第258話「堕ちた王」



「たっだいまー」


 ふー……よかったぁ、"周囲の人間からフワッと意識を逸らすなんか都合の良い魔術"習っといて~。さすがにこのピンクでロングな髪のまま電車に乗るのは冒険者過ぎるからさぁ、あたし魔法使いだし?


「お母さーん、おるかー?」


 ご近所さんに新たな"ガーネットちゃん伝説"を刻み付けてしまう危機から脱したあたし、柘榴ざくろと書いて吉良坂ガーネットちゃんは、玄関で靴を脱ぎ散らかしてそのままリビングへ──と思ったけど、廊下に異臭が漂ってるからキッチンコースやねこれは。すげぇ甘ったるい。


「今日は何作ってんだろ」


 特に何の変哲もない洋風建築の自宅。その板張りの廊下をスタスタと進み、キッチンへ続く扉を開ける。


「お母さーん?」

「あら~、ガーネットおかえりぃ~」


 呼べば、独特の甘ったるく間延びした声が返ってくる……大窯が景気よくグツグツと煮える音と共に。

 魔法使い用に大きく改築された我が家のキッチンはそこそこ大きい。というのも、魔法使いや魔術師はこうして何かを調合することが仕事や研究関係で多いからである。あっ、危ないおクスリはキメてないんでそこんとこよろしくぅ!

 そんな、所々に調合用の触媒がぶら下がる、一般の余所様には決して見せられないキッチンの奥。そこでなにやらピンク色の煙が漂う大窯を、これまたピンクのエプロン姿で大きくかき混ぜる母親に、あたしは眉と鼻に皺を寄せながら近付いた。


「ちょっとー? 何作ってるか知らないけど、間違って変なものご飯に入れないでよー?」

「大丈夫よぉ。これ、お父さんに飲ませる用の惚れ薬だから♪」


 っべー、危ないおクスリだったわー……それ普通に組合が定めた禁止事項よー?

 あたしの母親──過去にそこそこ高名な魔法使いだった経歴を持つ、今はほとんどただの主婦となった母。今はこうして過去の知識をお茶目さんに使ったり、たまの依頼でちょっとしたお薬を作る程度の、現役を引退した魔法使いだ。

 ちなみに現役時代に使ってた魔法は"水の温度を自在に操る魔法"ね。ケトルいらずで調合にも便利! 引退してからはなんでか使ってないけど。そういう規約でもあるんかね?

 そんな母の容姿、髪はあたしと違って普通の黒髪ロングで、呑気に頬に手を当て「ほほほ」と笑う姿は魔女っぽい。

 とはいえ全体的にほんわかした印象で、分かりやすく言えばいつも目を閉じて笑顔を浮かべてる漫画の強キャラっぽいんだよねぇ。いやキャラ濃いなうちの母親。


「つか、なんで惚れ薬?」

「それがもう聞いてよぉ~!」


 首を傾げて聞けば、お母さんは目の端に涙を浮かべ、胸を寄せるようにぎゅぎゅっ☆と握り拳を作ってみせる。

 いつも思うんだけどそういうぶりっ子な仕草、年甲斐無いからもうやめなー? それを見た純粋なチルドレンが真似しちゃうから。主に小さい頃の娘さんがね。それあたしじゃん。

 自分の人格形成の一端を前にして空笑いしていれば、お母さんは必死そうな口調であたしに薬を作るワケを告げる。


「お父さんがね! お父さんがね! ……キャバクラ行ってたのぉ~!」

「女子高生の娘にキャバクラ通いを暴露される父親きっちぃ~」


 罰ゲームかー?


「だからね! もうこれは惚れ薬飲ませてね! 今晩あたりに二人目を仕込んでね! 絶対に逃げられないようにね!」

「多感な娘に夜の生活仄めかす母親もきっちぃ~……あ、そうだ。これさっき変な人……人? から貰ってきた熊鍋ね。もうこれで元気になって行くところまで行きたまえよ」

「あら、ありがとう~。やっぱり持つべきものは理解のある可愛い娘ねぇ~」

「ちなみにお父さんは?」

「うふふっ──もうベッドに縛り付けてあるわ☆」

「すまん、理解ある娘の称号は返上させてもらうわ」

「じゃあ今晩はこの熊鍋をお父さんに~……バブバブって食べさせてあげちゃいまちょうかちらっ」

「きっちぃ~」


 ちなみにお父さんは現役の魔術師で、分野もお母さんと同じ薬関係。毎日、組合の人達と新しい薬の研究に精を出している。費用がどっから出てるかは知らん!


「ぐすっ、私という愛する奥さんがありながら……黒鉄くろがねくん……おーいおいおいおい……」


 娘の前なのに夫婦二人っきりの時だけの呼び方すんのやめて欲しい背中痒くなっちゃうから。

 お父さんの所業を思い出したのか、妙ちくりんな泣き声を上げるアラフォー(四十越えの方)元魔法使い。

 しかし、そんな情けない姿を見せつつも調合する手際がしっかりしてるあたり熟練の腕を見せる。"熟"って言ったらすっげぇプンプンするけど。いやすごいよ? ただのプンプンじゃないぜ? プンプンっ☆だぞ?☆ きっちぃ~……。

 つか、普通にキャバクラも仕事の付き合いかなんかで行ったんでしょ。うちのお父さん押しに弱いし。どれくらい弱いかって言うと、母親が「娘の名前はガーネットがいいわ♪」って提案に乗っちゃうくらい弱い。もう許さねぇからよぉ~?

 あたしが内心で青筋をピキらせていると、お母さんは熊鍋の入ったタッパを不思議そうに持ち上げ、光に透かしている。


「でもぉー、熊鍋なんて珍しいわねぇ。新しいお友達ぃ? そもそもガーネット、髪の毛ピンクに戻ってるし。事故に遭いそうにでもなって変身したのぉ?」

「いやそれがさぁ」


 あたしは手近な椅子に座り込んで、今日あった出来事を話して聞かせた。


「すごくね? 童子切安綱よ童子切安綱」

「あらあら~」


 その銘を告げれば、お母さんは頬に手を当てたままそんなことを言う。いやどういう感情?


「ここは是非ともゲット……まではいかずともこう、その力の一端でも借りられれば」

「借りられれば?」

「そりゃあもう、一級に合格することも夢じゃ──あ」


 そこでふと、大事なことを思い出す。

 仕方のない子、と言わんばかりにため息をこぼす母親を見て。


「はぁ……落ちたのね?」 

「あ、やっべ」


 嘆息するお母さん……いや、今は師匠としての顔を覗かせる女性を前に冷や汗が流れる。

 っべー、真っ先に魔法使い検定の結果連絡しなくちゃいけないことわっすれてたー……。

 いや、それどころじゃなかったし? 童子切が悪いよ童子切がー。あの三股野郎ぉ、薄野ちゃんをあたしから寝取りやがってよぉ……あたしが帰ったからって今頃、あたしの薄野ママのおっぱいをぉ……も、もう揉んでるんか!? 揉みしだいてんのか!? このあたしが最初に吸う栄誉に浴するはずだったあの母性あふれるたわわなお乳をよぉ! どこまで許しちゃってんのよさママぁ! オギャッ(半ギレ)


「あ゛あ゛っ゛、クソが……!」

「もう、急にお下品~」

「娘に『これからファザーと赤ちゃんプレイします』って教えるマザーに言われたくないんじゃオ゛ォ゛ン゛!!??」


 もう失恋の痛みよこれはぁ!!


「あの頃のママはもう帰ってこないんだ……」

「ママならここにいるわよぉ~?」

「血の繋がりのことじゃないんだわー!」

「じゃあ何ぃ?」

「それは──ああ……今、分かったよ……」


 言っていて気付く。

 薄野ちゃんが、あたしのどこに宿っていたのかを。あの無垢な笑顔が、あたしのどこに咲いていたのかを。


「──心か」


 あたしゃ、心のママを失ったんだよ……。


「ま、それはそれとして。友達が明らかに悪い男に引っ掛かりそうになってたら普通に止めるじゃんね?」

「そうねぇ……まぁ黒鉄くんも若い頃は結構ヤンチャしててぇ。魔術学校同士の交流コンパでね? 酔っ払っちゃった私をそのままお持ち帰りしてね? ベッドの上で言うのよぉ。『見てごらん? 僕のマジカルステッキがもうこんなに──」

「うるせぇ~~~」


 その話死ぬほど聞いた。死ぬほど娘に下ネタ聞かせる母親ってどうよ。でも二人にとっては良い思い出なんだろうなぁ……下ネタだけど。嬉々として娘に下ネタ言い聞かせるとか頭魔法使いかー?


「まったくこのバカップルは……」


 いつまで経ってもバカのまんまなんだから。

 でも、このお熱い両親を見て育ってきたからこそ、あの三股男にもむかっ腹が立つわけで……あ゛あ゛、またムカついてきたなんだこの悪循環んんんん゛ん゛ん゛ん゛。


「で、どうするのぉガーネット?」


 決まってらぁ!


「こうなったらあたしの女の魅力で薄野ちゃんを寝取り返すしかあんめぇよ! どんなにあの三股野郎に汚されていようと、最後にはこのあたし! ガーネットの隣におればよい!!」

「違くて、進路の話ね?」

「真面目な話に戻るのいやじゃー! あたしは将来薄野ママに一生養ってもらうんだわー! オギャきらっ☆」

「どこで育て方を間違えたのかしら~?」

「名付けた時からじゃないっすかね」


 それだけならまだしも、魔法も持ってたことが痛手だったよね。『周りと違うあたしは特別なんだ!』って誰もが通る道を、中学二年生になる前に大行進したからねあたし。


「……」


 ああ、"その頃"のあたしがふと脳裏をかすめ、身体が強張る。足がすくむ。

 おかげで、あたしはその道から──、


「ガーネット?……"事務所"から、電話があったわよ。ほら、卒業近いから」

「っ」


 その一言で、あたしは何も言えなくなる。

 いや、何も言う資格がないのだ。今更……逃げたあたしに……。

 口ごもるあたしに、だけどお母さんは優しく微笑んで逃げ道を用意してくれる。


「……どうするの? それとも、このまま留学する?」

「ちょっと……考えさせて」

「ん」


 それ以上は何も言わず、お母さんは小さく頷いてあたしの肩を優しく叩く。

 それをありがたいやら、情けないやら。ごちゃ混ぜの感情で受け止めてあたしはキッチンから出て自室へと向かう。


「"ちょっと"……ははっ」


 唇が嘲りに歪む。その言葉の空虚さに、胸を掻きむしりたくなる。

 何がちょっとだよ。もう"五年も"経ってんだよ。なのに、あたしはこうやってまた逃げ続ける。自分の責任から。

 いや、あたしなりに努力はした。何か別のことで手を打てないかって。でも、それが全力の……それこそ、死ぬほどの努力かって言われたら……。


「……仕方ないじゃんね」


 自室のドアを開け、鞄を床に放り投げてベッドにダイブする。

 そう、仕方ない。だって怖いんだもん。ねぇどう思う? 自分が笑顔で立っている場所が急にガラガラと音を立てて崩れ落ちたんだよ?

 しかも、それがすっごく高いところからだったから、もう尚更。

 そんな、高い高ーいところから落ちた人間はね……、


 ──普通だったらさ、死ぬんだよ。


「……あー……」


 うつ伏せになっていた顔を上げ、"それ"を見る。せめて自戒の為にと、この部屋の一番目立つところに置いてある……一本の輝かしいトロフィーを。


「……」


 留学は嫌だ。だって、魔法使いはもっと自由であるべきだと思うから。

 そして、“アレ”は怖い。考えるだけで、足がすくむ。


「……見事な行き止まり、だねぇ」


 前方のどこを見ても道が無い。鬱蒼とした森に迷い込んだ赤ずきんのよう。

 自分の足は思う通りに動かず、手には過去に渡された虚構のみ。フードを深く被り、自分で前後不覚になってフラフラしている愚か者。

 あたしにあるのはもう、優しい大人が用意してくれた"逃げ道"だけ。


「せめて……」


 負け惜しみのように声を洩らす。

 そう、せめて。

 手渡されたバスケットの中に、邪魔な蔓を切り裂き、道を切り開くための"刃物"があれば……。


「……なんて、ね」


 そんな物はない。分かっている。バスケットの中にあるのは、自分のためのものではないパンやワインばかりだ。


「あーくそ、いつになくメルヘン拗らせてんなぁ」


 頭を乱雑にかき、反動をつけてベッドから降りる。

 そして、窓辺によって月を見上げた。


「……」


 あたしは物語のヒロインじゃない。こうして助けを待っても誰も来ない。

 だってあたしは、誰かを助ける側の魔法使いだから。


「……はぁ」


 魔法使いを逆に助けてくれる童話なんてあったかなぁ……いや情けなさ過ぎるけどね、そんな魔法使い。


「あーあ、そろそろ覚悟決めないとかねぇ」


 あたしが今すべきことは、最も現実的である留学の書類にサインをすること。だけど、あたしの足はちっとも窓辺から動いてくれない。


「あはー、お月さん綺麗だなー」


 現実逃避気味にそんなことを言って、窓を大きく開けて月に目を凝らす。

 わぁい、見て見てぇ。あそこの影、ウサギさんに見えるよぉ~? ほら、あんなにくっきりと……ん?


「……おん?」


 ──なんか、あの影動いてね?


 つか、月の影かと思ってたけど、なんかどんどん大きくっていうかどんどんこっちに向かって飛んで──、


「──"でりばりー"の時間だァ!!!」

「うおぉぉぉおおおぉぉお!!??」


 野生の勘で窓辺から飛び退けば、そこを超スピードでブッ込んでくる黒い物体! か、カチコミじゃあ!

 あんな勢いで入って来たのに、着地の衝撃を感じさせない動作で黒い着物の裾をバサリと翻し、なぜか片手に生肉がギッシリと詰まったタッパと、


「きゅうぅ~~~……や、安綱様……三半規管が……強力なGがぁ……」


 もう片手に、なんか目を回してる巫女服着たロリがいんだけど!?


「お、おおおおおおうおう! きさん、どこの組のもんじゃー! ここを吉良坂組のシマと知っての狼藉かぁ! おぉん!?」


 ぬっと立ち上がるその黒いのに動揺しながらも、とりあえず威嚇する。

 おうおう、ここをどこだと思っとんじゃい! 花も恥じらう乙女の私室ぞ! それを遠慮も無しに土足たぁよぉ!


「男上げるなんて初めてなんだぞこのプレイボーイ! しまいには責任取ってもらうぜぇ!!??」

「いちいちうるさいやつだ。そして問われたからには答えよう。我が銘は"童子切安綱"。与えられし名は"酒上刃"にして、陰陽局怪異固有登録呼称は"無双の戦鬼"である」


 まるで己の名とその職務を誇るように。

 そいつは、人を小馬鹿にするような笑みを口許に浮かべてこちらを見る。

 ……肉の詰まったタッパを、こちらに渡しながら。


「肉が余ったのでな。綾女からの差し入れだ」

「ママぁ──おっと、思わずオギャッちまったぜ……」


 でも嬉しい……薄野ちゃんっ。責任、取ってもらうぜ!


「じゃ、貰うもん貰ったんでお帰りください」

「ククク、そうはいかん」

「いや帰れって──ってうぉい! 堂々とガーネットちゃんのベッドに腰掛けんじゃあねぇ! あんたの匂いが移ってたりしたら、今夜あたしが寝る時にドキドキしちゃうでしょうが!!」

「知るか。そもそもするな気色の悪い」

「ギリ思春期の女なめんなよおい安綱ァ! そもそもそこのロリ is 誰!」


 床にペタンと座り、いまだグルグルと目を回している大和撫子っぽい一つ結びの黒髪長髪ロリはよぉ! 可愛いじゃねぇかよ……お姉ちゃんとちょっと遊ばん?


「ぐふふ、お医者さんごっこしゅる~?」

「そいつはこの地区担当の陰陽局支部長・六条このはだぞ」

「思ったよりだいぶお偉いさんじゃねーの!!」


 おい安綱ァ! お隣の組織のトップじゃねぇか安綱ァ!!


「貴様が陰陽局経由で我等の情報を得たと言っていたのでな。口の軽い小娘に少しのお灸と……」


 こっわ。"少し"でベルト無しト○プガンなんてさせられたら、もしあたしだったら漏らしたおしっこでオリオンをなぞるね。

 ドン引きしていると、童子切は暗く笑いながら袖の中に手を伸ばし、


「──ついでに、妹が思い出した情報の裏付けを取っていた。吉良坂ガーネット、貴様のな」

「っ!?」


 ……一枚のディスクを、取り出した。

 淀み無くあたしの名を呼ぶそいつの顔を見れば、分かる……知られたのだと。


「"でーぶいでーぷれいやー"はこれか?」


 強張るあたしのことなど構いもせず、童子切は少し手こずりながらもそのディスクを機器に収める。そうすれば……、


 ──そうすれば、過去の虚像が浮かび上がる。


『ありがとー! 応援してくれたみんな、ありがとー! きらっ☆』


 一人の子ども。

 髪の毛のピンクは、当時でもだいぶ特徴的だった。

 そんな小さな女の子が煌びやかなピンクの衣装を見に纏い、ステージの上で自分の身体より大きなトロフィーを抱き締めている。

 無垢なまま、純粋なまま。求められるまま。

 ……己が、どういったものの上でそこに立っているのかも知らずに。


「さて、貴様の口から明かしてもらおう」

「……嫌だって、言ったら?」

「……ククク」


 最後の抵抗のつもりでそいつを睨む。だって、そうしないとあたしの傷を抉られるから。そうされれば、とても痛いから。

 だけど、そんな視線を向けても、童子切は肩を震わせる。あまりにも、愉快げに。


「ああ、聞き方が悪かったようだ──」


 そうして、俯くようにして身体を揺らしていた彼は、ゆっくりと……。

 その視線を、こちらに向けた。


「我が主の命により、これより貴様の正体をつまびらかにする。俺のご主人様は、貴様の抱える事情に大変興味がおありのようだ」


 これはお願いじゃない。


 ──命令だと。


 血をぶちまけたかのように紅く灯る紋章、それが宿る鬼の右目が残酷にもそう告げていた。


「ク、ハハハ……なに、取って食いはしない。なにせこの俺もある程度の興味がある」


 言って、その唇を。

 どこまでも酷薄に「なぁ?」と、三日月の形に歪めて。


「──その王座に一度は就き、そしてそこから転げ落ちた者は、いったいどのような仄昏い感情を抱くのかとなぁ……?」

「っ……」


 栄えある王国を過去に築き上げ、そしてそのまま堕ちていった、かつての王を前にして。

 ご馳走の皿を食い入るように見つめる、化物を幻視した。いや、まさしくそうであった。こいつの瞳にあるのは嗜虐でも、悦楽でも、ましてや嘲弄でも憐憫でもない。

 ……食欲だ。レストランの前にあるガラスに張り付き、店内を見て食欲を刺激されているあの瞳だ。

 なにが、取って食う気はないだ。化け物め……!


『ありがとー! みんな、大好きー!』


 呑気な声が、テレビから響く。何も知らない、罪深い声。ああ……。

 無知で幼い女王様がバルコニーに出て、貧しさに喘ぐ国民に手を振っている。


「では、聞こう」


 その単刀直入に聞く声が、目深く被ったあたしのフードを……。

 いつの間にかバスケットの中に入り込んでいた妖刀が、それを斬り裂く。


「──元トップジュニアアイドル、芸名"煌栄きらさかガーネット"が、何者にもなれぬ地の底で、なぜ無様に這いつくばっているのかをな」


 今ここで。

 行き止まりでしゃがみこんでいたあたしは……、


 ──その逃げ道すら、絶たれてしまった。

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