第241話「良い宿には良い女将がいるものだ」
結局、旅館の受付時間が来るまで足湯をゆっくりと堪能した俺達は、ポカポカとした身体で冷たい風を切り、少し小高い丘の上にある旅館へと足を進めていた。
「ん……」
そうして現在、クリーム色のフワフワとしたカーペットの感触も心地よい旅館の受付口に立ち、宿泊に伴う記帳をおこなっていたのだが……、
(続柄、か)
ピタリとペンを握る手が止まる。
この温泉旅行が当たるに従い、事前の電話では大人一人、子ども四人で通していたが……どうもこういった老舗では身分をも問われるらしい。
(せっかくの家族旅行だ、無用なトラブルに発展させたくはない)
ただでさえ俺の身分証を二十歳に偽造させているのだ(六条に一晩でやらせた)、これ以上問題に発展する可能性のある誤魔化しは、あまり積み重ねたくはないものであ──、
「いや面倒だ」
スラスラ……。
酒上刃……続柄・夫
酒上刀花……続柄・妻
リゼット=ブルームフィールド……続柄・妻
リンゼ=ブルームフィールド……続柄・娘
酒上彼方……続柄・娘
「──よし」
「こらこらこらっ」
「にゃにおふるまふたー」
帳簿を覗き込んでいたリゼットに頬を摘ままれてしまった。
「なに馬鹿正直に書いてるのよっ! さっきの何か考えてるような間はなんだったの!」
「無駄な時間だった」
「はい、それではお預かり致します~」
「あ、やっ、これはっ……!」
俺とリゼットが言い合うのを微笑ましく眺めていたこの旅館の女将が、ほんわかとした笑みのままに帳簿を手に取る。この旅館に漂う白檀の香りのような、落ち着いた雰囲気のある女性だ。
「あらあら~」
「っ!」
そうして頬に手をやったかと思えば、女将は更に笑みを深め、
「はい、確かに。ようこそ、当旅館にお越しくださいました。それでは、お部屋にご案内させていただきますね」
「え」
「うむ」
『わーい』
キョトンとするリゼットに、頷く俺。そして背後で嬉しそうに手を挙げる刀花と娘達を余所に、女将は笑みを崩すことなく板張りの廊下へと出て我々を先導する。
帳簿の内容を見て、特段これといった変化を見せることのない女将。その様子を不気味に思ったのか、その背にリゼットが問い掛ける。
「あ、あの……こちらが聞くことではないのかもしれないのですが……い、いいんですか?」
「あら?」
遠慮がちな問いに、女将はそう言ってクスクスと笑う。
「お気になさらず。旅館業を長くやっておりますと、様々なお方を拝見する機会がございます。もちろん、表沙汰にできないような関係の方々も、ね」
「っ」
その一言に、リゼットがピクリと肩を跳ね上げるが、
「いえいえ、たまにお見えになるのですよ? 制度的に認められていないからと、事実婚や内縁関係の方などがよく」
「え、そうなん、ですか……?」
その言葉に目を丸くするリゼットに、女将は「えぇえぇ」と何でもないように言ってのける。
「むしろ、そうやってキチンとご記帳をしていただいた方がこちらも助かります。下手に誤魔化されると、こちらも何がお客様の問題に触れてしまうか分かりませんで。せっかく当旅館を選んでいただきましたのに、不満の残るサービスをしたとあっては……恥ずかしくて息もできません」
「あ、あはは……」
手を振って朗らかにそう言う女将だが、きっと過去に何かあったのだろう。当時の苦労が目尻に浮き出ておるわ。
「──とは言いましても、もちろん私どもでは力不足となってしまいそうな方々には、お恥ずかしい限りですがお引き取りをお願いする場合もございます」
続く言葉に、柔らかいスリッパがカーペットを擦る音と、旅館内に流れる琴の音色のみが場を支配する。
「……ふ」
しかしそんな一瞬の緊張も、次の一言で霧散してしまった。
「ですが、皆様の仲睦まじいご様子でしたら……ふふ、私どもも安心しておもてなしができるかと」
「ほう……それは、なにゆえか」
「あら」
気になった俺が少し試すように聞けば、女将は一段砕けた様子で笑って、
「これでも数十年、この旅館を預かってきた身ですので。その方が何をお考えになられているのかまでは分かりませんが……その方が今幸せなのか、そうでないのかは分かるつもりです」
「……つまり己の目利き、ということか」
「はい……と、表向きは」
「む?」
それっぽい理由に納得しかけたが、女将はイタズラっぽく笑う口許を和服の袖で隠した。
「こんなにお可愛らしいお客様方を無碍にするだなんて、そんなことをすれば接客業を営む他の者に後ろから笑われてしまいますわ。えぇ、えぇ……皆様のお幸せに一輪の花を添えられず、なぜ旅館を営むのでしょう?」
そう言い切る女性の瞳に映るのは、腕を組む男が一人。
そして……母子で仲良く手を繋ぎ寄り添い合う、四人の少女達の姿であった。
「ふ、なるほど……」
こちらを見て楽しそうに笑う女将は、見かけよりも若々しく見える。椅子に根を張るだけの者は早々に腐り落ちるのみだが、よりよい環境に根を張る者はその身に活力を宿すのだ。
「──“己の楽しみゆえに”、か」
「あら、他の者にはどうぞご内密に♪」
「クク、承知した。こちらこそかたじけない。一晩世話になる、女将」
「いえいえ、こちらも“好きで”やっていることですから」
己の職務に矜持を持つ者は信用できる。
人間は簡単に他人を裏切るものだが……“己の楽しみ”を裏切りたがる人間は、そういないものだ。
女将の矜持が垣間見える言葉に満足を覚え頷いていると、当の女将は瞳に好奇の光を宿していた。
「それにしても皆様お若いですねぇ。奥方様やご息女様など、お歳が二つしか違わないなんて。事情は深く拝聴致しませんが、さぞご苦労されたのでしょうね」
「ああ、妻が二歳の頃に孕ませてな」
「いやぁ、あの時は大変でしたね」
「そりゃ大変でしょうよ主に警察が」
「あらあら」
さすがに別の世界からやってきた娘とも言えないため誤魔化す言葉に、刀花が同意しリゼットがツッコミを入れてしまう。
だがそんなこちらの様子にも、女将は冗談と理解し呑気に笑っていた。本当に深掘りするつもりはないらしい。
「ちなみに、名字がご一緒ということは昔ながらの正室、側室などをお決めに? そうでしたら配膳の位置なども考慮に入れねばならないのですが」
「はいっ、私、酒上刀花がお恥ずかしながら正室──」
「いえ、特にそういったものは。どうかお気になさらず」
「むむむっ」
「あによ」
「あらあら~」
リゼットと刀花のやり合うそんな姿に、しかし先を行く女将は一層楽しそうに笑みを深めるのだった。
「こちらが、皆様方のお部屋となります」
「わぁ……!」
そうして案内された部屋は、なんとも雅で洗練された雰囲気の広大な部屋であった。
この旅館の外観からして和室のみかと思っていたが、なんと和室と洋室が半々に区切られ存在している。これならば国籍問わず、幅広い種に受け入れられよう。
和室には漆の光るテーブルと座布団が鎮座し、染み一つ無い障子には黄昏に染まる空が切り取られている。
片や洋室には大型のテレビや人数分のベッドが既にこちらを待ち構えており、疲れた身体をいつでも休められるよう手配されていた。
そんな部屋の至れり尽くせりな雰囲気に、少女達も瞳を興奮でキラキラとさせる。
「すっごく素敵なお部屋ですね、兄さん! あ、でもベッドは四つでよかったかもですね」
刀花のそんな言葉に、リゼットが眉を上げる。
「……一応聞いてあげるけれど、なんでよ」
「もちろん、兄さんと私が一緒のお布団で寝るからです!!」
「予想通りのお答えありがとう。あ、女将さん? ベッドはこのままの数で大丈夫です」
「敷き布団の方をご希望でしたら、いつでも仰ってくださいね」
こちらのやり取りに一切のブレを見せないあたり、熟練の貫禄が見える。流された刀花はぶー垂れているが。
「ぶー、いいですもーん。勝手に潜り込みますもーん。あ、耳栓はしててくださいね? もしかしたら恥ずかしい声や音が出ちゃうかもしれませんので」
「女将さん、やっぱりこの子だけ別のお部屋を用意してくださる?」
「そんなリゼットさん……兄妹水入らずのお部屋を用意してくださるなんて……! ありがとうございます。これで心置きなく兄さんと結ばれることができます」
「『あの子だけ』って言ったの聞こえなかった? どこに耳を付けてるのかしら」
「むふー、ここでぇ~す♡」
「イラッ……」
「いたたたたたたた!? 兄さん、兄さん! 家庭内暴力です! 姑さんが可愛いお嫁さんのお耳をー!」
「誰が姑か誰がー!」
「あらあら~」
洋室方面ではリゼットと刀花が言い合う一方で、和室方面では……、
「こういう掛け軸の裏に、実は御札とかが……」
「こらおバカリンゼ。失礼なことをするな」
「あたっ! じょ、冗談ですわよ冗談……あ、ここ! ここワタクシの陣地~♪」
「む、姉にも分けろ」
「あー! 領土侵犯ですわー!」
リンゼと彼方の娘組も、部屋の調度品やらを前に興奮を隠しきれない様子。和室の奥にチョコンとある、窓際にテーブルと椅子のみが置かれたお約束の例の間(
「うむ」
皆、気に入ったようでなによりだ。
彼女達の荷物を一手に担っていた俺も人心地つき、床に荷物を下ろす。さて、次だが……。
そう俺が次の予定を思案していると、こちらの考えを読み取ったのか女将がポンと手を叩く。
「おくつろぎのところ申し訳ございません。お夕食には少々早いお時間ではございますが、いかが致しましょう。このままお夕食をご用意致しましょうか? それとも、先にお湯の方をお楽しみに?」
「「はっ……!?」」
その女将の一声に、リゼットと刀花は目を見開く。
「……」
「……」
そうしてお互いに目配せし、ついでに己のお腹にも念入りに手を這わせ……、
「「……お風呂で!」」
「あらあら、かしこまりました」
声を揃えて、そう注文するのだった。お昼ご飯は消化できたらしい。
「当旅館自慢の大浴場の他、ご家族のみでお楽しみいただける家族風呂もございますので、どうぞごゆっくりとお楽しみください」
「家族風呂っ……! そっち! そっち行きましょう!」
「えぇ~……?」
その紹介を最後に、女将は一礼と共にこの部屋を辞そうとするが、
「女将、これを」
「はい……?」
それを俺はこっそりと呼び止め、包みを一つ渡す。お年玉を入れるのと同じポチ袋だ。
「あらあらお客様。お志は昨今、最初から料金に含まれておりますれば」
「いや、そうではない」
「……あら」
外国で言う“ちっぷ”ではない。
言外にそう伝えれば、女将はスッと柔和な瞳を細めてみせた。
「それでは……?」
「うむ、とある筋から聞いたのだ。どうかよしなに頼む」
「ふふ、ではそのように」
そうして小さく笑みを浮かべ、女将は静かに去って行く。少女達はこちらの秘め事に気付いた様子はない。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
こそりと呟く。
とある筋……橘から事前に聞いたのだ。この旅館に泊まるのならば、女将に心付けを渡すといい──とな。
詳細は聞けなかったが、あの女将の様子からして悪いことにはなるまい。
「うむ。さて、身体も少し冷えただろう。風呂に行くとするか」
「はーい!」
「え、大浴場よね? え、え? まさか家族風呂?」
「リゼットお母様、もう諦めになった方が……」
先程のやり取りでこの旅館は信用できると確信した俺は、早速その自慢とやらの浴場を楽しむべく少女達に声を掛けるのだった。
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