第56話「この香りは……!」



 ズドン、という重苦しい音と共に砂塵が舞う。

 濛々と立ち込める砂埃を掻き分け、俺達主従は屋敷へと帰還した。


「行きは電車だったが、空の旅もそう悪くはなかっただろう?」

「……」


 腕の中のお姫様へ冗談交じりに言うが、返ってくるのはコクンという頷きだけだった。尖塔でのキスからこっち、どんな話題を振ろうと彼女は、こちらの胸に押し付けた赤い顔を動かすのみという有り様だ。


「……下ろすぞ」


 着地した衝撃で舞っていた砂も晴れ、少しひび割れてしまったタイルの上に彼女を下ろした。これで少しは彼女も落ち着くだろう。しかし、


「……っ」


 彼女はこちらの服の裾をギュッと握り、寄り添うようにして離れない。その表情は俯いた前髪と、抱えるように持っている帽子で隠れて見えないが……髪から覗く耳はいまだ真っ赤っかだ。

 離れられないのか、離れたくないのか。どちらにしろ愛おしい彼女の態度にクラクラしつつも、彼女に向かって手を伸ばす。


「……歩くぞ?」

「――」


 コクンとまた頷く。

 なぜ喋らんのか……いや、構うまい。いろいろとウブなお嬢様には衝撃的だったのだろう。俺とて今は夜風で身体の火照りは収まったとはいえ、あの夢のような時間を思い返せば胸に熱い火が灯る。

 今はそっとしておくべきか。そう思い、彼女の手を握りエスコートしながら明るい照明の点いた屋敷へと歩を進める。

 ちょうど今は夕食の時間を少し過ぎたくらいだ。刀花に頼んで、なにか落ち着く茶でも淹れてもらうとしよう。

 そう考えながら、屋敷のドアを開けた。


「今帰った――」

「お帰りなさい兄さん!!」

「おぉっと」


 帰宅の挨拶も中断し、飛び込んできた黒髪を抱き留めた。


「寂しがりなこのお転婆姫は誰だ?」

「むふー、あなたの可愛い可愛い妹の刀花です!」


 言いながらむぎゅっとこちらの胸に顔を埋めるのは、もちろん我が最愛の妹だ。そんな妹はまるで上書きするかのように胸の中でコシコシと顔を動かし擦り付けている。相変わらずな様子に少し安心した。


「あぁ、やっぱり生の兄さんでないと妹は満足できませう゛」

「ど、どうした」


 しかし刀花は突如うめいて、後退り。なにかを恐れるように腕で顔をかばい、わなわなと震えている。


「こ、これは……匂います」

「お、おう……?」


 くわっと目を見開き、呟く妹の姿には鬼気迫るものがある。しかし匂うとは……?


「匂い立ちます……!」

「な、なにがだ」


 汗はそんなにかいていないはずだが。というか汗の匂いならむしろこの妹は喜ぶ。

 怪訝に思いながら聞くと、刀花はゴクリと息を呑んで告げた。


「ひどい……ひどいラブコメの匂いがします……!」

「すまん、わからん」

「っ!」


 謎の感覚を察知する妹に首をかしげるが、しかし隣でいまだ黙りこくり、裾を握ったままの少女は肩をビクッと震わせた。

 そんなマスターの様子に、刀花は探るように湿っぽい瞳を向ける。


「えづくじゃあありませんか……」

「っ」


 観察するように見る琥珀色の瞳から逃れるように、リゼットはこちらの背に縮こまって隠れようとする。だがその様子は妹の目にあまりに乙女に映ったようで……


「……したんですね?」

「――っ!」


 なにを、とは聞かない。

 しかし、ますます真っ赤になり縮こまる彼女の様子に、刀花は「この二人はなにかをした」という確信を持ったようだった。俺もなぜか冷や汗が止まらん。


「むむむ……」


 じいっと、上から下まで刀花はリゼットを観察している。しかし見た目では何をしたかは分からないのだろう、刀花は眉を寄せ唸っている。


「……お尻」

「?」


 どうした。

 唐突にそう呟いた妹に、リゼットは首をかしげている。そんなリゼットの反応に、刀花は「ふむ」とまるで俺がするように顎に手を当て、確認するように唸った。


「お腹」

「?」

「胸」

「……」


 なんだ。何が始まろうとしている?

 次々と身体の部位を言う妹は止まる様子がない。そうして身体の部位は徐々に上に行き……


「頬」

「!」

「……むむ」


 刀花が顔の部位を言った途端、リゼットが肩を震わせる。その反応をもって、刀花は眉をピクリと上げた。


「おでこ」

「っ」

「耳」

「っっ」

「……唇」

「っっっ」


 刀花は言うたびにその唇をとがらせて、まるでプロファイラーのようにリゼットを追い詰めていく。

 次々と足される部位。そうして最後に呟くその箇所は……


「――舌」

「はぅっ!」


 満を持して告げられた言葉に、ポンっと頭から湯気が出るほど彼女の顔が真っ赤に染まる。マスター、アウトー。


「うわーん! この人達唇の濃厚接触したんですー!?」


 真実を悟った刀花は頭を抱えて泣きながら叫んだ。濃厚接触ってなんだ。


「はっ、ということは今リゼットさんにディープキスをすれば兄さんと間接ディープキスができるのでは!?」

「!?」

「落ち着け、いろいろと」


 我が妹が錯乱している……。さすがにショッキングすぎるニュースだったようだ。そんな妹の姿にリゼットも怯えている。


「よよよ……」


 覚束ない足取りで、刀花は玄関脇のソファに倒れ込む。その瞳からはとめどなく涙が溢れていた。


「もうおしまいです。妹はとてもショックを受けました……」

「お、おう……」


 すまないと言いかけるが、さすがにそれはマスターに失礼だ。言葉をグッと飲み込む。


「うっうっ、リゼットさんがディープキスするから……舌を絡めるから……やらしく舌を吸うから……」

「~~~!」


 刀花はブツブツと暗く呟いている。そしてその言葉で先程のキスを想起するのか、真っ赤になったリゼットは指をちょんちょんと突き合わせて照れていた。事実なので否定もない。


「は、ふはっ……」


 そんな純な乙女の反応に刀花は空気が抜けるような声を上げたかと思うと、再びくわっと目を見開き立ち上がった。

 そしてテレテレするリゼットの前に立ち、今までの取り乱し方が嘘だと思えるほどにっこりと笑った。


「リゼットさん」

「――」


 リゼットはコクリと頷き上目遣いで見上げる。


「明日一日、お暇をいただきますね?」

「?」


 首をかしげる。


「ご飯は作り置きしておきますのでご安心を。掃除は今日のうちにしておきましたので。お風呂は帰るまで待っていてください」


 矢継ぎ早に言う刀花に目を白黒させる。しかしそんなリゼットには目もくれず、次に妹はこちらへ視線を向けた。

 その顔は笑みで彩られ、声は猫撫で声だ。


「兄さぁん♪ 私に何か言うことがありますよね~?」

「……」


 すごい迫力だった。隣のマスターなど震えている。

 俺は手に浮かんだ汗を握り、唾を飲み下してなんとかセリフを口にした。


「……今夜は一緒に寝よう」

「それは決定事項なので違います」

「あ、そうですか」


 思わず敬語になってしまった。そんな俺には構いもせず、刀花はピンと指を立て諭すように振っている。


「兄さん、私は傷付きました。恋の傷です」

「ふ、ふむ」

「恋の傷は、恋でしか癒せないらしいですよ?」

「なるほど……刀花。明日は俺とデートしてく――」

「喜んで!!」


 即断即決。俺の居合より早かったかもしれん。

 もはや言い終わってないのだが……そんな些事はうっちゃって、刀花は諸手を挙げて喜んでいる。まぁ間違えなかっただけよしとしよう。

 飛び跳ねる刀花に苦笑しながら、チラリとマスターの方を見て詫びておく。


「……すまないがマスター、そういうことだ。大目に見てくれ」

「むー……」


 ぷくっと頬が膨らみ、少しじっとりとした視線を向けられたが、最後には仕方ないというようにため息を吐かれた。理解のあるマスターで本当に助かる。刺してくれてもいいぞ? ……と思ったら二回ほど左胸を指でツンツンとされた。刺されてしまったな。


「ではでは、先にお風呂に入っちゃってください。その間に晩御飯を温め直しますので」


 明日の約束も決まり、鼻歌交じりに手を合わせて刀花は笑顔で言う。


「むふー、迷いますね兄さん。どこへ行きましょうか」

「刀花の好きなところでいいぞ、どこにでも連れていく」

「ふふ、言いましたね?」

「うむ、任せるがいい。して……?」


 どこへ行く。

 カラオケか、水族館か、ボーリングか? 正直、この妹と行ったことのない場所などほとんどない。ちなみに彼女のお気に入りはケーキバイキングやスイーツ巡りだが……。


「そうですねぇ……場所は未定ですが、こうしましょう」


 我が最愛の妹は、クルリとダンスをするようにスカートを揺らし、ウインクをしながら言った。


「明日の予定は、ピクニックです!」

「ほう」


 悪くない。

 今は緑豊かで活気ある季節。向日葵も爽やかにその花弁を風に揺らす頃合いだろう。手を繋ぎ、その中を歩くだけできっと、その時間は特別なものとなるに違いない。

 ふむ、どうやら明日は二人きりで穏やかな時間を過ごすことになりそうだ。そう思いふっと笑みがこぼれる。

 自然豊かなピクニックか、なんと可愛らしいデートであろうか。


 ……そう。この時の俺は、呑気にもそう思っていたのだった。

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