第316話「これが芸術──!!」



 どうやら俺には、絵の才能が無いらしい。


「難しいものだな……」


 絵の具や炭の独特な臭気が鼻をツンと刺激する美術教室にて、俺はしかつめらしく眉を寄せる。

 イーゼル越しに見るリンゴやバナナの輪郭は美しい軌跡を描いているというのに、俺が炭で描いた果実はどこか歪に映る。

 見た物そのままを描いたつもりでも、なぜこうも現実と異なるのか。いやはや難しい……。


「妹の才能は、俺には受け継がれなかったようだ」

「刃君、描けた? 見せて見せてっ」


 妹のあの赤と黒の爆発を生む才能を羨んでいれば、同じく隣でデッサンに集中していた綾女がワクワクした様子で立ち上がり、こちらの手元を覗き込んできていた。

 こちらに身を寄せたことで、彼女の小さな肩をくすぐるカフェオレ色のショートカットから、挽きたてのコーヒーのような香りがフワリと鼻をかすめていく。今日も良い香りだ。

 そう……現在、我がクラスは選択科目である美術を受けているところだ。

 薫風学園の選択科目は美術・音楽・書道の中から一つを選んで受けることになっている。

 俺も当初はどれを受けるか迷っていたが、書道はある程度の習熟はあるものの単純に退屈であり、音楽においてはリゼットの歌声は好きだがそれが聞けるわけでもない。

 ならば新たな境地を開拓してみるかと思い、創造性に富む美術を選んだのだ。妹も、絵に関しては類い希な才覚を発揮しているのでな。俺にもそれがあれば、休日に妹と並んで絵を嗜むのも悪くない。

 そう思ったのだが……いかんせん。


「う、うーん……なんでだろう。別に線が歪んでるわけじゃないのに……」

『モデルそれぞれのバランスが悪いのでは?』

「あ、そうかも?」


 いつの間にか橘もこちらに来ており、綾女と俺の絵を品評している。我が友二人が美術を選んでいたこと、それもまたこの授業を選んだ大きな理由の一つである。

 そして確かに彼女達の言うように、机の上に並んだ果物それぞれの大きさが、我がキャンパスの上では正確でない。バナナより大きいリンゴなどそうそう無いものだ。

 たとえ線を真っ直ぐに引けようが、現実のイメージと異なればそれは歪にも見える。空想を描くならまだしも、こうして実際にあるものを描くのならば、あくまで現実に即せということだ。


「創造は基本を知ってから、か。上達に近道が無いというのは、どの芸術の分野においても同じか」


 妹と肩を並べられる日は遠いらしい。


「ちなみに、二人は描けたのか」

「うーん、自信は無いけど……」

「……」


 俺ばかり品評されては面映ゆい。

 曖昧に笑う少女二人の絵を、俺も覗き込む。どれどれ。


「ほう……綾女のものは線が細いな。陰影も淡いようで、どこか可愛らしい印象を覚える」

「な、なんだか恥ずかしいなぁ……」


 テレテレとし、アーモンド色のクリッとした瞳を細めて頬をかく綾女。彼女の人柄が垣間見える、可憐な絵だ。


「して、橘は……こちらは線がどれもハッキリしているな。物体の存在感が際立っており、迫力がある」

「♪」


 光の加減で青みがかっても見えるセミロングの黒髪を揺らし、橘がほのかにドヤ顔をキメる。普段からスケッチブックを持っているため、手慰みに絵を描くこともあるのかもしれん。上手いものだ。


「白黒の絵だというのに、個性が出るものだな」

「不思議だねぇ……」


 と、互いの絵を見てほっこりとしていれば、授業終了の鐘が鳴る。とはいえ選択科目は二時間続きのため、まだこの後にも一時間あるのだが……次は何をするのだろうか。

 そう思っていれば、教壇に立つ女性教諭が手を叩き指導する。


「それじゃあ静物デッサンの次は、人物デッサンをしてみましょうか。この十分休みの間に、好きな人とペアを組んどいてね~」


 なにやらその言葉に一部の生徒が死んだ顔をしたが、よく分からない。そしてこういう時の俺の行動は最初から決まっている。


「そら、綾女。こっちに」

「持ち上げないでぇ~……」


 両脇の下に手を差し入れヒョイッと持ち上げ、力無い声で抵抗を示す綾女を隣の席に拉致した。まぁ彼女は最初から隣の席に座ってはいたのだが、こうすると可愛い反応をするのでついな。それにしても相変わらず軽い。

 橘も近くで女生徒とペアを組む中、俺も気合いを新たにする。なにせ綾女は俺にとって大切な少女の一人。下手な絵など描いては、無双の戦鬼として示しが付かぬというものだ。

 イーゼル上のキャンパスを取り替え、椅子を綾女の対面へ移動させる。

 そうして、じぃっと……穴が空くほどに綾女の小さな顔を見つめる。刀花も言っていた。絵とはまず観察からだとな。

 細部に拘ってこその芸術。ならばこの俺も、綾女の顔をまつげ一本に至るまで把握せねばっ。


「じぃ……」

「あ、あぅ……」


 目をかっぴらいて見つめていれば、綾女は恥ずかしいのか小さく呻いて視線を下げる。下りた前髪の隙間から覗く頬も少し赤い。だが!


「動くな。まんじりともせず俺の視線を受け入れろ……」

「は、恥ずかしいよ……」


 落ち着き無く、綾女はくしくしと前髪を弄る。


「あ……」


 そこで、何を思ったのか綾女は一つ呼気を漏らし、慌てて席を立った。


「ちょ、ちょっとお手洗い行ってくるねっ」

「うむ……?」


 まだ休憩時間であるためそれは構わないのだが……なぜそんなに慌てていたのか。もしや、俺が彼女を軽々に持ち上げたことで、膀胱に要らぬ刺激を……?


「俺としたことが、女性に恥を」

「……?」


 こちらの呟きに橘が不思議そうにコトリと首を傾げる中、俺は心中で誓う。これからは少女の身体を持ち上げる際には「尿意は大丈夫か?」とあらかじめ聞くことを。(後にしたらリゼットに怒られてしまった)

 そうして綾女が戻ってくるまで暇なため、橘と指相撲で戯れていると……授業開始の鐘が鳴る。


「お、お待たせっ」

「おぉ、何かあったのかと思ったぞ」

「やっ、べ、別に……」


 その鐘が鳴り終わる前に、パタパタと上靴を鳴らして綾女が戻ってきた。常であれば彼女は、鐘が鳴る頃には自分の机に座り、授業の準備もバッチリしているものだが、クラス委員長としては珍しい入室時間だ。

 それほど、俺の高い高いが綾女の膀胱にダメージを……? くっ、すまない綾女……これだから俺はリゼットから「デリカシーが無い」と言われるのだ。いよいよもって「尿意と膀胱は大丈夫か?」と聞く必要に迫られてきたな……。


「はい、それじゃあペアの顔を見ながらデッサンを開始してね。描き上がらなかった人は、また次の時間でも大丈夫だからね~」


 その教諭の一声により、教室内に炭を擦る音が木霊する。それに加えて、どこか恥じらいを含んだクスクスという笑い声も。

 他人の顔をまじまじと見る機会など、現代においてそうそう無い。その珍しい刺激に、生徒達も浮き足立っているようだ。

 そしてもちろん、我が眼前に座る可憐な少女も例外ではなく……。


「あ、あはは……」


 その照れくさそうなはにかみに、胸打たれる。いかんな、デッサンを描かねばならぬのに、指よりも先に目が動く。

 その恥じらいを誤魔化す笑みを、潤んだ瞳を、朱に染まる頬を、一秒でも長く我が網膜に焼き付けんがために。

 先程はなぜか逃げられてしまったが、やはりいつもと変わらず綾女は可憐であ──、


「ん……?」


 いや、どうも……彼女の顔に違和感を覚える。妙だな。


「な、なにかな……?」


 こちらの疑問の声に、綾女も落ち着き無さそうにソワソワと身体を揺らしている。だがなぜだ、怪しい態度であるというのに、その雰囲気はひどく甘酸っぱい。後ろ手に恋文でも隠す、恋する乙女のようだ。

 先程の休み時間に香水を付けたわけでもなかろうに。身体の動きに伴いその髪も揺れ……むっ!?


「前髪が……!」

「あ、えへへ……」


 指摘すれば、いよいよ綾女も観念したかのようにへにゃっと笑う。

 そうなのだ。彼女の揺れる前髪の一部、通常ならば風に遊ばせるままにしておくそれが、編み込みとなっていたのだ……!


「刃君がこの前……似合ってるって、言ってくれたから……」


 覚えている。

 ガーネットの引っ越しを手伝った際、綾女が気合いを入れて髪型を弄っていたことを。そしてその際に、


『今日は髪型が違うのだな』

『あ、うん……ほら、リゼットちゃんも刀花ちゃんも、先輩も髪綺麗だから。私もちょっと……って感じで……あはは……』

『いいのではないか? とても似合っている。数倍は可憐に映るぞ』

『そ、そう? ふふ……じゃあ、たまにはこういうのにも挑戦してみようかなぁ。ここぞっていう時とかに♪』


 そんな会話を交わした。ああ、覚えているとも。

 つまり、このイーゼル越しに見つめ合うこの時……この瞬間こそが、綾女にとっての“ここぞ”なのだ。


「くっ……!」


 俺は胸を掻き毟る。

 なんと……なんといじらしい乙女心か!!

 彼女は人物デッサンを描き合うと聞き、慌てておめかしをしてきたのだ! 俺に長時間見つめられると知り、始業時間ギリギリまで粘って!


「はぁ、はぁ……!」

「えっと……ど、どうかなぁ……?」

「可愛い……とてつもなく」

「あ、ありがと……あのね?」


 綾女の果てしない乙女心の発露に、俺が息切れをしながらなんとかそう返すと、彼女も上目遣いでこちらを見る。

 そうして「あのね?」とモジモジしながら、彼女は唇を小さく動かした。


「刃君も……かっこいい、よ?」

「──ッッ!!」


 その一言で、俺は完全にやられてしまった。

 胸から湧き出る爆発的な愛おしさ。俺はこの感情をどう処理すればいい。ああ、いやそうか。


「うおぉぉぉぉぉぉお!!」

「う、腕の動きが見えない!?」


 発散せねば身体の内側からはじけ飛びそうなこの熱情。ならばそうなる前に、目の前の真白のキャンパスに叩きつけてくれよう。

 指を通しても引っかかりのないサラサラの髪、整った顔立ち。柔らかそうな頬に唇。純真そうな瞳。小さな肩、豊満な胸。それら全ての愛らしさを一欠片とて漏らさぬように掴み、キャンパスに刻みつけていく。

 そうか、これが芸術……! 理想を理想のままにしておかず、傲慢にも地に顕現させんとする悪魔的所業! 神にも等しい創造の妙……これが芸術なのかっ! 俺は全てを理解した──!


「……ふ、注ぎ込んだ。我が愛の全てを注ぎ込んだぞ……」


 そうして数十分、綾女の姿から目を離さずに動かしていた手を止める。完成だ……!


「で、できたの?」

「……」


 綾女が心配そうに、そして橘もこちらの様子に気が付いてヒョコヒョコと近付き興味深そうに、キャンパスを眺める。


「こ、これは……!」

「っ!」


 そして二人は、その瞳を驚愕に彩り──!


「これは……す、すごい、ね? こう、赤と黒がダイナミックでさ……」

『酒上画伯、とこれからは呼ばせていただきます』


 ……グチャグチャとした線のうねりに、二人は気を遣って、冷や汗を浮かべながらそう感想を述べるのだった。


「……」


 どうやら俺には、絵の才能が無いらしい。







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というわけで、戦鬼さんの絵が壊滅的だったのでプロにお任せしました。

イラストレーター様はもちろんあのお方! 一枚目に引き続き二枚目も手がけてくださった……、

maruma (まるま)先生、です!


近況ノートの方に上げておきましたので、是非ご覧くださいませっ。ふ、ふつくしい……!

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