを集め、関わった人物全員逮捕して僕の居場所を吐かせたと言う。僕を見つけるのに時間がかかったのは、なかなか僕の居場所を吐かせられなかったからと言っていた。話し終えたら、ルークは「守れなくて本当に悪かった」と頭を下げてきた。「悪いのはルークじゃない」と言った丁度その時、部屋に警察の服を着た人が入って来た。ルークがその人を見た瞬間「父さん!」と言った時は、耳を疑った。日に焼けた褐色の肌と短く刈り上げた髪、筋骨隆々とした体は大きな熊みたいで、ルークと似ている所が何一つなくて、とても親とは思えなかった。ルークの父親はルークが「何の用だ」と睨んでいるのに見向きもしないで、僕に「お前がこいつと仲の良いという奴か」と聞いてきた。重い威圧感に声が出せなくて頷いたら、重い溜め息を吐かれて震え上がった。でも溜め息の理由はルークだったみたいで「この未熟者が弱いせいで迷惑をかけた。教育し直すからどうか許して欲しい」と言い放った。「私と妻の息子のくせにいつまでも弱いまま」とか「人を統率する地位に就く義務があるのに馬鹿だから受け入れようとしない」とか、本人の目の前で散々なことを言い始めて、どうすれば良いのかわからなくて固まってしまった。だけど少し視線をずらしたら後ろでガタガタと震えているルークが見えて、頭が真っ白になった僕は手元のバッグに入っていたあの重い本を、思いっきりテーブルに叩きつけて黙らせた。心臓が破裂しそうなくらい大きく速く鳴っていて、今も思い出すと心臓が煩くなる。今まで読んだ物語は全部頭の中に記憶してあるから、その中で状況にぴったりな文章を抜き出して繋いで、言い聞かせようとした。実際にした・・・はず。あまりにも緊張していたから、実際に自分が何て言ったのかは覚えていない。言い終わった後喉が少し痛かったから、もしかして怒鳴ったのかもしれない。二人はただ驚くばかりで、しばらく無言でいた。長い間を置いて、最初に沈黙を破ったのはルークの父親だった。それは僕に向けての言葉で、「君は今まで会った人の中で一番変わっているけど、一番面白い」と言われた。「親元を離れて、君みたいな子といた方がルークは成長出来るだろう。これからもよろしく頼む」と少し前までは考えられない言葉が飛び出して、一番驚いただろうルークが「家に帰らなくて良いのか?」と聞いたら、「自由に生きれば良い」と言い残して帰って行った。一体僕は何を言ったのかと聞いたら、「あれは俺が口にして良い言葉じゃない」と繰り返すだけで教えてくれなかったけど、「うちの家系の救世主だ」とか大袈裟なことを言われるくらい感謝されることが出来たみたいだから良かった。これで安心して年を越すことが出来そうだ。

 やっぱりかなり疲れていたみたいで、昨日地下で書いていた文章も、今日書いた文章も上手く書けていない。ルークを見習って、冷静さを失わないようにしよう。


 二百九十日目

 今日は「灯送りの日」で、名前にもある通り灯送りという行事が行われる日だった。僕の村では噂しか聞いたことがなかったから、王都に来て大々的にやっているのを見た時は驚いたっけ。去年まで参加する暇がなかったから、今年は初めて参加した。灯送りは火を神様に送り届ける行事だと聞いていたけど、詳しく言うと違うらしい。新しい年を迎える時は、人間だけでなく魑魅魍魎も浮かれ騒ぐ。だから調子に乗った魑魅魍魎が人間の世界に来て悪さをしないように、神様の加護がある神聖な火を家の前に灯して守ってもらい、年末年始が過ぎたら感謝と共にその火を返す。そんな由来がある行事だった。神様とか妖怪は信じていないからどうでも良かったけど、お祭りは好きだから楽しかった。円柱の紙の中に蝋燭を入れた灯篭が街に流れる大きな川を埋め尽くした光景は写真で見たことがあったけど、この目で見るとこんなにも神秘的なのかと胸が震えた。灯篭が増えて川が明るくなるにつれて祭りムードも高まって、僕も久しぶりに興奮した。屋台も出ていたから、僕は初めて食べてからお気に入りのわたあめと、チョコレートがたっぷり入ったクレープを食べた。ルークは射的屋を潰しに回っていて、またプラモデルを手に入れたらしくかなりご機嫌だった。

 寮に帰ってルークが取った景品を種類別に仕分けしている時、ルークに「どうして星座という未だに解明されていない存在と関わっているのに、神様とかは信じないのか」と聞かれた。僕も一時期自分でも不思議に思ったことがあるけど、答えはシンプルなものだ。神や魑魅魍魎は何千年も前から人々に認識されていた存在なのに、未だに実在する証拠が一切見つからない。だけど星座は、ちゃんと原子から成る生物だと証明されていて、細かい体の仕組みや体そのものである星との関係も解明されつつある存在だ。そう言ったら、ルークは「原子から成る生物」という言葉が引っかかったみたいで、「お前の目には全部化学物質に見えてるんだな」と笑われた。言わないようにしていたことを言ってしまって、「頭がおかしい」と言われるかもしれないと怖くなった。けど、次にルークが言ったのは、「やっぱりお前強いよな」の一言だった。理由を聞いたら、ルークは笑顔で「この世界の本質を知っているのに、自棄にならないで誰かを笑顔にしたいとか救いたいとか、優しいまま生きているのは強い証だ」と言った。僕を否定しないで受け入れてくれる姿に「やっぱりお兄ちゃんみたいだな」と思った僕は泣いてしまって、ルークはいつかみたいに頭を撫でてあやしてくれた。もし前世とか来世というシステムが本物だったら、僕は来世ルークと兄弟になれるように願っていたと思う。


 三百三十四日目

 今日は僕の誕生日だった。朝からみんなに「誕生日おめでとう」と声をかけられ続けて戸惑っていて、晩ご飯は僕の好きなシチューと、大きなバースデーケーキを出されて驚いた。部屋を暗くしてバースデーソングを歌われながら蝋燭を吹き消す時は、嬉しい反面恥ずかしさで死にそうだった。大量のプレゼントをもらってルークに手伝ってもらいながら部屋に運んで、開けるのも手伝ってもらった。プレゼントの中身はぬいぐるみとハンカチとマグカップが多かったけど、高そうな万年筆とか鍵の付いたお洒落な箱ももらった。ぬいぐるみは前にルークからもらったテディベアとうさぎと一緒に飾って、ハンカチとマグカップは日替わりで使うことにした。鍵付きの箱は宝物箱にして、特別なことを書く時に使うことにした万年筆を入れておいた。

 プレゼントを片付け終わって、ルークのプレゼントがどれなのか聞いていないことに気付いたのと同時に、ルークにプレゼントを渡された。白い袋に赤のリボンが付けられただけのシンプルな包装を開けると、金の細い鎖に小さな紫の宝石が一つ繋がったブレスレットが入っていた。プレゼントに悩んでいる時誕生石という存在を知って、僕の誕生石を調べて良いアクセサリーがないか探したのだと言う。ちなみに宝石言葉は「誠実」「心の平和」らしい。紫の石は光にかざすと反射してすごく綺麗でずっと着けていたいけど、流石に高価な物だから大事な時のお守りとして宝物箱に保管することにした。どうして渡さなかったのか聞いたら、「初めてプレゼントを買ったから自信がなかった」と言っていて、ルークも不器用なところがあるんだなと微笑ましく思った。

 僕がいなくても世界は変わらない。僕が存在する意味なんて無い。ずっとそう信じていた。それに、僕は誰からも憎まれていたから、自分がこの世に生を受けたことに対して呪われることは何度もあっても、祝われるのは初めての経験だ。だから今、体が宙に浮いているような、心と体が乖離しているような、不思議な気分だ。でも、今まで誕生日に祝う意味がわからなかったけど、少しだけわかった気がする。気がするだけだから上手く言葉には出来ないけど、「出会えて良かった」とほんの僅かでも思ったことがある人の誕生日を祝うのは、「自分の人生に良い影響を与えてくれてありがとう」と伝える意味もあるんだと思う。

 ルークの誕生日は四月だから、僕も誕生石のブレスレットを買ってあげよう。先輩の誕生日プレゼントは美味しくて食べやすいお菓子って決めてあるけど、ルークはお兄ちゃんみたいな存在だから、特別な物をあげたい。今日万年筆をもらったから、それでメッセージカードを書いて添えるのも良いかもしれない。今から少しずつ何をあげるか調べておこう。


 三百四十日目

 今、僕は人生で二回目の入院をして病院にいる。何が起こっているのか、自分でもよくわかっていない。というか、信じられない。まだちょっと混乱しているから、一つずつ書いていこうと思う。

 今朝、妙に召し使いさんがバタバタしていた。何かあったのかと思って様子を窺っていたら、お昼頃に王宮の正門まで連れて行かれた。何故かルークも一緒で、「何だろうね」と話しかけたら、事情を知っていたらしいルークは苦い顔をして「さあな」と呟いた。ルークも巻き込まれて、どうすれば良いのかわからなかったのかもしれない。正門に着いたら、何かをヒステリックに叫ぶ女の人と、高圧的に門番さんを指差す男の人がいた。それが誰なのか認識した途端、僕は大量の冷や汗を掻いて、体が大きく震えて地面に座り込んだ。

 その二人は、僕の両親だった。古臭い服に真っ赤な口紅を付けた、目の吊り上がったお母さん。同じように古い服を着た、小太りで汗っかきなお父さん。最後に見た時より老けていたけど、キンキン響く声と、怒った時の特徴的な抑揚の付け方を聞いて、間違いないと確信した。しばらく混乱と恐怖でまともに言葉を発することも出来なかったけど、ルークが僕の前に出て姿を隠してくれたから、十分くらいすると落ち着くことが出来た。

 両親と向き合う覚悟が出来たら、僕は何をするかわからない両親から心配するみんなを五メートル以上離れさせた。昔みたいに無表情と無言を貫いて立つ僕を見た二人は、口元をひん曲げて「相変わらず醜い目をしている」とか「親を差し置いてこんな良い暮らしをしているなんて、殺して欲しいということか」とか、口々に罵った。それを聞いてルークがキレそうになったらしく、後ろでルークの悔しそうな呻き声とそれを抑える門番さんの声が聞こえた。懐かしささえ覚えながら「何か用?」と冷静に聞けた僕は、我ながらかなり成長したと思う。二人は僕の言葉に用事を思い出したらしく、ほぼ同時に長袖を捲って、巻いてあった包帯を取った。ぶつぶつと赤い湿疹が広がり血が滲んだ皮膚に、僕は一瞬怯んでしまった。事情を聞いたら、村でこの湿疹が流行っていて、人によっては高熱が出て死んでいると説明された。百年以上前の時代からほとんど医療が進歩していない村では治せず、新しい医者を呼ぶ伝手もないから僕の元に来たと言っていて、割とまともな理由だったことに安心した。王宮にいるお医者さんの人脈を頼れば一人くらいは見つかるだろうと話して帰らそうとしたら、「もう一つ用があるんだ」と呼び止められた。二人の口角が醜く吊り上がるのを見た瞬間、腹部にひんやりと冷たい、どこか懐かしい感覚がした。一拍遅れて火を当てられているような熱さに変わって、崩れ落ちた時に見えた血溜まりとお母さんの手に握られたナイフを見て「あぁ、刺されたのか。道理で懐かしい感覚のはずだ」と笑えるくらい冷静に事態を把握した。悲鳴や叫び声を遠くに聞きながら、防衛反応なのか僕は意識を失った。

 目を覚ましたのは夕方の六時頃で、丁度看護師さんが様子を見に来た時だった。鎮痛剤が効いているのか痛くはなかったけど、腹部が包帯で締め付けられていて、呼吸をする度窮屈さを感じた。ベッドの隣にはルークと召し使いさんが一人いて、二人共僕が起きたのを見て泣きそうな顔をしていた。あの後の両親の行方を聞いたら、門番さんがすぐに捕らえて警察に突き出したらしい。それは予想通りだったけど、僕を刺した動機は殺してお金を手に入れるためだったらしく、自分の両親の頭の悪さに絶望した。何で殺すのに心臓じゃなくて腹部を刺したのか。それに殺すとしたら、夜中に上手く呼び出して殺すのが定石だ。そもそも僕の両親だと認めたことがないくせにお金があると知った途端親の権力を振りかざすなんて、屑以下じゃないのか。どうやら気が立っていて少し正気を失っていたらしい僕は、二人に愚痴みたいなことを零してしまった。召し使いさんは困った顔をするだけだったけど、ルークには「あんな親を相手によく冷静でいられたな。俺は何度も殺してやろうかと思ったのに」と感心された。

 一通り書いたら冷静になれた。二人は殺人未遂で逮捕されたけど、釈放されたらまた僕を殺しに来るかもしれない。そうしたら、また王宮の人に迷惑がかかってしまう。だから、一度ちゃんと自分の意見を伝えよう。二人と会えるように手配してもらって、退院して色々落ち着いたら会いに行こう。


 三百六十五日目

 ようやく両親に会って話をした。監視カメラが設置された無機質な面会室で、透明な板越しに二人と会った。本当は一人ずつしか会えないんだけど、ルークの父親が少し無理を言って僕の望みを叶えてくれた。世界の中でも特に厳しいと言われている刑務所に入れられた二人は、白黒ボーダーの囚人服を着て、暴れられないよう両手が固定されていた。二人は「お前のせいでこんな場所に入れられた」と叫んで透明な板に額を擦り付け、待機していた屈強な警官に押さえられていて、僕はそれを哀れみの目で見つめていた。下手なことをすると刑が重くなるとでも思ったのか二人はすぐに大人しくなって、僕に怒鳴り散らしていた姿との差に逆に困ってしまうくらいだった。「何の用だ」と急かされて、「やっと僕の話を聞いてくれるね」と、僕はどれだけわざとらしくても笑顔を浮かべながら話した。仕返しとして両親に酷いことを言っても許されるだろうけど、それでは何も解決しない。その結論にたどり着いたから、僕は感謝の気持ちを伝えることにした。

「僕のせいで嫌な思いをしたのに、育ててくれてありがとう。僕は今、王宮でたくさんの優しい人に囲まれて、本当の兄弟みたいな人と出会えて、毎日好きな仕事をして生きている。本当に、心の底から幸せな生活を送れている。だから、もう僕のことは気にしないで。罪を償ったら僕が貯めたお金をあげるから、その後は僕の存在なんて忘れて、どうか穏やかに生きて、幸せになって」

 僕が考えていたのは、そんな言葉だった。やっぱり緊張して声は震えたけど、優しい笑みを浮かべていることは出来た。二人がどう反応するのかちょっと身構えたけど、わなわなと口を震わせ首まで真っ赤に染めた二人は、何も言わずに部屋から出て行ってしまった。何も返してくれなかったことにがっかりしていたら、待機していた警官に「プライドを粉々にされたから、もう二度と会うことはないと思います」と言われた。「プライドを砕くつもりはなかった」と言い訳のように言ったら「それが一番プライドを砕くんです」と返された。後でよく考えたら物語で読んだことのある展開だったから、無意識にお決まりのシナリオをなぞっていたのかもしれない。

 王宮に帰ったら、みんな玄関で僕を待っていた。両親と会うと聞いてかなり心配していたらしく、どんなやり取りをしたか教えたらほっとしていた。晩ご飯は頑張った僕のご褒美とかで、いつにも増して豪華だった。デザートにはホールケーキまで出されて、食べ切れないからみんなで分けた。両親に言った言葉は誇張したつもりだったけど、誇張じゃなかったのかもしれない。


 二年目 十二日目

 朝のニュース番組で桜が満開になったと誰かが聞いたらしく、ボディーガードの人を含めてみんなでお花見に行った。王宮と森が隣接していることは、一年以上住んでいるのに知らなかった。満開の桜の木に囲まれて、僕達はご飯を食べたり、酔った先輩が変な踊りをしたりするのを見ていた。街にいた頃は、接待とか情報を持つと思われる人の口を軽くするとか、どうしてもお酒と切り離せない生活だったから未成年でも普通に飲んでいたけど、流石に王宮では僕とルークはお酒を飲ませてくれなかった。本当は苦くて頭がクラクラするアルコール度数の高いお酒の味が恋しかったけど、仕方ないから「真面目な先輩をあんなに変えるお酒って怖いね」と、お酒なんて飲んだことがないみたいにジュース片手に振る舞っていた。盛り上がりが最高潮に近付くと、桜の花びらに遮断されたお花見の空間はお酒と汗の匂いで満ちて、強烈な匂いと熱気に気持ち悪くなった僕とルークは抜け出した。

 雲一つない青空で爽やかな風が吹く森は気持ち良かったけど、足を進めるにつれて舞い散る桜の花びらは増えて、息苦しくなっていった。花びらが一枚落ちるごとに帰り道が隠されているような気がしてたけど、折角良い天気なのにお酒の匂いに呑まれるのは嫌だったから、「何で空は翠なのに青空と言うんだろう」とか、「もし空がサファイアみたいに真っ青だったらどんな風だろう」とか適当に話しながら、真っ直ぐ歩き続けた。

 しばらくすると、僕達は開けた場所を見つけた。雑草が伸び放題のそこには古い女神像があった。女神像の土台には何か文字が書いてあって、好奇心で読み解いたら驚愕のあまり僕もルークも黙ってしまった。

「イヴ・ブロン」

 それは僕と全く同じ名前で、自分の目が信じられなかった。急に冷たい風が吹いて寒気がした僕達は、急いで来た道を戻った。お酒の匂いと笑い声を頼りに探してみんなの姿を見つけたら、一気に力が抜けてへたり込んでしまった。何かあったのかと人が集まってきて、呼吸を整えながらどうにか事情を説明すると、誰かが「やっぱり伝説は本当だったんじゃないか」と呟いた。みんな何か知ってるみたいだったから、怖かったけど思い切って聞いてみた。

 神話の話になるけど、この星が出来て間もない頃、神の娘のイヴという女性が桜の花びらに惑わされて、誤って善の林檎ではなく罪の林檎を食べて悪魔と神のハーフになってしまい、神の世界を追放されたらしい。一人ぼっちで地上に出されたイヴは大声で泣いて、神は泣き声が煩いからと石像に変えて黙らせた。それで更に悲しくなって憎悪が芽生えたイヴは、罪の林檎を食べて悪い知恵を持ったために、復讐として自分を見つけた人を桜の花びらで惑わし、同じ林檎を食べさせ、地獄に落とそうとするようになってしまったと言う。

 すっかり忘れていたが、この話は、僕がすごく小さい頃に聞いたことがあった。かつては「僕と同じ名前だ」くらいしか思っていなかったけど、昔両親が「罪を背負っているからお前はイヴだ」と言っていた意味をようやく理解出来た。両親もまさか苗字まで同じだとは思わなかっただろうけど。

 嫌な名前の由来だったことを知って、名前を変えたいと思った。だけどルークは、「星が見えるようになるのは夕方から。つまり星座に会えるのは夕方からということだ。その時間を表すイヴニングから取ったと考えれば良いんじゃないか」と言ってくれて、単純だけどその通りに考えたら、両親のくれた名前も悪くないなと思えた。「ブロン」という苗字も調べたら元は「白」という意味で、みんなに話したら「色白だからぴったりの苗字だ」と言われてちょっとだけ嬉しかった。

 これで、僕が抱えていたわだかまりはほぼ解消した。僕の心を縛っていた鎖は全て壊れて、自由になった。嬉しいような、寂しいような、満たされているような、胸に穴が空いているような、言葉じゃとても言い表せない感覚だ。だけどどうせまたすぐに、何か悩むんだろう。僕が僕じゃなくなるその時まで逃れられないのなら、適当に受け流すとしよう。

 それにしても、昼間に思い出したあの伝説は結構怖い。イヴが本当にいたとは思わないけど、嫌な夢を見そうだ。この前見つけた面白い本を読みながら寝よう。今度ルークにも貸してあげたいな。




 それからは、少し成長した少年の静かで穏やかな日々が淡々と綴られている。

 この世界が幻だと知りながらも、持って生まれた誰よりも正しく優しい心により、昔から人々の幸せと平和を願い続けた変わった少年。

 この少年のように、幼いながらにこの世を悟って、それ故に傷付けられた人は沢山いる事だろう。そして、これからも現れるだろう。

 悟ってしまうと、沢山の矛盾した考えが邪魔して、嬉しい時、楽しい時、悲しい時、怖い時、死にたい時、自分の気持ちにどう向き合うべきかわからなくなる。

 重要なのは、全てをひっくるめて自分で自分を受け入れる事。親子でも親友でも師弟でも、結局は別々の個体で他人なのだから。他人の声に振り回されず、自分の気持ちを見失わずにいれば・・・見失ってもまた見つけて大切にしていれば、最後には全てが丸く収まる。それを覚えておけば、死ぬまでの間多少は楽にいられるだろう。もし自分を受け入れられないと言うのなら、それまでの自分を捨てて新しく創り上げるのも一つの手だ。まぁ、理性が壊れて感情が死ぬまで傷付いた事のない人には、何を言っているのか理解し難い事だろうが。

 ここまで長々と語り続けたボク自身が、一番楽に生きる方法を求めている。もし何か方法を見つけたら、是非ボクに手紙を送って欲しい。

 ボクは宇宙を漂う哲学者。ご入り用の方は、黒い羊が持つ籠に手紙を入れて下さい。

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