第55話「癖になっちゃったら、どうしよう……」



「落ち着いたか?」

「……不覚だったわ」


 そろそろ観覧車が頂上に着くという頃合いに、彼女は多少ぶすっとしながらもこちらの声に応える。その瞳は、少し腫れぼったい。

 だが、その表情は先程と比べて晴れやかだ。ひとしきり泣いて、スッキリしたのだろう。いつもはツンとして大人ぶっている態度も、今は年相応の柔らかい雰囲気となっている。


「はぁ、なんだか調子が狂っちゃうわ」

「なぜだ?」

「……今日のあなた、普通に優しいんだもの」

「なぜ不満げなのだ……」


 いいことなのではないのかそれは。


「正直、最初はちょっと不安だったのよ? 遊園地で暴れるんじゃないかって」

「俺をなんだと思っている」

「だってあなた人間嫌いでしょ」

「無論だ」


 彼女の言葉にそう言って「ふん」と一つ鼻を鳴らす。

 俺を構築するのは無理矢理生け贄にされた者達の魂だ。顕現してからというもの、妹以外の人間には殺意しかない。当然の帰結だな。

 だが人間が嫌いだからといって無秩序に暴れるわけにもいかん。今日は詫びも兼ねた彼女とのデートなのだからな。それに報いるは当然のこと、自重もするというものだ。


「……無理させちゃったかしら」

「いいや……」


 上目遣いでこちらを伺う少女に、ふっと笑って首を振る。俺としたことが、確かに今日は普通に楽しんでしまっていたかもな。鬼としては落第かもしれん。

 うぅむと唸るそんな俺を、彼女はおかしそうに頬杖をついて笑っている。


「ふふ、なんだか拍子抜けしちゃったわね」

「……ほう」


 笑顔で言う彼女。しかし、そう「普通普通」と言われるとこちらとしては釈然としない。

 普通を羨んでいた彼女にとってはいいことなのかもしれないが、なんだか平凡と言われているようで少し癪に障る。


「ふむ……では、普通であることは充分楽しんだだろう」

「え? えぇ」


 観覧車の位置と時間を確認する。よし、まだ『アレ』までには少し間があるな。

 俺は一つ頷き、彼女の手を握った。


「ならば、最後は普通でないことを楽しもうではないか」

「え、ちょっと、きゃっ!?」


 所詮、俺達は普通ではない。この狭い世界から外れ、時には自分の存在すら疎ましく思うこともあるだろうが……その分、俺達にしかできないこともある。


「行くぞ」

「ちょっと――!?」


 天井を斬り飛ばし、彼女をお姫様抱っこで抱えて観覧車から飛び立つ。騒ぎにならないよう、出た瞬間に天井は雑に溶接しておいた。

 夜の闇に紛れ、ジェットコースターのレール、メリーゴーランドの屋根を素早く飛び渡る。そのたびに視界に流れるイルミネーションが、テールランプとなり幻想的に世界を彩っていく。


「ふっ」

「わ、わ」


 風のように駆け抜ける。

 そうして最後に強く力を込めて飛び上がり、目的地に片足で着地した。そこは……


「……綺麗」


 昼間に来た白亜の城。その一番高い尖塔の天辺に、俺達は辿り着き全てを見下ろしていた。

 窓から見える小さな宝石箱など目ではなく、視界いっぱいに広がる様々な光の大海に、彼女は息を呑んでぽつりと感想を漏らした。だが……まだだ。


「感動するにはまだ早いぞ」

「え……?」


 本当は観覧車の頂上で見る予定だったのだが、彼女にはこの特等席が相応しい。


「とっておきの花束をプレゼントしてやる」

「花束……?」


 不思議そうにキョロキョロと花を探す彼女を微笑ましく思いながらも、そうではないと首を振る。

 夏の暖かい風に吹かれながら、俺は「見てみろ」と正面を指差した。

 そう、今は夏。朝顔のように朝しか咲かない花があるように――


 夏には、夜にしか咲かない花もあるのだ。

 

 観客の楽しそうな声やパレードの音楽に紛れ、その音は聞こえてくる。いいタイミングだ。

 それは笛のような甲高い音。発生源は地上で、ここから少し離れたところから上がってきている。

 目の前に広がる夜の帳を白線が両断し、その数瞬の後に沈黙を破るのは――


「わ、ぁ――」


 下から見上げるだけでは、窓から覗くだけでは決して味わえない迫力のある、胸の奥底を揺らす低い大音量。

 そして眼下の光の渦にも負けぬ、視界を埋め尽くす色彩と煌めきの暴力。その芸術的な閃光の名は――


「花火!」


 その紅い瞳に色とりどりの輝きを映しながら、彼女は夢中になったようにその名を口にする。

 普通ならば見上げる花火を、俺達は上から見下ろしその風情を楽しんでいる。これが許されるのは、俺達が普通ではないからだ。

 そのすぐ近くの輝きに圧倒され、飲まれる彼女の耳に口を近づける。


「どうだ、普通じゃないということも、存外悪いことばかりではないだろう?」

「――っ。ふふっ」


 くすぐったそうに笑う彼女の顔を見て安堵する。どうやらお気に召したようだ。

 そう、悪くない。

 そもそも、彼女が普通の生活を送っていたら。彼女が普通の吸血鬼だったら。彼女の母が普通の者だったら……何かが一つでも違っていたのならば、俺達はこうして出会うこともなかっただろう。

 ならば、普通でないということも、そう悪くはないのだ。俺はそう信じる。


「俺はこの運命に感謝する」

「……私もよ」


 コツンと、おでこを合わせて互いの熱を交わし合う。その存在を確認し合うように。


「ジン……」


 目を瞑ったまま、彼女は俺の名を優しく呼ぶ。


「……いなくなったりしないでね。ずっと……私と一緒にいて」

「……それは、オーダーか?」


 聞くと、彼女は「いいえ」と首を横に振る。

 そして正面から俺を見る。その瞳には恋情と、愛しさと、そして信頼の光があった。


「約束」

「――心得た。この無双の戦鬼の力、お前に預ける。お前が道を進む時も、迷う時も、俺はその隣に寄り添い障害を切り裂く刃となる。必ずだ」

「……嬉しい」


 永遠の約束を交わし、微笑みながら頬を寄せあった。

 そうして、しばしその空気に浸りながら、俺達は花火の光に見入る。


「綺麗ね……」

「あぁ」


 パレードを締めくくる花火は、時が経つにつれその激しさを増していく……が、それよりも俺は、腕の中で咲く笑顔の方に気を取られていた。


「? なぁに?」

「こちらの花も綺麗だと思ってな」

「……ふふ、聞こえないわ」


 彼女は俺の視線に気付き問い掛けるも、こちらの答えは花火の音で聞こえなかったようだ。花火が近すぎるというのも考え物だな。

 その耳に答えを聞かせればどんな表情を見せてくれるだろうか。そう思い、ちょいちょいと手招きする彼女を抱き直し、俺は無防備に顔を近づけた。


 ――それこそが、彼女の仕掛ける罠だとも知らずに。


「隙だらけよ、戦鬼さん?」

「っ」


 一際大きな花火が上がったと同時に、


「んっ」


 彼女は悪戯っぽくそう呟き、こちらの唇を塞いだ。

 こちらの首に腕を絡ませ、花火に負けないほど頬を赤く染めた彼女は、まんまと罠にかかった戦鬼をその柔らかい唇で絡めとる。


 世界一、いじらしい罠だった。


「んっ、ちゅ……ちゅっ」


 熱く甘い吐息を漏らしながら、何度も唇を触れ合わせる彼女に、両手が塞がった俺は為す術もない。片足で尖塔に立つため動くこともできず、彼女の柔らかい唇の感触と、背中から伝わるドクンドクンと脈打つ鼓動をその腕に感じるのみだ。


「んうぅっ、んっ……はぁ……はぁ……」


 唇が離れる。

 荒く息をつきながらも、彼女はどこか得意げに笑ってみせた。だがその頬はリンゴのように真っ赤で、彼女の本心を雄弁に語っている。


「ふふ、やられっぱなしな私じゃないのよ?」

「……そのようだな」


 完全にしてやられた。

 身動きが取れないよう拘束し、環境音で音を遮断。そうして気付かれることなく手招きする罠で相手を絡め取る見事な手腕であった。だが――


「だが、動けないのはお前も同じだ」

「……あ、う」


 彼女はいまだ俺の腕の中でしっかりと固定されている。


「そして俺はやられっぱなしは好かん」

「ん、はぁ……じゃあ、どう、するの……?」


 彼女の頬に自分の頬を擦り合わせると、彼女も切なそうな息を吐きながら甘えるように頬を動かす。触れる頬は柔らかく、同時に太陽のように熱い。


「決まっているだろう」

「……ん」


 頬を離すと、彼女は待ちわびるように愛らしく瞳を閉じてみせる。

 ……だが、この無双の戦鬼を罠に嵌めた罪は重いぞ。


「あっ、ちょっと……こらぁ」


 彼女が望む唇には触れず、俺は頭や髪、おでこ、耳へと順に唇を滑らしていく。

 望む結果を得られなかった彼女は不満げに口を動かすが、唇が肌に触れるたびにその吐息はますます熱くなっていく。


「もうデートも締めくくりだ。『デートが終わったら、いっぱいしていい』と言っていただろう?」

「そう、だけど……! ぁ、やんっ、耳ぃ……」


 ならばその言葉、ここで果たすまでだ。

 俺はわざと彼女の唇を避けつつ、焦らすようにその範囲を徐々に狭めていく。うなじ、首筋、顎、頬、目元……


「あっ、あっ――」


 彼女も俺の意地悪に気付いたのだろう。だが、その範囲が一点に集中していくにつれ、期待するような声を上げる。

 そうして彼女にキスしていない部分などないほどキスの雨を降らし、最後に彼女が期待する一部分となったところで――


「え……?」


 ピタリ、と止める。


「ちょ、ちょっとぉ……!」


 いよいよ、というところでお預けを食らった彼女は真っ赤な顔を呆然とさせる。

 そして彼女は泣きそうに眉を歪め、こちらを非難した。


「い、意地悪しないで。まだ、一つ残ってるじゃないばかぁ……」


 普段のツンとした態度もどこへ行ったのか。彼女は素直にキスをねだる。そんな可愛い態度を取られると……たまらなくなる。この時点で俺の理性は、既に焼ききれる寸前だった。


「いいや、二つだな」

「え……?」


 身動きの取れない俺が今、他に口付けできる部分。


「唇の他にも、あるだろう? その奥に」

「え、あっ――」


 解答に至った彼女は声を上げた途端、夕日も恥じるほど真っ赤に染まる。


「で、でも――」

「怖いか?」


 あわあわとする彼女を真っ直ぐに見ながら問い掛ける。無論、怖いだろう。彼女が嫌がるのならば、ここまでとするつもりだ。


「はぁ……ん、はっ……はっ……」


 だが、散々お預けをされた彼女の瞳は熱に潤み、口の端からは甘い吐息が断続的に漏れている。その視線は、こちらの唇に痛いほど注がれていた。


「言ってくれないと、わからんぞ」

「あ、あ――」


 離れていく唇に、切なそうな声を上げる。


「ま、まって……」

「ん?」


 聞き返すと、彼女は羞恥に悶えながらも小さな声で呟き――


「…………いい」


 とろとろに蕩けた表情で、顎を上げた。


「――して」


 可憐な花びらのような唇を、小さく開きながら。


「ん、んぅ! ふぅんんん――!?」


 唐突に零になった距離に混乱しつつも、彼女が逃げることはない。むしろ積極的に唇を押しつけてくる。

 夢中、という言葉が相応しい彼女の様子に、こちらも負けじと唇を押しつける。ギュッと強く抱き締め、その熱を余すことの無いよう包み込んだ。

 酸素を吸うことももどかしく、夢中になって互いの存在を感じ合う。唇が触れ合うたび、頬が触れ合うたびに、際限なく愛情が胸から溢れてくる。互いの吐息が混じり合い、どちらのものなのかすらもはや分からない。

 重ねるたびにどんどん吐息が熱くなり、互いの存在を貪り合う。そして――


「ちゅ、れろ、んんぅ……」


 どちらからだったか唇を舐め始め、すぐに互いに舌を絡め合う。水音と熱い喘ぎが口の端から漏れ、彼女は恥じらいからかより強く、誤魔化すように密着してきた。

 こちらが彼女のちっちゃな舌をつつくと、おっかなびっくりといった様子で懸命に舌を伸ばして応えてくれる。


「んっ、んー……!」


 不慣れでも一生懸命なその様子に愛しさが膨れ上がり、かき抱くようにして身体を抱き締めた。その唾液すら甘く感じ、嚥下するたびに脳髄が痺れていく。


「ん、ちゅる……ふぅ、んんんぅ」


 お返しにとこちらの唾液を送り込むと、彼女は目をギュッと瞑りながらも身体をビクビクとさせて喉を動かしていく。その白い喉がコクコクと動くたびに、彼女の身体は熱く、熱く熟れていった。


「ふー……ふー……あぁ、すきぃ、だいすきぃ……ちゅ♪」


 そうして酸素不足で頭がクラクラするまで、夢中で互いの唇と舌を吸い合い……


「れる、んっんっ……ぷはっ。はー……♡ はー……♡」


 唇を離す頃には静寂が夜を包み込んでいた。夢中になりすぎて、花火が終わっていたことにすら気付かなかった。


「あ、あぅ……」


 互いを繋ぐ銀の橋がプツンと切れる。

 荒い息を吐きながら、くたっとした様子で表情をどろどろに甘く蕩けさせていた彼女だが、我に返ったのか、隠すようにして顔をこちらの胸に押しつけてきた。その耳の先はこちらが心配になるほど真っ赤だ。


「み、見ちゃだめぇ……わ、私……絶対えっちな顔してる……」


 胸の中で、涙声でそう囁いてくる。

 ……正直、とても見たい。その潤んだ瞳も、甘い吐息すらもすべて俺の物にしたい。

 だが、今日はこれまでだな。俺ももはや我慢の限界だ。これ以上彼女の可愛い仕草を見ていると、俺の中の鬼が完全に目覚めてしまう。今この瞬間、両腕が塞がっていて本当によかったと思う。

 未練を断ち切るようにして顔を上げる。遊園地のイルミネーションも、ところどころ消えていっている。夢の時間も終わりだ。


「……帰るか」

「っ」


 コクンと胸の中で頷く彼女の頭を撫でる。

 もう少しだけ甘い余韻に浸り、名残惜しくも足に力を込めた。

 そうして熱くなった身体を冷ますためにも、俺は屋敷の方角めがけて夜の帳に身を躍らせるのだった。

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