第278話「今日も酒上家は平和です」
稀に、ぽっかりと時間が空いてしまう日もある。
「……」
屋敷の長大な廊下、その半ばあたりに設置されたソファに背を預けながら、俺は特に何を考えるでもなく窓を見上げていた。
せっかくの休日の昼間だというのに、外は生憎の雨。磨き上げた硝子を、雨粒が涙のように伝っている。
これでは、少女達と外出もままならん。屋敷周辺にはコンクリートなどが敷かれていないため、たとえ傘を差そうとも、泥で彼女達の靴が汚れてしまうだろう。
「……」
……さて、どうするべきか。
現在、屋敷で行うべき仕事も全て完了してしまっている。掃除も、洗濯も、片付けも全てだ。
常であればリゼットの傍に控え、給仕でも彼女専用の椅子になるでもなんでもするところだが、彼女は現在スヤスヤとお昼寝中である。特に吸血鬼的な事情でもなんでもなく、どうも『FPSをやめられなかった』とかで徹夜をしたらしい。
……こんなに時間をもて余すのならば、あらかじめ添い寝を申し出るべきだったか。
「……」
ではダンデライオンに行って綾女をからかうか、と考えたがこれも却下だ。彼女は今日、フロアには出ずお勉強を頑張るのだと事前に聞いていた。
そんな綾女の部屋に押し掛けるというのも一興だが、邪魔になるだけだろう。下手を打てば「一緒に勉強しよう!」と言われ、最悪俺の頭がよくなる事態となってしまう……。
「……」
あのピンク色魔法使いの尻を叩こうにも、先日に魔法を使った生放送をしたことについての実績報告をするとかで、今日は魔法使い・魔術師の集まる"組合"に顔を出しているのだという。
その場に強襲をかけるのも面白いかもしれんが、俺には陰陽局に創造されたという過去がある。そんな俺が魔法使い界隈の組合に殴り込みをかけたとなれば、陰陽局支部長のちんちくりん娘が、また胃を痛めることとなるだろう。
「……」
……なぜ俺が六条このはの胃の心配をせねばならんのだ。
どうも最近、思考が腑抜けている。
この俺が。刹那の内に世界を滅ぼすことも可能なこの無双の戦鬼が、なにを静寂に安らぎを得ているのか。
我が戦場は悲鳴が飛び交い、血潮が噴き出る地獄であるべきだ。決して、木々の葉を穏やかに打つ雨の音色が支配する場ではないというのに。
「……」
戯れに──何者かを殺すか。
なに、今に誰ぞを殺そうとしているようなクズであれば、殺しても誰も文句は言うまい?
我が刃に返り血でも浴びれば、少しは鬼の本能を取り戻すだろう。
そうして一つ唇を歪に曲げ、この街に夥しく蠢く人間共……その中でも特にクズの魂を持った人間の気配を探るべく、我が知覚を屋敷から街全土へズルリと影のように広げ──、
「……じー♪」
あ゛! 刀花にゃんだ!
見よ! こちらから見て右方向。長大な廊下、その奥にある曲がり角だ。そこから身体を隠すようにして、俺の可愛い妹がひょっこりと顔だけを覗かせこちらを窺うように見ている!
その仕草は、まるで遊びたくてウズウズしている仔犬ないしは子猫のよう。上目遣いにこちらを見る琥珀色の瞳は、期待に大きく煌めいている!
「──」
俺は瞬時に、纏わせていたドス黒い霊力を消す。
やめだやめ。そもそも、クズに我が慈悲の刃をくれてやるなどサービスが過ぎるというのだ。可愛い妹が姿を現した時点で、俺の使命は決定された。
──本日の我が使命は、妹と遊ぶことにあり!
素晴らしい。
道に惑う兄に、自然と行く先を示してくれる。それはまるで必ず昇る太陽のように。
やはり妹こそ至高の存在。世に二つとない我が夜明けの光。妹を崇めよ。妹こそ我が全て。
俺は改めて妹という存在に深い感謝と尊敬、そして愛情を抱き、この身体の内を駆け巡る激情を伝えるべく妹へちょいちょいと手招きをし……、
「……じぃ~♪」
「?」
おや?
手招きをしたのだが、なぜか妹はこちらを覗き込んだまま動かない。
知らぬ内にこちらが不手際でもしたのかと思ったが、彼女の雰囲気は変わらず華やいだままだ。キラキラした瞳でこちらを見ている。
「……?」
疑問に思い、彼女から目を離してクルリと左方向へ顔を向ける。勿論、リゼットは自室でお昼寝中であり、我が麗しのお嬢様の姿があるわけでもない。
刀花の視線が、俺を通り越していたという線はこれでなくなった。ならば一体……?
妹の不思議な行動に首を傾げつつ、もう一度顔を右方向へ。
「!」
そこには、変わらず曲がり角からこちらを覗く刀花の姿──などはなかった。
見れば、刀花は廊下の半ばほどで、その歩みを止めている。いや、歩みどころか身体全体をだ。まるでこちらが視線を戻した時に、こちらへ近付こうとしていた彼女の時間が止まってしまったかのように。
「……」
……俺はもう一度、彼女から視線を切る。
「っ」
そしてまた、バッと視線を刀花へと向けた。
「……」
変わっている。
イタズラっぽい笑みはそのままに、先程から彼女の立ち位置も、距離も、徐々にこちらへと近付いてきている。これは……!
「……」
「……」
……クルリ。
(だ る ま さ ん が こ ろ ん──)
だ!
「……」
「……」
やはりだ。
また少しこちらへ近付いた妹は、とても楽しそうな雰囲気を振り撒く。その笑顔だけで、彼女がこちらに何を所望しているのかなど自ずと知れるというもの。
──我が妹は、兄とのだるまさんが転んだをご所望である!
いいだろう。
この、世界に厄災振り撒く悪鬼……妹が望むのならば、全力でだるまさんが転んだをしてみせよう。
「……」
「……」
じいっと、互いに見つめ合う。
それはまさに、達人同士が間合いを計るがごとく。一瞬の隙が……命取りだ。
「……」
とはいえ。
思ったのだが、こうして目を離さずにいれば俺が負けることなどないのではなかろうか。
ふん、所詮は人間風情が作った児戯か。まったく、遊びさえ完璧に作れぬなど、やはり人間は不出来──、
「……んー♪」
「はっ!?」
いかん!
俺は気付けばソファから立ち上がり、フラフラと夢遊病者のように妹へと近付こうとしていた。
なぜならば──刀花が静かに瞼を閉じ、唇を突き出したからである。キスをねだっているのである!
な、なんという戦巧者……俺は自分の妹の戦上手っぷりが恐ろしい……!
鬼が動かぬのであれば、自分から動いてしまうよう仕向ければいいというわけだ。鬼に捕獲されるのではなく、逆に鬼を誘き寄せ討伐せんとしているのだ……!
「ぬっ、はぁ……はぁ……!」
俺は玉になるほどの汗を浮かばせ、舌を噛みきってなんとか踏みとどまる。致命傷で済んだ。さすがに初手で負けるのは、兄としての沽券に関わる。
「く……」
これ以上、見つめ続けるのは危険だ。
そう判断し、口付けを待つ妹から視線を切る。あと一秒でも長く見ていたら、俺はあえなく妹にキスする機械へと成り果てていただろう……。
「……」
聴覚を鋭敏にすれば、妹がこちらにゆっくりと近付く足音と衣擦れの音が聞こえる。
むむむ、まだ我が心臓は彼女への愛情にざわついているというのに。また早く彼女へと視線をやらねば、このままではジリ貧である。
「──!」
息も整わぬまま、俺は意を決して再び視線を妹の方へ。そこには──!
「……♡」
「──ッッッ!」
いけない!!
俺は咄嗟に、自分の両目を指で抉った。
なぜならそこには──ミニスカートを指でチラリと捲り、肉感たっぷりの太ももを晒す妹の姿があったからだ! 頬にチョコンと指を当て、ウィンクをくれるおまけ付きだ! こちらに対して半身となり片足を“く”の字に曲げ、太ももの外側と内ももが同時に見えるようにしている工夫も心憎い!
「ぬぅぅぅ……!」
血涙を流して思わず唸る。俺は今試されている……己の忍耐力と、克己心と、妹への愛を!
な、なんと過酷で高度な遊びなのだ……だるまさんが転んだ──!!
今すぐ……今すぐ、その黒ニーソに包まれた脚線美に指を這わせて心行くまで愛でたい。ニーソとミニスカートから覗く眩しい絶対領域を近くで堪能したい。ニーソと太ももの境にちょっぴり乗ったお肉をムニムニとしたい……!
しかし! 彼女のカッコいい兄として、ここで無様を晒すわけにはいかんのだ……!
「ん゛ん゛……!」
俺は断末魔のような声を上げつつも、再生した両目を決死の思いで妹の太ももから引き剥がすことに成功した。
無双の戦鬼よりよほど恐ろしい兵器だ……彼女が戯れにもう少しスカートを上げ、秘密の布地が見えようものなら、この兄は一も二もなく地に這いつくばっていたことだろう……。
「っ」
どうすればいい……!
この俺が……妹を見るだけだというのにそれが恐ろしいだと!? 俺は今、妹が恐ろしい──!!
「……」
いや、待て。
ならばこちらにも考えがある。そちらがその気ならば、俺とてやりようはあるはずだ。
「……」
「……」
沈黙の帳、それを切り裂くは我が視線。
たとえ激情に駆られようと、今は耐えるのだ我が魂よ!
「くぅ……!」
視線を戻した先には、絨毯に四つん這いとなり、お尻を上げつつこちらを見上げる刀花の姿がある。
女豹……いや、なんて可愛らしい子猫ちゃんなのかッッッ! 顔の横で小さく「にゃん♪」と丸めた手も愛らしい……!
しかし、なんとか耐え忍ぶ。抑えきれぬ情動が体内を巡り、ガクガクと身体を痙攣させようとも……!
「っ!」
よし、耐えた。耐えたぞ……ならばここから攻めに転じるのだ!
俺はいまだ「にゃあ~ん♪」と言い出しそうなポーズを取る刀花に向け──、
「──」
「っっっ!?」
今度は刀花が大きく息を呑む番だ。
俺は彼女を迎えるように、両手を前へと差し出す姿勢を取ったのだ。“おいで”と。それはまさしく、堕落への誘いだ。妹を目一杯甘やかそうという、偉大なる兄のポーズである。
「っ……!」
先程までは兄をイタズラっぽく見つめるだけだった琥珀色の瞳が、グルグルと渦を巻き始める。
きっと今彼女の中では、今すぐ兄の膝に飛び込みたいという気持ちと、兄を誘惑してみせるのだという女としてのプライドが鬩ぎ合っているのだ。
さぁ、今すぐ兄の胸に飛び込んでくるがいい。さすれば俺が勝利し、妹を堕落の園へ連れて行こう……。
──しかしここで、運命の女神は再び妹に微笑んだ。
万事休すかと苦悩する妹から、シュルリと何かがほどける音がしたのだ。
「!」
その数瞬の後に、彼女の雰囲気が一変する。
彼女の元気いっぱいなポニーテール、それを結ぶ純白の布リボンが、結びが甘かったのかほどけてしまったのだ。
見事な長い黒髪がパサリと落ちれば、色っぽく頬に筋を残す髪と女豹のポーズが合わさり、女性らしさがグッと高まる。
これは彼女にとっても好機だろう。実際に、大人っぽくなった妹の姿に我が脳髄はクラクラとキている。ここで流し目でも送られれば、俺は──!
しかし、そうはならず……妹はあろうことか、
「え、えへへ……」
「!?」
自分でも予想外の事態に、彼女はちょっぴり恥ずかしそうに微笑んだのだ!
「ぐっ……あぁ!」
胸が痛い!
艶っぽい外見と、稚い少女らしさが奇跡的に同居したその姿! 今すぐに抱き締めたい!
だが──まだだ! 俺はここで切り札を切らせてもらうぞ!
俺は銃使いのように素早く、着物の袖に手を入れる。確かここに……あった!
「ふっ!」
「!?」
小さく呼気を漏らし、それを袖から取り出す。
その……時間を凍らせたまま保存しておいた、バニラ味のソフトクリームを!
甘く、冷たく、ふんわりとした真白の塔。この煌めく白に、魅了されぬ乙女などいはしない。それは果たして、我が妹であろうと例外ではなく──、
「うぅ──にゃあ~ん♪ ゴロゴロ、ペロペロ♡」
まさに閃光。
ソフトクリームを目にした瞬間、刀花はその瞳をハートマークにしてこちらに飛びかかってきた。
そうしてゴロゴロと喉を鳴らしてこちらの膝に頬を乗せ、こちらがソフトクリームを唇に寄せれば、小さな舌でペロペロと舐め始める。
それはそれはとても、幸せそうな表情で。
「ふ……」
俺は満足の吐息と共に、妹の黒髪を指で梳く。唇の端をつり上げて。
ああ……、
──俺の、勝ちだ。
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