第253話『今日も一日』
「おっはよーみんなー! そして明けましておめでとう!」
我がクラス、2―A教室の入り口からそんなハツラツとした声が響けば、教室内に散在していた子ども達からも「おめでとう委員長」「おはよう薄野さん」といった挨拶がちらほらと上がる。
朝一番から物怖じしない、まるで「挨拶することは良いことだからね!」と言わんばかりに鬨の声を上げるのはもちろん、我が友・薄野綾女である。返ってきた温かい挨拶が嬉しいのか、弾けるような笑顔だ。
そんな彼女がベージュのコートを脱ぎ小脇に抱えれば、白と青のセーラー服が表出する。この衣装も久しぶりに見るかと思うと、なかなかに感慨深い。
走って登校してきたのか「ふぅっ」と冬にしては少し熱い吐息を唇に乗せた綾女は、流れのまま己の机へと向かう。その顔がふと上がれば、その隣の席に座る俺と視線が合致した。
「あっ──」
……心なしか、そのクリッとしたアーモンド色の瞳が更に輝きを増した気がするのは、俺の自惚れだろうか。
「刃君、おはよっ! 橘さんもおはよ……う?」
「ああ、おはよう綾女」
『おはようございます』
そんな今日も煌めく我等が委員長の挨拶に、自分の机に座る俺と橘も挨拶を返す。
……橘は片手でペラペラとスケッチブックを捲り、もう片手に和菓子を持ってモグモグとしながらだったが。
そうしてズズーっと、俺の淹れた熱い緑茶を啜ってご満悦な橘に対し、綾女が「えっと……」とカフェオレ色の髪を手櫛で整えながら、困惑したような笑みを浮かべた。
「……なんでいきなりおやつタイム?」
「旅行の土産だ。橘にはその際、世話になったからな。無論、綾女にもあるぞ」
「わ、これはどうもご丁寧に……」
置いた紙袋から取り出した一式を綾女に渡せば、どこかかしこまった彼女らしい反応が返ってきた。
「だいたいが食い物だ、母君や父君と食すがいい」
「うん、ありがと刃君!」
「ああ、それと」
「うん?」
嬉しそうな綾女に一言断り、もう一度紙袋をガサゴソと漁る。
「これは、リンゼと彼方からだ。取っておいてやってくれ」
「あ……」
その小さな手に、包みを乗せる。中身はおそらくキーホルダーか何かだろう。リゼットも「私の趣味じゃないけどね」と笑って言いつつ、彼女の通学鞄に金色のドラゴンのキーホルダーがぶら下がっているのを今朝に見た。
「『直接お別れを言えず、申し訳ありません』と言っていたのも、付け加えておく」
「うん……ありがとう」
綾女がキュッと、その包みを抱くように胸へ寄せる。その瞳にはあの子達を想う熱と、幾許かの寂寥が灯っていた。
娘達がいた冬休みには、綾女も屋敷にお泊まりをして生活を共にしてくれている。きっと心優しい彼女のことだ。胸に去来する思いも、ひとしおなのだろう。
『どちら様ですか?』
「ああ……親戚が冬休みに遊びに来ていてな。綾女にも遊んでもらっていたのだ」
娘達のことを知らない橘にはそう言っておく。
「まるで我が子のように可愛らしくてな。綾女もその子達に、母のように接してくれたものだ」
「……」
まなじりを下げた橘が、セミロングの黒髪を揺らしながら小さく拍手をくれた。彼女の水底のような瞳が一握りの優しさを孕んでいるのを見るに、どうやら偲んでくれているらしい。
ああ、あれから日が経ったものの、いまだこの胸に可愛い娘達の温もりが残っている。
その温もりという名の思い出に触れれば、この先に待つ幸せな日々を夢想せずにはいられない。そう──、
「思わず育児雑誌を買ってしまうほどにな」
「気が早いなぁ!」
リゼットと同じ事を綾女が言う。
いやはや。あの日々を思えば気も早くなり、気が逸るというものだ!
「綾女も楽しみだろう? 千代女が生まれるのが」
「えっ、いや、その……って、お腹撫でないでー!」
セーラー服の上から綾女のお腹を撫でれば、彼女は真っ赤になって身を引く。
そんな俺達を呑気に眺めながら、橘はスケッチブックに文字を綴っていた。
『もうお名前をお決めに?』
「ああ。女の子なら“千代女”。男の子なら……うぅむ、“
「ちょっとー!? 橘さんもそういう方向性で話を進めないでー!」
「何を言う。冬休みには裸の付き合いをした仲だろう」
「あの時は君が脱衣所にいただけじゃん!?」
「~♪」
綾女の焦った声に、橘がそっと口許に手を当てコロコロと笑っている。完全にからかう姿勢だ。相も変わらず儚さの中に、時折垣間見せる茶目っ気が人を惹き付ける面白い少女である。
そんな沈黙の少女は鼻歌を口ずさみつつ、スケッチブックを捲り始める。
橘愛のスケッチブック。その最後のページあたりには『ありがとうございます』や『さようなら』といった、日常的によく使う定型文があらかじめ記されているのだが……、
「橘さん、まさか……」
そして俺と綾女と付き合う内に、そこへ新たに追加された文言を橘はにこやかな笑みと共にこちらへ向けた。頬をヒクつかせる綾女を無視して。
『今日も一日』
「むっ!」
そのページを向けられた俺は、ほぼ条件反射のように窓を開け──全霊を賭して、叫ぶ!
「綾女ぇーーー!! 好きだーーーーー!!!」
「~~~~~♪♪♪」
「やめて……それもうほんとやめてお願いだから……」
よし。今日も一発、かましてやったな。
橘がご機嫌に達者な口笛を吹き、綾女が真っ赤な顔を手で覆って床に崩れ落ちるのを横目に「うむ」と満足して頷く。これをせんと調子が出ん。そのページを綾女に向ければ「今日も一日、清く正しく!」となり、俺に向ければそうなるのだ。
周囲からも「これを聞くと三学期始まったなって思う」「親の声より聞いた」「鶏かな?」といった、もはや慣れきった反応が見受けられる。時報ではないぞ。
「ほんと恥ずかしいから……」
「俺は特段、恥ずかしくなどない」
「そりゃ君はね……」
涙目になりつつ上目遣いで見上げる綾女に、鼻息で返した。
舐めてもらっては困る。この無双の戦鬼、大切な少女への想いに恥じらいなど抱くものかよ。むくつけき鬼の心に、嘘や誤魔化しなどあってはならぬ。そんなに恥ずかしいと言うのなら、お前も鬼にならないか?
「あーもう、顔熱い……」
ため息をついて、いまだ朱の差す頬をパタパタと手で扇ぐ綾女をじっと見る。その奥の奥まで見通すように。
「……」
今年こそ綾女を我が手に堕とすと新年に誓った俺だが、彼女の魂はどこまでも穢れを知らぬ真白の領域。間違っても、妖刀に手を伸ばすなど考えられぬほどの無垢さよ。いやはや、どうしたものか。
そんな俺の熱い視線に気付いたのか、綾女は挙動不審気味にわたわたとして髪を整える。
「……な、なぁに?」
「いや、どうすれば綾女が俺に振り向いてくれるかと作戦を練っていた」
「こわ。そしてそれを私に言っちゃうあたり刃君らしいや」
まったく、純粋にして気難しい宝玉だ。
『浮気はダメですよ、酒上さん』
「せんせん」
学園では俺とリゼットが恋人関係であることが周知されている。それを知り、一般的な感性を持つ橘がからかうようにそんな文言の記されたスケッチブックを向けてきた。
だが浮気とは、他の異性に愛情が移ることである。
ククク、たわけめ。俺の愛が移ろうことなどありはしない。リゼットも、刀花も、綾女も等しく全霊を込めて愛するとも。よってこれは浮気にはならない証明完了である!
「綾女も正月の家族旅行に来ればよかったものを」
「いやー、身の危険を感じたといいますか……ちなみに何してたの?」
口惜しげに言えば、綾女が小首を傾げて聞いてくる。
「そうだな。足湯に浸かり、混浴を経て、素晴らしい夜景を臨みながら山の幸・海の幸に舌鼓を打ち、家族で“あだるとびでお”鑑賞をおこなったな」
「わぁ、楽しそう! ……ん? なんか一部、公序良俗に反する何かがあったような……」
「聞こえなかったのか? “あだるとびでお”を見たのだ」
「わざと聞き流したんだから言わなくていいよぉ! あと十八歳じゃないのにそんなもの見ちゃいけません!」
「俺の鍛造は平安だぞ。いわば、千と十七歳だ」
「もうデ〇モン小暮閣下の自己紹介みたいになってるじゃん……」
『ゲームの設定か何かですか?』
「うむ。俺が実は本体が刀で鬼だったという設定だ。カッコよかろう?」
『要素を盛りすぎでは? 悪鬼滅殺』
失声症の少女に言われたらお終いだぞ。
なぜか『悪鬼滅殺』と記されたハリセンを振るう橘と戯れながら、苦笑している綾女を横目に見る。
「いつか行くぞ、旅行」
「私、修学旅行が怖くなってきちゃったなぁ……」
ああ、そういえばそれがあったな。
「いつだ?」
「三年生の一学期。春の京都だね」
「まだ少し先か……クク、だがその分、計画も練られるというものだ」
「何の計画?」
「無論、綾女を堕とすための計画に決まっておろう?」
「決まっちゃってたかぁ……」
おうとも。
きっと夜には二人で宿を抜け出して、夜の京都で素晴らしい時間を共にするに違いないハッハッハ!……そこに本部を置く陰陽局が邪魔をしてきたら? 生まれてきたことを後悔させてやるとも……。
「ああ、今から春が楽しみだ」
娘達と出会ったことで未来を想う楽しさを得たが、いやこれはなかなかに良いものだ。誕生日やクリスマスを待つ子どもなどは、きっとこのような心地なのだろう。
俺はそんな浮ついた心地のまま、一つ提案する。
「どうだ。昼食時にはそのあたりを詰めていかないか?」
きっと“はねむーん”を計画する新婚のような、味わい深い時間になる。
まだ一時間目も始まってもいないというのに、俺は既に昼食時が楽しみ──、
「あ、ごめん。今日のお昼は他の子と食べる約束してるんだ」
『私もです。お休み明けの、女の子の秘密の情報交換というやつですね』
「がーーーーーーーーーーーーーーーーーーん」
「あ、ふふ……彼方ちゃんとおんなじリアクションだ」
クスリと笑う綾女だが、俺はハシゴを外された気分だ。
なんだと……ちなみにリゼットと刀花も同じ理由で、今日の昼は同席できないと朝の内に通達済みだというのに。おお、もう……。
「ご、ごめんね刃君? 刃君も今日は他の子と……他の、子と……あー……」
「……」
綾女の言葉は段々と尻すぼみになり、一方で橘は沈鬱そうに目元に手を当て、泣き真似をしている。憐れむな……戦鬼、寂しくない。
「まあ、そういう日もあろう……」
昼食の当てが外れてしまったな。
「うぅむ……」
……東棟の屋上にでも行くか。
あの場の慰霊碑に訪れる者(恋のおまじない目当て)が時たまいるとはいえ、教室棟から離れたあそこは普段からあまり人気が無い……あそこを根城にする“ばかっぷる”の悪霊二体は、最悪追い払えばいい。
「うむ……」
たまには、一人で風に当たりながら妹手製の愛情たっぷり弁当を食すのも風情というものか。
(この真冬、寒風に吹かれながら昼食を摂ろうという物好きな輩もおるまいて)
そう当たりをつけ、俺は少々残念な気分になりながらも、一眠りするため枕を机に広げるのだった。
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