第80話「それこそ五秒で呼び戻された」
「いいですか、リゼットさん? 包丁を持つ時は基本猫の手です。にゃーんです」
「こ、こう?」
「――今、猫という素敵な単語が聞こえたのだが?」
「うわビックリした。ちょっと、覗かないでって言ってるでしょ! いいから掃除に戻る!」
「……猫」
しょぼんと哀愁を漂わせながら、急に窓の外に現れた私の眷属は庭掃除に戻ろうとする。
しかし、その前に彼はキッチンに立つ私の姿をじいっと見つめてきた。
「……な、なによ」
「いや、エプロン姿など初めて見たのでな。存外様になっているではないか」
「あ、あんまり見ないでよ変態……」
彼の言葉にドキドキしながらも、私は恥ずかしげに身体を隠す。そうして隠した身体の全面には、トーカと同じくシンプルなデザインの赤いエプロンがあしらわれていた。
努力しているところを見られるのが苦手な私は、彼の感心したような視線にもじりもじりと太股を擦り合わせる。は、恥ずかしい……。
「まったくいきなり『料理がしてみたい』などと。別に無理せずともよいのだぞ?」
「む、無理じゃないわよ」
「俺は心配だ。包丁で指を切らないかどうか気が気ではない」
「まあまあ兄さん、私が付いてますから。それに兄さんの合格発表を出来る形でお祝いしたいだなんて健気じゃないですか。私はお株を奪われた気分ですけど」
隣のトーカはちょっぴり拗ねた感じで最後に付け足した。
そうなのだ。今日はジンの合否が郵送されてくる日。自己採点をした限りではおそらく合格のはず。
というわけで彼の合格を祝うために何か出来ないかと考えていたところ……
『じゃあ今晩は兄さんの大好きなカレーを作っちゃいますね』
というトーカの言葉を聞き、それならば私もと思った次第なのだった。まあ料理の経験は皆無に等しいので、こうしてトーカに教えてもらっているのだけれど。
「ほ、ほら、集中できないでしょ。早く庭掃除に――こらっ、写真を撮らないの!」
「主人と妹の艶姿、撮らない方がおかしかろう。おうこら包丁を投げるなカレーが不味くなる」
投擲した包丁を二本の指で受け止めながら、彼はパシャパシャとスマホで写真を撮って悦に浸っている。あーもうこの変態!
「はーい兄さん、嬉しいのは分かりましたから。そろそろ料理をしないと晩ご飯に間に合わなくなっちゃいます。兄さんも、私とリゼットさんの愛情がいっぱい詰まったカレーが食べたいですよね?」
「む……食べたい」
あ、愛情て……よくそんなこと恥ずかしげもなく言えるわね……
しかしその言葉は効果覿面、彼は写真を撮る手をピタリと止め、大人しく包丁を返してきた。
「じゃあ兄さんも庭掃除を頑張って、お腹を空かせて待っていてくださいね♪」
「承知した」
パチリとトーカがウインクを投げれば、ジンは満足げに頷く。
さすがにジンの操縦が上手い。
彼は妹の言葉に踵を返し、真面目に庭掃除へと戻っていった。そのやり取りはとてもスムーズで、彼らの往年の絆を感じさせて……少し妬けてしまうくらいだった。
「……さすがね」
「妹ですので!」
自慢げに胸を叩いて、彼女はオリジナルのルーの調合へと戻っていく。料理をしたことがない私にとっては、最早何かの実験をしているようにしか見えない。
「それにしても、ジンってカレーが好物だったのね」
気持ちを切り替え、プルプルしながらも慎重に野菜を切っていく中で呟けば、トーカは笑みを深めた。
「思い出の料理なんです。私が兄さんに初めて作った料理もカレーでしたし、兄さんが私に初めて作ってくれたのもカレーです。初心者でも簡単に作れますからね」
「へぇ……」
てっきり肉でも与えておけば喜ぶと思っていたけれど。それに思い出かぁ……その時間の積み重ねが、少し羨ましい。
きっとこの兄妹はずっとこうして生活してきたのだろうな、と。
「ふふ」
私の顔から何かを察したのか、トーカはしかし苦笑を零した。
「でも、最初は大変だったんですよ? 兄さんは“私の身を守ること”しか考えてなくって、人間の生活には無関心で……ここだけの話、はじめは兄さんのこと苦手だったんです」
「えっ」
思わず耳を疑い、ギョッとしてトーカの方を見る。
常日頃から兄さん兄さんと大好きな気持ちを隠さないこの子が、昔はジンのことが苦手だった……?
衝撃を受けた私に、トーカはおかしそうに笑っている。
「最初から兄妹だったわけじゃありませんから。それに急に目の前に現れた怖いお兄さんをいきなり信頼するというのは、小さい頃の私には難易度が高くって」
「あー……」
それはそうだ。
今でこそ彼は表情豊かに生活しているが、たまにその本性を見せる時がある。その時は、私も少し怖いと感じてしまうくらいだ。
ならば、彼が顕現した頃には相当なものだったはずなのだ。心優しい妹が、警戒を露わにするくらいは。
「それで、当時の私もこれはいけないって思いまして。なんとか兄さんに人間味を持たせなきゃと」
「……それでカレーをご馳走したってこと?」
「むふー、正解です。初めてカレーを食べた兄さんの表情は今でも忘れません。ずうっと眉間に皺を寄せてたお顔がキョトンして『……美味い』って。そして『刀花、結婚してくれ』と!」
「そこは絶対盛ってるわね」
さっき苦手だったって言ってたじゃない。
それにしても意外な話を聞いた。それならばカレーが思い出の料理というのも納得だ。いわばこれは、二人を繋ぐ架け橋となった料理なのだから。
「それから兄さんは“私の身を守ること”だけじゃなくて“私を守ること”を考えるようになりました。身体だけじゃなく心も、ってことですね」
トーカは頬に手を当てほうっと熱い息を吐いた。
「そんなことされたら好きになっちゃいますよねぇ……」
デレデレと彼への好意を語るトーカの顔は、まさに恋する乙女を体現するほど蕩けていた。
そんな顔を見ていると、私の胸はチクリと痛む。
「ですので!」
「!?」
しかし唐突にクワッと目を見開いたかと思うと、彼女はこちらに向き直った。その瞳は情熱に燃えている。
「これは大切な料理なんです。いくらリゼットさんとはいえ、ビシバシ指導していきますからね!」
「は、はい!」
思わず敬語で返してしまった。
そうして、その熱に当てられた私はすっかり止めていた手を再び動かす。しかし……
「具が小さすぎます! それでは煮込んでいる間に溶けちゃいますよ。兄さんは少し大きめの具が好みなので。きちんと食べる人の事を考えながら作るのが愛の籠もった料理なんです!」
「わ、わかった、わかったから!」
手を動かすたびに飛ぶトーカの指導に、思わず悲鳴を上げる。
お、思ったより厳しい! これがジャパニーズ・シュウトメってやつなのね!?
「と、トーカって最初から料理できたの?」
「いいえ? 私は今のリゼットさんより酷いものでした」
えー!? でもさっきジンは美味しいって!
「兄さんは味と、込められた想いを食べるんです。妖刀さんですからね。ですので技量が伴わないのならせめて想いを込めてください!」
「えっ、なんか恥ずかしい……」
な、なるほど。そういう絡繰りがあったのね。
で、でも想いを込めるって、それってつまり……だ、大好きって考えながら料理するってこと……?
顔が火照るのを感じ、躊躇っているとトーカはスッと目を細めた。
「ちなみに兄さんはその辺敏感ですよ。リゼットさんからの愛情が少なかったらガッカリするでしょうね……。そうしたら『やはり料理は妹のものが一番だ』ってことに」
「そ、そんなのダメよ!」
確かに技量には天と地ほどの差がある。
でも気持ちでは負けていないって、私にもプライドがあるのよ!
「うぅ~……ジン~、ジン~……!」
私は念じるように想い人の名を呼びながら野菜を切っていく。恥ずかしいけれど、妹に負けてばかりではいられない!
「……はぁ、これが敵に塩を送るってことなんでしょうか。でも兄さん喜ぶでしょうし。今回だけですからね、リゼットさん」
やれやれと肩を竦め「大切な料理を教える意味を、もう少し考えて欲しいですね」というトーカの呟きすら耳には入ってこず、私は全力で集中しながら野菜を切っていくのだった。
「はい、じゃあ後は煮込むだけです。焦げ付かないよう、たまにかき混ぜましょう」
「あ、ありがとうございました……」
私は初めての料理にヘトヘトになりながらも、なんとか最後まで指導してくれた彼女に礼を言った。
もう少し優しく教えてくれるかと思ったけれど、意外に厳しかった。多分ジンが関わっていることには厳しくなるのかもしれない……。
「……兄さん、遅いですね?」
「そういえば……」
外を見れば、もう日が沈む頃合いだ。
少し早めに料理を開始したとはいえ、庭掃除なら終わっていてもいい時間帯のはず。普段、私達と常に一緒にいる彼にしては珍しい。
「ジンー?」
……。
「あら?」
「……妙ですね」
いつもなら、呼べば五秒と待たずに現れる彼が今日に限って姿を現わさない。
……カレーの味を見てもらいたいのに。私の頑張りをすぐに褒めてもらいたいのに。
そんな考えもあって少しムッとする。何してるのよあのおバカ眷属は。
私達は顔を見合わせ、首を傾げる。そうして一旦火を止め、玄関の方へと向かった。
「ジン?」
「兄さん?」
玄関を開けながら呼ぶも、やはり返事はない。それどころか彼の姿もない。あるのは綺麗に雑草の刈られた庭と……
「……これは?」
縁石に置かれた二通の手紙だった。わざわざ風で飛ばないよう重しもしてある。なんとも寂しげな雰囲気を醸し出す風景だった。
しかし、嫌な予感を覚えた私はすぐさまふんだくるようにして手紙を拾い上げる。
そうして二通の手紙を一気に広げ、そこに記されていた文字を目にした。
『不合格』
『探さないでください』
「――」
「……あ、目眩が」
トーカがふらっと崩れ落ちる気配がする。
私も、その文字を目にした途端頭が真っ白になり――
………
……
…
「こぉらーーーーー!! じぃーーーーーんーーーーーーー!!!!」
そして、爆発したのだった。
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