第637話「俺は死んだ方がいいのかもしれん」



「──ン。ねぇ、ジン?」

「ん……」


 ご主人様の呼び声で、そぞろだった俺の意識が覚醒する。

 場所は薫風学園、学生食堂。時間は昼休みとなってすぐの書き入れ時。周囲からガヤガヤと少年少女達の活発な話し声が聞こえる中。

 箸を握ったまま虚空を見つめる間抜けな眷属に、対面に座るご主人様はひどく不服げだ。


「あなたね。昨日、アヤメと結ばれたのが嬉しいからって気を抜きすぎよ。まったく、腑抜けちゃって……」

「ごめんなさい、兄さん。リゼットさんは嫉妬してるんです……シチュエーションに拘りすぎて、そして機会を逃しすぎて、また見送る側になっちゃったものですから……リゼットさん、可哀想っ!」

「お黙りなさい色ボケ妹。所詮は私より先に肉体的に繋がっただけの女が。この主従の清らかで美しい精神的繋がりを見習ってほしいものね」

「──ふーン、無双の戦鬼、童貞卒業? 最近本国に何も報告していないシ、今月のレポートはこれでいいカ……」

「あなた、なにしれっと私達のグループに混ざってるの?」


 学園での昼食は主に俺、リゼット、刀花、綾女で集まり摂っている。たまに橘、不法侵入してくるガーネットなどもいるが。

 そして今日は、リゼットや刀花と同じ学年かつクラスの少女が一人混じっていた。妖しく魅力的な声色と、人を寄せ付けぬ浮世離れした美貌を持つ銀髪碧眼の少女。人間と水の妖精の半人半妖。露国の諜報員。しれっとリゼットの隣の席に座ってきつねうどんを啜る者──、


「スパイなのだかラ、ターゲットに近付いて情報を得るのは当然のことでしョ? これが効率的なやり方ってやツ。いえーい、無双の戦鬼。ぴーすぴーす」

「自分をスパイだってバラすスパイってどうなの。あとすごい馴れ馴れしい」


 こちらに向かって、感情の乏しげな顔のままぴーすぴーすしてくる露国の諜報員。確かに馴れ馴れしいな。俺に露国産の超兵器の設計図を教えたのがバレて、点を取り戻そうとしておるのかもしれん。

 そんな長身でスタイルも良い女スパイが、うどんに七味をドバドバかけながら少々カタコトの日本語でこちらに問う。


「それデ? なぜ上の空なの無双の戦鬼。ああ、私とのデートプランを練ってくれているノ? そしたら、最終的にはそのまま私の国に引き抜かれてくれたら嬉しイ」

「ちょっと待って初耳なんだけど。デート? このオモシロネームロシア女と?」

「あ、イレーナさん、七味貸してく~ださい♪」

「はい、刀花ちゃン。あと私のことは『シナズガワさん』と呼んでくれると嬉しイ。『イレーナ=タケジロヴナ=シナズガワさん』と呼んでくれるともっと嬉しイ」


 すごい名前だな。

 だが自慢げに名乗るその瞳の煌めきから、己の名を気に入っていることがよく分かる。

 存外、リゼットや刀花と良好な関係を築いている少女、イレーナ。そして我がマスターの疑問に、俺も「ああ」と頷いて返す。


「そのスパイとのデートというのは、フライング・ダッチマンに乗った時に放った"爆弾の皇帝"の件だ。設計図をもらう対価として求められてな」

「なんでデートなのよ……」

「強い雄、好キ。殺そうとしても死なない雄、もっと好キ」

「イレーナさんは"好きになっちゃった人を殺したくなる"、ルサールカの性質を受け継いでらっしゃいますからね~。兄さんに惹かれるのも分かりますよ……」

「範馬勇○郎にでもな○やまきんに君にでも吉○沙保里にでも惹かれてなさいよ」

「なかやまき○に君、好キ。独身なら私が欲しいくらイ」

「彼女いるらしいけどね」


 リゼットの無情なる言葉を聞き、イレーナのただでさえ白い肌が更に白くなった。


「強い雄はすぐ売れル……これ、世界の常識……」

「なか○まきんに君に彼女がいてこんなにショック受ける女子高生いる?」

「それと、俺が気もそぞろな理由は、昨日の綾女との情事を思い返していたことと、俺の隣にいる綾女が可憐すぎることに起因する」

「も、もう、刃君ったら……♪」

「リア充死ネ」

「あー、キレそう」

「もう、お二人とも……」


 ちゃっかり俺の隣に座り、上目遣いでこちらを見上げて照れる綾女。なんなら午前の授業中も、幾度となく視線が合い互いにはみかみ合ったものだ。二人だけの世界を形成してしまい、勉強に身が入らなかった。早速、勉学に支障をきたしてしまっているな。

 そんな俺達の纏う甘い空気に、リゼットとイレーナは吐き捨て、"高み"にいる刀花は苦笑して宥める。"ばかっぷる"ですまない……。

 俺がそんな馬鹿な考えを抱いていれば、綾女が照れているのか怒っているのか分からない半笑いでこちらの膝をポンと叩く。


「もう、ダメだよ刃君? お勉強はちゃんとしなきゃ。それに二人で決めたでしょ? アレは、昨日の一回きりにしようって。私達は受験生なんだから!」

「……そうだな」

「な、なにカナ……?」


 拳を握る綾女に生暖かい視線を送れば、彼女は気まずげに少しだけ目を逸らした。

 なるほど一回きり、か……。


「昨日の事中に、幾度聞いたことか」

「はうっ」


 真っ赤になる綾女に、俺は遠い目をした。思い返すのは綾女の言葉だ。


『一回だけ、この下着でしてみない?』

『一回だけ、この体位でやってみない?』

『一回だけ、お風呂場でもしてみたいな』

『一回だけ、私の胸だけで気持ちよくなって……♪』

『一回だけ、本気の刃君に、激しくされたいな……♡』


 そうして俺は……小さな淫魔に絞り尽くされた。俺もどうやら姉上に似て『一回だけ』に弱いらしい。

 いや、彼女の要望に応えられることは嬉しいことであるし、彼女も悦んでいた。そこに何の不満もありはしない。

 だが、どうしても身構えてしまうのだ。期待してしまうと言ってもいい。


「『一度きり』と言ったその唇で、今度はいつ綾女からお誘いがあるだろうかと……昨日の今日で思わず期待してしまい、気をやってしまってたのだ」

「しししないから! 誘わないから! というかご飯中!」

「案ずるな。二年生組は最早、俺達の話を聞いていない」


 耳にも目にも毒と思ったのか、対面に座る三人は既に俺達など無視し、リゼットを中心に午後の授業へ想いを馳せつつ、昼食をパクついていた。


「五限目なんだったかしら」

「数学ですよ~」

「ああ……私、あの先生の数学苦手なのよね……数学というより、ノリが」

「私は好キ。小野田先生のクソデカ数学」

「むふー、私も好きです。面白いですよね、単位がいちいち大袈裟で」

「ウケを狙い過ぎてて私は苦手。なんなのよ。『パイを何人かの子どもに分ける際──」


 パイ……。

 その単語に反応し、思わず昨日味わった綾女のパイに目が行ってしまう。男は吐精する際に知能が著しく低下すると聞くが、今の俺は虫以下だった。


「モジモジ……」


 俺のスケベな視線に気付いた綾女が、恥ずかしそうに手で胸を隠そうとする。だがそのたわわな果実は細腕で隠しきれるほど謙虚ではなく、腕でぎゅうと寄せられてより強調される形となった。

 ああ、昨日にも揉みしだかせてもらった、あのたっぷりとした感触よ……指を動かすごとに甘く漏れる彼女の吐息さえ……。


「──ひとり四万個ずつ分けると三万個余り、ひとりに五万個ずつ分けると二万個足りない場合の子どもの数を求めなさい』って。もうそこまでいったら個数刻めるでしょ。平等を求めすぎて業者が法の番人になってるじゃないの」

「答えは分かりませんけど、勢いが好きです」

「私も好キ。答えは分からないけド」

「このおバカたち」


 四万個……三万こ……五まんこ……にまんこ……!?


「俺は死んだ方がいいのかもしれん」

「急にどうしたの刃君!?」

「そりゃあ、あなたは死んだ方がいい男ではあるけれど。でもご主人様の許可なく死ぬことは許さないわよ。どうせ下らないことでも考えていたんでしょう? あー、やだやだ」


 その通り過ぎてぐうの音も出ぬ眷属に肩を竦め、我がマスターは「ごちそうさま」と手を合わせ、盆を持って席を立つ。


「行きましょう、二人とも。この上級生達とつるんでたら不良になってしまうわよ」

「私はいいですけど。むふー、学園で兄妹の秘密のまぐわい……むふふふふふ♡」

「私も別ニ。むしろ授業に縛られない分、不良って設定にしておけばよかっタ。へいへ~い、かかってこいよこのヘタレ吸血姫──」

「っっっ!!」

「「あいたーーー!!??」」


 盆で頭を"ふるすいんぐ"された二人が頭を押さえ、ぶつくさと文句を言いつつリゼットについていく。仲のよいことだ。最近、放課後にはこの三人でよく遊びに行くらしい。

 ブンブンと元気に手を振る刀花と、投げキッスをするイレーナに手を振り返した後、俺は重く溜め息をついた。


「ガーネットにもケジメはキチンとつけよ、と言われていたはずだが……いかんな。呆れられてしまった」

「わ、私は、刃君の反応はむしろ嬉しいけど……なんちゃって……」

「今すぐ抱き締めたくなるようなことを言うのはやめてくれ」


 陰茎が苛立つであろうが。

 座っているため周囲には気付かれていないが、至近距離にいる綾女には、俺の下半身事情など丸分かりであるようだ。ドキドキした様子で、じっと視線を注いでくれている。その視線もちょっとな……。


「……最早、厠で処理してしまうか……」

「えっ」


 妹より性交以外での吐精を禁じられし俺は、これまで自慰などしたことはなかったが……まぁなんとかなるだろう。学園という場でするのはいかがなものかとも思うが、今は休憩時間だ。休憩時間に個室で俺がナニをやろうが俺の勝手だろう。

 とはいえ、さすがに人気のない別棟でするか……そう決めた俺もまた席を立つ。


「さらばだ、綾女。俺は情けなくも、男の劣情を独りでシコシコと──」

「ま、待って!」


 すると。

 立ち上がった俺の制服の裾を掴み、綾女が潤んだ瞳でこちらを見上げる。


「あの、そんなにツラいなら……ホントは学園でなんて駄目だけど……い、一回だけ。一回だけ、私がお世話してあげよっか……?」


 やめてくれないか! 一回だけですまなそうなことを提案するのは!!

 思わず、綾女の肢体に視線がいく。可愛らしい顔はもちろん、華奢な肩、見下ろす形でも分かる豊満な乳房、プリーツスカートから伸びる健康的な太股……どれも素晴らしく柔らかそうで、美味そうだ。


「えと、実はクラスの子から、そういう穴場的なとこもそれとなく聞いてて……」


 噂になる穴場は最早穴場ではないのでは……? 戦鬼は訝しんだ。

 くっ、駄目だ。恐れていたことが起きている。こういったことはケジメが、メリハリが大事なのだ! 俺だけが堕ちるならまだよい! だが綾女まで巻き込んでは親御殿に申し訳が立たぬ!

 俺は血の涙を飲みながら、綾女の誘いを断ち切ろうと彼女の手を──、


「──今日の私、縞パンだよ……♡ ち、チラッ♡」


 結論から言おう。

 ──二人して、数分ほど授業に遅れてしまった。

 虫以下の知能となった俺に、時間停止という高等な技術は行使できなかったのだ……。


「これは……駄目だね……」

「ああ。さすがに駄目だ……」

『どうしたんですか、二人とも?』

「「自分の弱さを再確認してしまい……」」

「???」


 とてつもない危機感を持った我等は『学園ではやめよう』と。

 キョトンとする橘の前で、そんな至極真っ当なことを互いの魂に刻むのだった……。

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