第57話「ふかふかな妹なのです」



「青い空!」


 抜けるような夏の空を仰ぎ、我が妹は喝采を上げる。


「白い波!」


 その夏の空から照りつける太陽の光を反射し、まるでダイヤモンドのように煌めく海面は天然の宝石箱だ。

 だが、そんな景色に奪われるのは目だけではない。


「そして――」


 潮風が頬を打ち、カモメの声が歌となり耳をくすぐる青の楽園。夏の日差しをたっぷり浴びて、潮騒さざめくこの場所こそ、そう……!


「海面を走る兄さん!」

「おおぉぉぉぉおおおおぉぉぉお!!」


 ――そう、太平洋のど真ん中である!!


「あ、見てください兄さん、イルカさんです! こんにちは!」

「この俺について来るとは不届きな哺乳類だ」


 頭上でにこやかにイルカへ手を振る刀花を肩車しながら、俺はひたすら足を動かし続ける。

 海面走りなど造作もない。右足が沈む前に左足を出し、左足が沈む前に右足を出す。これだけだ。

 モーターボートもかくやという水飛沫を上げて進みながら、俺はチラリと頭上の刀花を見上げた。


「それにしても、俺はもう少しお淑やかなピクニックを想像していたぞ」


 ミニスカートから伸びるむっちりとした太股に顔を挟まれながら、妹に言う。


「ふふ、だって兄さん、リゼットさんと人混み多いところに行ってたじゃないですか。でしたら、少しは羽を伸ばしたいかなって」


 この妹は俺に社会に溶け込めるようにものを教える時があるが、よくこうして俺を気遣ってくれるという面もある。気遣い上手な妹を持てて俺は大変誇らしい。


「まったく、できた妹だ」

「むふー、やぁん♪」


 バニラのような甘い香りのする太股に口付けをすると、くすぐったそうに身を捩る。鬼の角をハンドルのように持つ彼女だが、あまりやりすぎると落ちてしまいかねないのでほどほどにしておく。角にひっかけたバスケットも心配だ。

 そう、なぜ今太平洋を横断しているのか。それはもちろん昨日彼女が言ったように、ピクニックをするためだ。

 ただ、現在世間は夏休み。公園や観光名所は人混みで溢れているのは想像に難くない。先日の遊園地もなかなかのものであった。ならば――


「無人島か、考えたな」

「そこなら兄さんも人目を気にすることなく身体を動かせますからね。どうです? 久しぶりに身体を全力で動かすのは」

「ふ、悪くない!」

「きゃあー♪ 兄さん早い早ーい!」


 さらに身体のギアを上げ、イルカも置き去りにする。楽しそうな声を上げてこちらの頭にしがみつく妹の柔らかさを堪能しつつ、いい感じの島がないかをつぶさに観察する。


「この辺りは……まだ国内か。もうしばらく進んでカラッとしたところに行くか」

「そうですね、水着も持ってきましたし。まあ兄さんって輸出禁止なんですけど」

「はっ、知ったことではないな」


 それに陰陽局の刺客に追われていた頃にも、たまに国外逃亡していた時期があった。俺がいればサバイバル用品も必要ない。無人島などいい休憩所であった。あいつらは公務員のため管轄にうるさくていい時間稼ぎになったものだ。


「ふー、風が気持ちいいですね」


 気持ちよさげにうんと伸びをする妹の姿に笑みがこぼれる。今日の彼女の装いは襟付きのノースリーブシャツにミニスカートという軽装だ。今のように腕を上げると白い脇が目に眩しい。

 昔と違い、今は追われる心配もない。そのためか彼女は落ち着いた様子でこの海路を楽しんでいる。


「昔から結構好きなんですよね、この兄さんジェット」

「昔は遊園地などまったく行けなかったからな、あの頃はさぞ窮屈だったろう」

「ふふ、そんな」


 むにゅんと、後頭部に当たる二つの瑞々しい感触と共に、後ろから抱き締められる。


「不器用ながら少しでも楽しませようとしてくれて、小さい頃の私はすっごく嬉しかったんですよ?」


 そう言って彼女は愛情を伝えるようにスリスリとこちらの頭に頬擦りをする。


「いつもありがとうございます、私だけのおにーさん」

「……その呼び方も、もはや懐かしい」


 小学校低学年という大事な時期に、追跡者の影に怯え逃走と闘争を繰り広げる毎日だったというのに。彼女は決して曲がらず、きちんとお礼を言える真っ直ぐな子に育った。

 くっ、立派に育って……潮風が目に染みるな。

 妹の温もりを感じながら、ひとり鼻水を啜る。年を取ると涙腺が緩んでいかん。


「ふふ、私を幸せにしてくれるのは兄さんだけなんですからね?」

「ああ、絶対に幸せにする」


 そうとも。

 この子は幸せにならなければならない。その代償は、十年前に多くの血で支払われているのだからな。彼女が幸せになれないなど、それこそ世界の方が間違っている。

 鬼だろうが何者だろうが、必ず彼女に幸せが訪れるようにせねば。まあ最近幸せにせねばならん者も一人増えてしま――


「こーら、兄さん?」


 ごちゃごちゃと考えていると、目の前に妹の顔が逆さに現れた。その頬はぷくっと膨れ、不満げだ。


「今、別の女の子のこと考えてましたね?」

「……よく分かったな」

「むー、分かりますよ。兄さんのことは何でも分かります。妹なので」


 そう言うと、彼女は唇をとがらせ……


「……かぷっ♪」

「にゃにをする」


 こちらの鼻先にかぶりついた。


「今はわらひとれート中なんれすから、わらひらけを見ててくらはーい」


 ふがふが言って聞き取りにくいが、彼女の言わんとしていることは分かった。


「すまん、野暮だったな」

「ほんとですよ」


 垂れた前髪であらわになった彼女のおでこに一つ口付けをすれば、彼女は不満そうにしながらもちょっぴり頬を染めて鼻を離した。


「無人島を選んだのは、兄妹水入らずで楽しめるようにっていうことも含むんですからね?」

「なるほど」


 まあマスターに危険が及べば一瞬で分かるようにはしているのだが……それこそ言うのは野暮というものだ。

 唇をとがらせ、むにゅむにゅと肉感たっぷりのやわっこい太股を頬に押しつける妹を宥める。

 黒いニーソックスとミニスカートの間の素肌がちょうど頬に当たり、バニラっぽい香りの中に汗の混じった甘酸っぱい匂いが嗅覚を直撃して……とても、いい……のでやめて欲しい。


「こほん、バスケットには弁当が入っているのか?」


 話題の転換を図り、角の先で揺れるバスケットに視線を向ける。そうすると彼女は嬉しそうに笑った。


「そうでーす。ピクニックですからね、サンドイッチにポテトサラダに、タコさんウインナー!」


 足をパタパタさせてご機嫌な様子。


「やはりか。そうでなければ現地で食材を調達するのかと」

「それじゃピクニックじゃなくて狩りですよう」


 おかしそうに笑って、鼻歌を歌う。


「着く頃にはちょうどお昼時ですね。シート広げてー、お弁当食べてー、海水浴もしてー」


 ふんふんと歌交じりに今後の予定を立てるご機嫌な妹に、なんだかこちらも楽しくなってくる。太平洋を横断することになって少々驚いたが、可愛らしいデートには変わりなさそうだった。


「そうして無人島に男女二人きり、何も起こらないはずがなく……むふふ」

「……」


 お、いい感じの島が見えてきたな!(スルー)


「あの島にするか」

「あ、ちょっと待ってください兄さん。私も海歩きたくなっちゃいました、いいですか?」


 ふむ、と頷いて周囲を観察する。

 危険な水棲生物の気配もなし、波も穏やか、岩礁もなし……いいだろう。


「ようし、合わせるぞ!」

「はーい!」


 一際強く波を蹴り、大きな飛沫を上げ数十メートルほど飛び上がる。


「我流・酒上流槍術!」


 彼女の掛け声に合わせ、俺は三叉槍に姿を変えて彼女の手に収まった。


『重力槍――軛絶ち!』


 空中で器用に槍をクルクルと回し、バスケットを矛先に引っかけながら叫ぶ。

 そうしてその命に応え槍に霊力が走り、槍に宿る権能を彼女に与えた。

 海面に直撃するかと思われた刹那、彼女は重力の軛から解放され、ふわりと羽根のように舞い降りる。

 流れるような一連の動作だ。洗濯の物干し竿で練習していた甲斐があったな。


「とーう! どうですか、兄さん?」

『見事、十点』

「むふー、やったあ!」


 体操選手のようにポーズをきめた刀花に賛辞を送れば、ぴょんと跳び跳ねて彼女は喜ぶ。

 手際といい身のこなしといい俺の形状変化といい、相変わらず俺の使い方が上手い。お淑やかに見えて、刀花はなかなか侮れない運動神経をしているのだ。


『部活とやらには入らないのか?』

「兄さんといられる時間が減っちゃうので入りませーん」


 くすりと笑いながらちゃぷちゃぷと歩き、時には踊るように海面でステップを踏む様は水の精霊を思わせる。スカートがふわりと舞い、微笑みを象るその姿はどのような幻想的な光景よりも優った。


「ふふ、あははっ」


 爪先で水を蹴り、槍を回して弧を描き、彼女は本当に楽しそうに笑う。

 世界の幸せを一身に受けるようなその姿に、こちらも心に安らぎを得る。

 まったく、この殺戮兵器を手にしてやることが水面を歩いて遊ぶなど……害を為すということを知らぬ無垢な乙女よ。


 ――その穢れのなさこそが、この無双の戦鬼を惹き付けてやまないのだ。


「よいしょ、それではあの島目掛けて、突撃です!」

『ふ、任せろ』


 重力を調整し宙に浮かぶ俺に、刀花は横座りでその柔らかいお尻を乗せる。刀花は全身女の子っぽい柔らかさに満ちているな。

 そんな細い得物に跨がる姿はまるで童話の魔女を思わせる。なんともへにゃっとした笑顔を浮かべる、可愛らしい魔女だ。

 指先で愛おしそうにつうっと柄を撫でながら「お願いしますね」と楽しそうに言う。その声に応え、箒役の俺はせめて少しでもこの少女が楽しめるようにと、水面ギリギリを勢いよく飛んで無人島へ向かうのだった。

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