第二章


いつすいの夢』というせい通りの一日を終えたあと、まつは日常に戻った。

 いつも通り、着飾ったきさきたちの視界に入らないよう気をつけながら、によかんの仕事を終わらせていく。

(あ……、っと)

 向かい側から歩いてきた宮女たちが、女官の服を着ている茉莉花の姿を見かけたたん、道をゆずって頭を下げてきた。申し訳なくて、せめてと早足で通りすぎる。

「……わたしも、この間までは宮女側だったのに」

 宮女のときに仲がよかったどうりようとは、女官になってから話せていない。いや、一度だけ話しかけたのだ。でももう立場が違うでしょうと冷たくはなされ、それきりになっている。それでもと話しかけにいく勇気は、茉莉花にはなかった。

(女官と宮女か。……元々、仲はよくなかったものね)

 この二つの職は、同じこうきゆうで働く者同士であっても、仕事内容がまったく違う。

 たとえば料理。女官がこんだてを決めたあと、実際に材料を用意してつくり、片付けをするのは宮女の仕事。ただし、盛りつけとはいぜんは女官がやる。

 たとえばびんける花。女官が後宮に咲くこの花を用意しろと宮女にめいじ、宮女がつんできて準備をする。花を生けるところは女官の仕事で、後始末はすべて宮女が行う。

 宮女から見た女官は、おいしいところだけの楽な仕事をしているおじようさまで、女官から見た宮女は準備と後片付けしかできない下働きだ。

 だからこそ、茉莉花が宮女から女官にしようかくすると決まったとき、後宮はちょっとしたさわぎになった。有能だとしてもしよみんの子でしょうという反応を女官は見せ、宮女はなんであの子だけという反感を隠さなかったのだ。

「これでようやくひときゆうけい……」

 茉莉花は自分の部屋に戻り、しんだいに座りこむ。

 女官はおいしいところだけの楽な仕事、とはいってもしただ。毎日が忙しい。

 一人になれるこの休憩時間に読書をすることだけが、ささやかな楽しみだった。

「そういえば、しよちゆうように入ったわね」

 四書と呼ばれる『論語』『だいがく』『中庸』『もう』は、十歳に満たない幼い男子の教養の一つ。人としての大事な心得を簡潔にまとめてあるので、宮女に必要な最低限の読み書きしかできない茉莉花でも読むことができた。

 四書を読むと、なるほどなぁと感心するばかりである。しかし、この教え通りに生きていくのはなかなか難しい。

「茉莉花~、ねぇ、去年しまった茶器の場所なんだけど……」

 部屋の外からせんぱい女官に呼ばれ、あわてて立ち上がる。

 中庸をこうにしまい、すぐ行きますと小走りで部屋を出た。

「ごめんね、休憩中に。でも今のうちに用意しておかないと、女官長がうるさくて」

だいじようです。しようなおしがちょうど終わったところでしたから」

 物覚えのいい茉莉花は、女官の間でちようほうがられている。

 片付けをするときに茉莉花を連れていき、どこになにをしまったのかを覚えさせてしまえば、あとで取り出すときに『ここです』と迷わず指し示してくれるからだ。

 特に美人というわけでもなく、人望があるわけでもなく、身分があるわけでもなく、金をもっているわけでもない茉莉花がいじめにあわないのは、この特技があるおかげだ。

 特技を上手く使って余裕をつくっておけば、女官同士の会話や表情からばつあらそいを見定め、それに巻きこまれないようしんちような行動と発言を心がけることができる。

「今度のうたげには陛下もいらっしゃるって話よ。昔は陛下を拝見できるかもって嬉しかったけれど、今は準備が大変になるってうんざりしちゃう」

「おきさきさま方が張りきりそうですね」

「そうそう、また仕事が増える……って、え!? 茉莉花、急いで!」

 一歩先を歩いていた先輩女官が、茉莉花に声をかけて走り出す。

 なんだろうとついて行けば、後宮の真ん中を通るろうに、いくにんかの妃とじよたちの姿が見え、そのうしろには女官が並んでいた。

(もしかして、陛下のお渡り……!?)

 こんな夕方に、はくようさきれもなく後宮にきたことは一度もない。

 けれど、皆の並び方からそうとしか思えなくて、茉莉花も先輩女官と共に庭となる一番うしろに並び、ひざをついて頭を深く下げた。

 立ったまま頭を下げるという礼で許されるのは、こうごうという特別な妃だけだ。

 他は珀陽が許可を出すか、それとも通りすぎて珀陽の視界に入らなくなってからしか立ち上がってはいけない。

(こういうこともあるんだ……。陛下は後宮ぎらいかもってうわさがあるぐらいなのに)

 珀陽は、後宮の宴に顔を出してくれるし、ときどき妃のところへお渡りになることもあるけれど、それは義理を果たすというものに近いらしい。

 とはいっても、茉莉花は新参者の女官で、先代皇帝というかく対象を知らなかった。実際のところはどうなのか、よくわからない。

(三日ぶりの陛下……。お見合い練習のときは、信じられないぐらい近いところで話ができたけれど、やっぱりわたしは今のように、陛下と視線も合わない名もなき役がいい)

 足音が近づいてくると、足音のぬしが珀陽だとわかる。早く気づいてよかったというほっとした声が近くから聞こえた。今回は珀陽からの先触れがなかったので、出迎えに間に合わなかった妃もいたようだ。いつもより廊下に並ぶ人がとても少ない。

 茉莉花も居合わせてよかったとひやひやしていると、珀陽の足が止まった。


「……あれ? 茉莉花ちゃんだ」


 ふいにかけられた声に、すぐ反応できなかった。

 自分は新参者の女官で、皇帝からこんな気軽に言葉をかけてもらえるような立場ではない。茉莉花という名の他の妃がいる、もしくは知らないだけで茉莉花とあいしようがつけられた妃がいるのだろうと判断するしかなかった。

 妃やその侍女たちが、茉莉花って誰なのとざわめいているけれど、茉莉花は自分のことではないと決めてだまっておく。

「ああ、おもてを上げていいよ。元気そうでなにより」

 ──なぜだろうか。珀陽から、とても見られている気がする。

 茉莉花は血の気が引くのがわかった。もしかして、茉莉花と名指しされたのは、自分だったのだろうか。

「道をけてもらえるかな?」

 珀陽の命令に逆らえる者はいない。

 妃と侍女と女官は、珀陽の視線と言葉だけで求められているものをさつし、頭を下げたまま道を譲る。

 珀陽は廊下から庭に降り、地面にひざをついている自分のところまできてしまった。

 見られている、そして、眼の前に立たれている。

 それでも珀陽に声をかけられた相手は自分ではないと主張したい。

(陛下の視線も痛いけれど、なによりもみんなの視線が……!!)


 どういうことだと、ここにいる全員が茉莉花をにらんでいる。

 違いますとさけびたいけれど、皇帝の眼の前で勝手にくちを開くわけにはいかない。

「茉莉花ちゃん、はい、お土産みやげ。くるみ入りのげつぺい茉莉花ジヤスミンちや

 珀陽が呼んだ『茉莉花』は自分だと、茉莉花もいよいよ認めなければならなかった。

 くるみ入りの月餅と茉莉花茶は、この間の見合い練習の際、茶屋で出されておきながら手をつけることができなかったものである。

(この場でなかったら、ありがとうございますと言えたのに……!)

 ただの女官である自分は、珀陽から土産をあげると言われても、はいそうですかと受け取るわけにはいかない。

 血の気が引きすぎて真っ白になった手をぎゅっと握りしめ、どうしたらいいのかを必死に考える。早く、ひとちがいだったと宣言してほしい。もしくは気が変わってほしい。

 こんなことで、せっかく得た女官という職を失いたくはない──……!

「──陛下、茉莉花は女官です。女官長を通さずに贈りものを渡そうとしたら、茉莉花を困らせるだけですわ」

 無理を通そうとしていた珀陽をやんわりといさめてくれたのは、とくだ。

 立派なうしだてをもつ上に美しくてかしこい徳妃は、珀陽のちようあいを受けるにふさわしいと言われている。彼女のおかげで、茉莉花は止めていた呼吸をようやく再開できた。

「でも女官長を通したら、女官長にこんなものをとしかられてしまいそうなお土産だよ」

「それでもです。どうか茉莉花のためを思ってくださいませ」

 徳妃に叱られたことで、珀陽はようやく引き下がることにしてくれたらしい。庭から廊下に戻り、徳妃の宮へ行くことを宣言した。

 徳妃は満足そうにうなずき、珀陽のうしろを静かについていく。そのあとを徳妃の侍女たちもぞろぞろとついていった。

 茉莉花がそっと視線だけ動かすと、徳妃本人から一度だけちらりと視線を投げかけられる。そして徳妃の侍女たちには、するどでにらみつけられていた。

(こ、こわい……! でも助かった! あとで徳妃さまにお礼を申し上げなければ……!)

 あんで力が抜けてしまい、すぐ立ち上がれない。

 けれどほっとしたのもつかの間、周囲の視線を集めていることを思い出し、茉莉花はこおりつく。

「……茉莉花?」

 先輩女官に呼ばれて、おそるおそる顔を上げた。周囲のすような視線が痛い。

「さっき、陛下が貴女あなたの名を呼んで……」

 ただの女官がどうしてあんなに親しく名前を呼ばれたのか。

 いつどこで知り合ったのか。なぜ仲よくなったのか。

 ここにいるみんなが、珀陽との関係をきたいのだろう。それはわかっている。

(でも、女官長にはお見合い練習の代理のことはせておくようにと言われていて……!)

 黙っていれば、じれたように妃の一人が近よってきた。

「貴女、陛下とどういう関係なの?」

らんさま……!」

 高貴なる位をもつ妃は、女官と直接話すことはない。

 侍女がとがめるために慌てた声を上げたが、蘭妃はにらみつけることで黙らせた。

「ただの女官が、どうやって陛下の気をひいたのかはわからないけれど、ほどを知りなさい」

 その通りですと茉莉花はひれした。

 反論することなんてできない。茉莉花は皇帝に声をかけてもらえるような立場ではない。これはただの事実だ。

「申し訳ありません……!」

 後宮に入る者なら、誰だって夢を見る。

 皇帝にめられ、皆の前で名を呼ばれ、自分は特別だと示される日のことを。

 けれど現実に起きてしまえば、物語の中だからときめけたのだと実感させられる。

 現実は周囲に謝罪の言葉しか出せない。それがどれだけじんであったとしても。

「茉莉花、女官長がお呼びです。今すぐきなさい」

 びやつしんじゆうの助けの声かと思ったが、冷静になれば妃たちよりも大変な相手かもしれない。茉莉花は運命を受け入れることしかできなかった。



 女官長の部屋にしんみような顔で入れば、おこっているのかどうかのきわどい表情でじろりとにらまれた。先ほどのそうどうを知って呼び出したに違いない。

「皇帝陛下から、貴女へのひんを預かりました」

 女官長が、すいや貝をちりばめている高価なぼんへ、茶屋で買ってきてそのままという安っぽい包みをせ、机の上に置く。

(……一応、陛下はすじを通してくださったのね)

 これは下賜品と呼べるようなものではないはずだ。中身は本人のしんこく通り、お茶と月餅だろう。三日前、互いに食べそびれてしまったことを気にして、わざわざ買ってきてくれたのかもしれない。とてもりちで優しい方だ。

(陛下がただの武官か文官であれば、わたしもあこがれるだけで終わるような初恋を楽しめたかもしれないのに……!)

 さいなことをきちんと覚えてくれるてきな方だと、何度も胸を高鳴らせただろう。

 けれど、相手は皇帝である。ときめく以前におそおおくて、関わらないでくださいという気持ちでいっぱいだ。

「茉莉花、陛下とどこで知り合ったのか、説明をしなさい」

 この質問に答えなければならないことはわかっていた。茉莉花は女官長へひとばらいをしてほしいと遠回しにたのむ。

「……この間、女官長さまの頼まれごとで、街に降りたときのことです」

 見合いの練習相手の代理を務めたときに出会ったのだと示せば、待ちなさいとさえぎられた。

「皆、外に出ていなさい」

 ないみつの話になると察した女官長は、他の女官を遠ざけ、すぐに二人きりにしてくれる。

 茉莉花はここまできたら洗いざらい話すしかないとかくを決めた。

「お見合いの場に来たのは、れいてんさまではなくて、代理としていらした陛下で……」

 茉莉花も珀陽も、練習相手が代理だとすぐ気づいたこと。

 だましたことを謝罪したら、珀陽が事を収めてくれると約束してくれたこと。

 その後、ひったくりをもくげきし、犯人たいに協力したほうとして『四書』を頂いたこと。

 茉莉花はすべてを明らかにし、女官長の判断を待った。

「……では、四書は黎天河さまから頂いたのではなく、陛下から頂いたのですか?」

「はい。陛下が、黎天河さまなら犯人逮捕の協力の礼をするとおっしゃって……」

「あくまでも四書は黎天河さま名義の褒美であったと、そういうことですね。……わかりました、そうしておきましょう」

 ここで、珀陽からもらったのなら珀陽名義の褒美だという話になればとてもめんどうだ。女官長もその辺りのことをわかってくれたらしい。

「それにしても、四書ですか。いえ、この話は終わりにします」

 女官長はごほんとせきばらいしたが、言いたいことは理解できた。

 四書は、女性への贈りものとしていつぱんてきではない。つうならかんざしきぬ、化粧道具を選ぶ。

 今回の下賜品も、下賜品というには、月餅と茶葉であまりにも安っぽい。気軽にもってきた手土産としか思えない。

「陛下とは、ずいぶんと親しくなったようですね」

 気をつかった贈りものではなく、気安さを感じさせる贈りもの。

 しかしこれは決して親しさからではないと、茉莉花は慌てて首を横に振った。

「茶屋で、陛下がすすめてくださったお茶と月餅に手をつける前に、ひったくりの事件が起きたものですから……。そのあとは店を出てしまいましたし……」

 特別意味のあるものではない。あの方なら自分だけでなく、他の人にも同じことをする。

 そのとき共にいたのがぐうぜん茉莉花だった。妃や侍女たちが騒ぐようなことではない。

「それでも、陛下からの下賜品となれば、あなたも周囲の眼が気になるでしょう。犯人逮捕に協力したあなたへの褒美は、とある武官から頼まれて陛下がもちこまれたということにします。……陛下から頂いたという事実は、あなたの心に秘めておきなさい」

「はい」

 これでこの一件は無事に終わる。皇帝の寵愛を受ける女官なんてものは、物語の中だけに存在する方が、誰にとってもいい。

「陛下は犯人逮捕に協力した女官をたたえただけです。みような誤解をせず、日々はげみなさい」

「妙な誤解……?」

 最初からそういうことだと茉莉花はわかっている。

 どこにどんな誤解のしどころがあったのだろうかと、不思議に思ってしまった。

「貴女のそういうけんきよなところは、これからも大事にしてほしいとくの一つですね」

 女官長がため息まじりに言う。単純にめられたというふんでもないので、茉莉花は小さくそうしますと返事をするだけにした。

「私は貴女の能力を評価し、女官へすいせんしました。貴女にはもっとやる気を出してもらい、若い女官たちをまとめてほしいのですが……」

「もったいないお言葉ですが、わたしの力ではぶんそうおうなことでございます」

 平民出身の自分に、なにができるというのか。妙な期待をされたら困るので、やわらかい口調と言葉で無理ですと告げておく。

「……まあいいでしょう。その話も追々。貴女は仕事に戻って……」

 女官長からついにお許しの言葉が出かけたのだが、部屋の外からの声に遮られてしまう。

「女官長さま、徳妃さまからの伝言です。陛下は徳妃さまの宮にいらっしゃるのですが、話し相手として女官の茉莉花を連れてきてほしいとのことです」

 伝言を預かってきた女官は慌てていたのだろう。女官長の許可をもらう前に、用件を話してしまった。

(……これはどういうことなのかしら。陛下は気遣いができる方だと思っていたのに。ここまでしたら、わたしがあとで困ることをわかっているはず)

 もしかして、目的があってわざと事を大きくしているのだろうか。

 珀陽がなにを考えているのか、よくわからない。

「わかりました。私も参ります。茉莉花、貴女が話す必要はありません。黙っていなさい」

 茉莉花は女官長のあとについて廊下を急いで歩く。様子をうかがう侍女や女官の視線を、どこからも感じた。

 今ごろ、想像を追加した『真実』があちこちでろうされているのだろう。いたらちょっと便利という立ち位置をせっかく確保したのに、また一からやり直しだ。

こう茉莉花を連れて参りました。徳妃さまへのお取り次ぎをお願いします」

 女官長は後宮の責任者で、せいほんという位の立派なかんだ。妃ともゆいいつ対等に話せ、皇帝と言葉をわすこともできる。珀陽からのしんらいも厚い女官長には、妃であっても表向きは逆らわないようにしていた。

「徳妃さまがお待ちです。こちらへ」

 侍女が宮の中へ招いてくれたので、茉莉花たちは中に入る。

 奥の間にいた徳妃は、お気に入りの侍女に珀陽の相手を任せてから、茉莉花たちの前に現れた。

 茉莉花は女官長と共に膝をつき、頭を下げ、声をかけられるのを待つ。

「面を上げなさい」

 徳妃は妃の中でも、特に賢い人だ。女官たちと敵対することが多い他の妃と違い、いつもとても友好的に接してくれていた。珀陽をろうらくするためには、女官たちの協力が必要なことを言われなくても理解しているのだ。

「徳妃さまには、ごげんうるわしく……」

 女官長はていねいあいさつを始めた。

 徳妃はゆう微笑ほほえんだあと、貴女と私の仲ではありませんかとその挨拶をさえぎる。

「女官長も元気そうでなによりです。……さつそくですが、女官の晧茉莉花についてですわ」

「それについては私から説明いたします」

 女官長の重々しい声に、徳妃はくすくすと笑った。

「事情は陛下から聞き、存じております。陛下が街中で犯罪を目撃したとき、近くにいた茉莉花が犯人逮捕にこうけんしたそうですね。居合わせた陛下が、茶屋で注文していたお茶と月餅を放り出して対応してくれた茉莉花のことを、気にかけたようですわ」

 珀陽は、見合いの辺りの事情を伏せて上手く徳妃へ話してくれたらしい。

(陛下は、わたしのような身分の低い者でも、はいりよをしてくださる。……なんでさっきはわざわざ後宮内を引っかき回すようなことをしたんだろう……?)

 ぼんやりしていると、女官長がその通りでございますと深々と頭を下げたので、慌ててならった。

「陛下が茉莉花へねぎらいの言葉をさずけたいとのことです」

「……さようでございますか。しかし茉莉花はまだ女官として至らぬ身でございます」

「陛下がにとおっしゃっています。ああ見えて、陛下はがんな方なので、じようしないと大変なことになりますわ」

 困った方ね、と徳妃は言いながらも、陛下のことをよく知っているのは自分だという主張を混ぜてきた。そういうことは宴のときに、他の妃相手にやってほしい。

「しかたありませんね。……茉莉花、陛下のご意向です。失礼のないよう、お言葉を頂いたらすぐに下がりなさい」

「──はい」

 女官長から断ってほしかったが、女官長が珀陽側についたらあきらめるしかない。

 覚悟を決めて奥の部屋に向かう。

「……失礼します」

 茉莉花が声をかけると、珀陽の「下がっていいよ」の声のあと、徳妃の侍女が出てくる。にらまれたのは気のせいではなくて、げんなりしてしまった。

「晧茉莉花でございます」

 奥の部屋に入るなり、両膝をつき、左手のこぶしを右手で包み、ゆっくりとおをするという最敬礼を見せる。

 あとは珀陽が声をかけてくるのを待ち、話が終わればさっと立ち上がり、向きを変えずにきようしゆをしたまま下がって終わりだ。

「茉莉花ちゃん、そんなにんぎようにされると悲しいな。私たちはお見合いをした仲だろう? さ、顔を上げて立ち上がって、こっちのに座って」

 見合いといっても、ただの練習で、おまけに代理同士。つまり自分たちの関係は他人である。他人行儀で正しいはずだ。

「陛下、わたしはここで……」

「お見合いのときのように、珀陽でいいよ」

「お願いですから、わたしを困らせないでください……!」

 女官である自分が皇帝にお願いをするなんてとんでもないことだ。

 でも言わなければわからないだろうと、不興を買うことを覚悟しての言葉だったのだが、珀陽はまあまあととなりの椅子に無理やり座らせてきた。

「なら譲歩して、二人っきりのときだけは困らせてもいいってことにしようか」

 ごくまっとうなことを茉莉花は頼んだのに、なぜか珀陽は譲歩したと言い出す。わたしが正しいのに……! と心の中で叫ぶしかない。

「後宮って面倒なしきたりが多いね。茉莉花と話したくて渡ったのに、一度どこかの妃の宮に行って、そこに呼び出すって形にすべきだって徳妃に叱られたよ。本当は女官と直接話すのもって言われたけれど、面倒だから最後は皇帝命令で押し通した」

「……ねぎらいのお言葉でしたら、女官長さまへ伝えていただけたら、わたしまで届きます……!」

「そんなのは口実。私は茉莉花ちゃんと世間話がしたかったんだ」

 めまいすら感じた。正直なところ、珀陽とはもう関わり合いたくない。

 向こうは『憧れだったお見合いにつきあってくれた相手(代理)』という物珍しいにんしきをしているのかもしれないが、自分にとって珀陽は『皇帝』という認識のままだ。

「さっき老人会が旅行計画を立てたって押しかけてきて、あまりにもやかましかったんだ。疲れた私は、おとなしい茉莉花ちゃんに会ってやされたくて」

 本当にただの世間話が始まってしまった。老人会ってなんだと思ったが、言ったら会話がはずみそうなので、黙ってはいちようする。

「ああ、老人会っていうのは、武官の中でも年長組のことで、禁軍将軍とか副将軍とか、その辺り。もとどうりようである私のじん耀ようが回復する前に、見舞いへ行かせてくれって」

 茉莉花の心の中を読んだのか、珀陽が解説をはさみこんでくれる。

「でも実際は、仁耀の見舞いにかこつけて温泉旅行をしたいだけなんだよ。計画書がこつすぎてさ。ずるくない? 私だって温泉へ行きたいのに」

「……陛下も、ろ、老人会……? に、ご同行なさっては?」

 本当に老人会とくちにしていいのか迷い、茉莉花は申し訳ありませんと心の中で謝罪をしてからあたりさわりのない返事をする。

「くちが達者な老人に囲まれた温泉なんてぞっとする。それに皇帝の行幸ともなればいつだんけいをつけないといけないから、武官たちにも文官たちにもめいわくをかける。私はどうしても外に出なければならない用事に合わせて温泉と見舞いに行くしかないんだ」

 珀陽は自身の行動によるえいきようを自覚している。不用意なわがままは言えないと、おのれりつしている。すごい方だなと改めて感心してしまった。

「あ、そうだ。私が贈った四書、読んでくれた?」

「……黎天河さまが贈ってくださった四書は、中庸のちゆうまで読みました」

「え? まだ読み終わってない?」

 信じられないという顔の珀陽に、茉莉花は頷く。

「申し訳ございません。自由になる時間があまりないので……」

「そっか」

 どこも若い子は大変なんだねとすぐになつとくしてもらえた。珀陽もまだ十八歳という若い人間なので、こんな風に人生経験を豊富に積んだ老人のようなことを言われると、なんだかおかしくてつい笑ってしまいそうになる。

「読んだ感想は?」

「ためになるお話で、勉強になります」

「あの話、全部できたらせんにんになれるよねぇ。私は半分も無理」

 あっけらかんと言い放たれ、茉莉花はそう思いますと言いそうになったが堪えた。そこまで気さくに話してもいい相手ではない。

「そうだ、読んだところまででいいから、あんしようしてみて」

「どの話ですか?」

「『どの話』なんだ。……わ、すごいな。じゃあ最初から」

 珀陽が最初からと望むのなら、そうするまでだ。

 茉莉花は最初の一文を思い出し、なめらかな朗読とまではいかないけれど、それでも一定の調子で、じんの教えを声に出していく。

 一巻分を暗唱し終えたところで、珀陽はきたのだろう。もういいよと終わりになった。

「四書はかえし読みながら進めているのかな?」

「いえ、一度だけです」

「そうなんだ。……一度で、これか」

 珀陽が、あまいのに押しが強いという独特の視線でじっと見てくる。

 これはろくでもないことを考えている顔なのではと、経験から察することができた。

 かつては正面から見てみたいと願ったうるわしい顔のはずなのに、今となってはその裏を読み取れるぐらいになってしまっている。どこでどう道をちがえたのだろうか。

「この間、茉莉花ちゃんの協力で逮捕できたあの男、ざいがたくさんあったらしい。うちの文官と武官がやっとしっぽを?つかんだって喜んでいた」

「……それは、よかったです」

「後日、改めてお礼を言うことになりそうだよ。どちらも後宮に入れないから、茉莉花ちゃんを月の宮まで呼び出すことになるかもしれない。そのときはよろしく」

「ええっと、女官長さまを通していただけたら……」

 本当にその話がきたら、当然のことをしたまでで、褒められるようなことではありません、という建前を使い、断ってしまおう。目立たないよう気をつけなければならない。

「今度は四書を全部読んでおいて。後半部分の話もしよう」

「努力します……」

 二度と珀陽と関わる気のない茉莉花の気配を察したのか、珀陽は「ふぅん?」とくちのを上げる。思わず腰が引けたら、押しの強いあの微笑みを向けてきて、一言。

「できるよね?」

 を上げることで断定形にしていないが、圧力を感じさせてくる。顔がれいなせいもあるのだろう、とにかくはくりよくがすごい。

「ど、努力します……」

 先ほどよりもう少しだけ、茉莉花は気合をこめた返事をした。




 茉莉花はもっと話したそうな珀陽の雰囲気を無視し、仕事があると言って退出した。

 それでも褒める言葉をもらうだけにしては『長々』だったようで、徳妃から探るような視線を頂いてしまう。

(世間話をしただけですよ、と本当のことを言ったら、逆にあおることになりそう)

 ただそれだけのことだけれど、珀陽との世間話なんて、妃でも難しい。

 ではこれでと仕事に戻ろうとしたのだが、女官長から待ちなさいと引き留められた。

 説教の気配を感じ、げんなりしながら女官長の部屋に行くと、人払いで二人きりにされてしまう。

「今後の後宮について、貴女に話しておくことがあります」

 女官長から重々しく伝えられる。茉莉花は神妙な顔で頷いておいた。

「皇帝陛下のことです」

 二度と関わりたくない相手だが、自分たち女官は、皇帝とその妃につかえる身だ。そっとしておいてほしいなんてわがままは言えない。

「もし陛下から特別なしがあれば、断ることはせず、従いなさい」

「御召し、ですか?」

 それは先ほど珀陽が言っていた、ひったくり犯逮捕に関するお礼の件だろうか。

 頼みのつなである女官長が断るなというのなら、従わなければならない。

 困ったなぁ……と思っていると、わかっていないようですねとため息をつかれた。

「若い貴女の耳には、まだ届いていないようですね。女官のくちのかたさを証明できたことは、喜ばしいことです」

 小さく頷いた女官長は、秘密の話ですと前置きした。

「先の皇帝陛下とお比べになって、当代の皇帝陛下は、後宮へお渡りになる回数がとても少ない。おまけに、妃のじよれつを乱すことのないよう、順番通りに回っています。これでは後宮の妃に興味がないと示しているようなものです」

 最近後宮入りした茉莉花は、どれぐらいだと『普通』なのかがわからない。それは珀陽が決めたらいいことではと思ってしまう。

「ここから先は、本当にごくこうです。陛下は、妃さまの宮をたずねても、とこりをしていない可能性があります」

「……え?」

 皇帝の仕事の一つに、ぎを残すことがある。後宮があるのはそのためだ。

 なのに、珀陽は綺麗な妃と一晩をすごしても、男女の関係にならないという。

(──それは、さすがに『普通』ではない気がする)

 珀陽がそくしてから、一年半。それまで、本当にどの妃とも深い関係にならなかったのなら問題だ。しかしなぜそれを女官長が……と疑問に思い、すぐにあっと気づいた。

 洗い物の確認は女官の仕事である。茉莉花はまだ珀陽の身の回りのものにれる機会はないが、妃が本当に珀陽の子を身ごもったのかどうかを、女官長たちは記録をつけることで確認できるようにしているはずだ。

「陛下がどのようなお考えをもって床入りをこばむのかはわかりません。妃たちにとってはめいなことのため、陛下がお渡りになった日についての話になるとくちが堅く、我々はくわしい話を聞けておりません」

 珀陽に訊ける者もいないはずだ。女官長たちはこの一年半、どうしようかとずっと悩んでいたに違いない。

 どういう意図があってのことなのか、茉莉花にもさっぱりわからない。でも珀陽ならきまぐれで妃を拒んでいるわけではないはずだ。そのうち、どういう形かはわからないが、珀陽が動いてあっさり解決するような……。

「我々女官は、陛下にお仕えする官吏の一員です。陛下が世継ぎを得られるよう、手助けをしていかなくてはなりません」

 とはいっても……と茉莉花は考える。

 後宮のに見向きもしないのであれば、後宮外にお目当ての女性がいるのかもしれない。それも人妻とか、身分が低すぎるとか、なにかのしようがいがある相手で、後宮に入ることができなくて……。

(やっぱり、わたしたちがあれこれ言える問題ではないような気も……)

 世継ぎ問題は、珀陽だいなのだろう。

「茉莉花、よくお聞きなさい。皇帝陛下が自ら声をおかけになったのは、貴女が初めてです。単純に有能な女官を褒めただけという可能性が高いですが、興味をもたれたのはたしかでしょう。特別な御召しがあれば断らず、万が一にも陛下の手がついて子をはらむようであれば、我々がなんとしても貴女に妃の位を……」

「はい!?」

 今までずっと黙って話を聞いていた茉莉花は、ついに声を上げてしまった。

 妃の位とは、どういうことなのか。そもそも特別な御召しとは、つまりはそういう……。

「ありえません!」

「ええ、ありえません。ですがもしもの話です」

「もしも、もありえません!」

 茉莉花が力いっぱい否定すると、女官長はため息をつく。

「……貴女のその謙虚なところは、とてもらしいですね」

 女官長は、女官長としてもしもに備えなければならないと、強い覚悟をもって茉莉花にせまってきた。

「いいですか。このことを覚えておきなさい。陛下からお声をかけられたときは、断らずに応じなさい。ただ女官として気に入られただけであれば、女官として陛下の身辺を探り、情報を得るのです」

 どちらもかんべんしてほしいという正直な感想は言えなかった。

「……努力します」

 とりあえず、文官や武官からのお褒めの言葉というものは、月の宮へもらいに行かなければならないようだ。



 次の日の昼をすぎたころ、文官と武官からの茉莉花へ礼を言いたいという話が、女官長を経由して届いてしまった。

 女官長は皇帝の身辺を探る好機だと喜んだが、茉莉花は妙な重圧を感じてゆううつになる。やる気なく後宮を出て、案内に従って月の宮を歩いた。

 物珍しさにきょろきょろしたいところだが、はしたないこうだと己をいましめておく。

「こちらです。どうぞ」

 兵士が案内してくれた部屋に入ると、皇帝の珀陽と年若い青年が二人。

 はっとして、慌てて膝をつこうとしたら、あまり年が変わらなさそうな青年に、そのままで大丈夫ですと言われた。

しき以外は、はいれいですませることになっています。陛下が出歩くたびにあちこちのかんの手が止まってしまうと、仕事につかえがあるので」

「……そうなのですか?」

 なんとなくきまりが悪いが、ひざまずくのを省略しろと命じられたらそうするしかない。

「こんにちは、茉莉花ちゃん。許可がないと話せないとか、顔を見ないようにするとか、そういうことはやめよう。ここにいるのは私と私のそつきんだけだから」

 側近という言葉がひっかかり、茉莉花は二人の青年を改めてじっと見つめる。

(お二人とも、きんじきの小物をもってる……!!)


 皇帝だけが使えるむらさきいろ、それが禁色だ。

 しかし例外はある。皇帝に能力を認められた者は、皇帝から禁色の小物をあたえられ、身につけることを許される。出世が約束されたというあかしでもあるため、皆からいちもく置かれた。

「ごあいさつが遅れました。はじめまして、私はほうせいです」

 子星は、十年前のきよ試験でしゆせき合格であるじようげんを得た天才だ。珀陽が即位したその日に禁色を許された話は有名で、将来はさいしようだろうと言われている人である。

(十年前に科挙試験を受けたのなら、今は二十代半ば。十歳近くも若く見えるのはすごいというか……)

 後宮の妃がうらやましがりそうだと感心していると、子星の隣の青年が頭を下げた。

れいてんです」

 茉莉花はあっと言いそうになるのをなんとかこらえた。『黎天河』は、見合い練習の相手の名で、ひったくり犯逮捕の褒美のめいにもなっている人だ。

「晧茉莉花さん、先日はひったくり事件の犯人逮捕への協力をしていただき、本当にありがとうございました」

 子星から改めて礼を言われたので、用意してきた言葉をべる。

「お役に立てたのなら、幸いです」

 これで用件は無事に終わった。てんこうな皇帝に振り回されることもなくなる。

(女官長さまには申し訳ないけれど、皇帝陛下の身辺を探るなんてこと、わたしには荷が重すぎるお役目だから……)

 皇帝のぎ問題については、自分ではなくて別の女官や妃がどうにかするだろう。

 それでは失礼しますと頭を下げようとしたとき、黙ってにこにこしていた珀陽がゆっくりと首をかしげた。

「茉莉花ちゃん、これで終わりって顔をしているけれど、終わりじゃないよ」

「……はい?」

「今からしつの合間のひと休憩につきあってもらうからね。お茶でもいつしよに飲もう」

 皇帝と、お茶。

 前回は見合い練習相手である黎天河の代理だったから、茉莉花もしかたなく珀陽につきあった。けれど今の珀陽は誰かの代理ではなく、本物の皇帝だ。

「いえ、あの、わたし、仕事が……」

「女官長に夕方まで茉莉花ちゃんを貸してもらえるよう頼んでおいたから、大丈夫。今は一番余裕のある時間帯だろう?」

 茉莉花が忙しくて書物を読む時間がないと言ったことを覚えていたのだろう。

 きちんと気遣ってくれる珀陽は、本当に素晴らしい方だと思う。

(相手が陛下でなければ、気遣うところはそこではありませんなんてこと、思わなくてすむのに……!)

 珀陽は前回宣言した通り、また世間話をする気だったらしい。案内された隣室にはお茶と茶菓子が用意してあって、席は二つあった。

「さ、座って。ちなみに月の宮のお茶はしぶいから覚悟して。後宮のお茶はおいしいよね」

 珀陽の忠告通り、お茶はかなり渋かった。

 おそらく、茶葉は良い物のはずだ。これはきっと入れ方に問題がある。

(もったいない……! わたしはお茶を上手く入れられるわけではないけれど、こんな高級な茶葉なら、わたしでもおいしく入れることができそうなのに……!)

 月の宮で政務をする皇帝の世話をしているのは文官で、男ばかりだ。

 科挙試験合格を目指して勉学に励んでいた文官たちは、お茶の入れ方に興味はないだろうし、きわめようという気もないだろう。

「今度後宮に行ったら、茉莉花ちゃんの入れたお茶が飲んでみたいな」

「……ただの女官には許されていない仕事です。申し訳ありません」

「そうなんだ。こっちも色々あるけれど、後宮のしきたりはもっと面倒そうだね」

 珀陽はしかめっつらをしながらお茶を飲み、だんのくしをつまんだ。団子をくちに入れると、甘さに幸せそうな顔をする。

「あ、そうだ。四書は全部読んだ?」

「はい。勉強になるものを頂き、本当にありがとうございました」

「そう言ってもらえると嬉しいね。覚えているかどうか、ちょっと確かめさせて」

 前にもこの流れがあった。けれどやっぱり珀陽の考えていることはわからない。

 物覚えのよさをかくげいのように思って、側近にも見せてあげたいのかもしれない。それとも、せっかく贈ったのだから身についているかどうかを知りたいのかもしれない。

「前は最初から暗唱してもらったけれど、今回は何巻のどこをという指定をするから」

 ね、と珀陽は子星を見る。

 子星はそういうことですので……としようし、天河は珀陽のために四書を机の上へ順番に置き始めた。

「始めようか。まずはがく第一の一」

 珀陽が書物を開き、いどむように問いかけてくる。

いわく、学んで時にこれを習う。よろこばしからずや。ともり遠方より来たる。亦た楽しからずや。人知らずしてうらみず。亦たくんならずや」

 最初に出てくる教えを、茉莉花は一言一句間違えずに暗唱した。

 子星はうんうんと頷いている。科挙試験に状元合格した若き天才文官にとって、四書の暗唱は随分と昔に通ってきた道だ。これは遊びのような感覚だろう。

「学而第一の十五」

こう曰く、貧にしてへつらう無く、みておごる無きは何如いかん。子曰く、可なり。いまだ貧にして楽しみ、富みて礼を好む者にかざるなり。子貢曰く、詩にう、切するがごとするが如く、たくするが如く、するが如し、と。これを之れうか。子曰く、や、始めてともに詩を言うべきのみ。これに往くを告げて、来るを知る者なればなり」

たいはく第八の四」

そうやまい有り。もうけいこれを問う。曾子、言いて曰く、鳥の将に死なんとするや、の鳴くことかなし。人の将に死なんとするや、其の言うこと善し、とあり。君子の道にとうとぶ所の者三あり。ようぼうを動かしては、ここぼうまんに遠ざかる。顔色を正しくしては、斯に信に近づく。辞気をだしては斯にばいに遠ざかる。?へんとうの事には、すなわち有司存す」

 珀陽に尋ねられるまま、茉莉花はたんたんと暗唱を続ける。

 それがどれぐらい続いただろうか。のどが渇いたころになって、ようやく解放された。

 間違えはしなかったはずだ。でも覚えているだけで、意味を理解しているわけではない。

「すごいね、お疲れさま。子星、私は全て正しかったと思うけれど、どう?」

「はい、その通りです」

 自信満々に頷いた子星からきらきらとしたひとみを向けられ、茉莉花はなぜか腰が引けた。この眼の輝き方にいい思い出はない。

「茉莉花ちゃん、四書を読み始めたのは四日前で、どの巻も『一度』読んだだけだよね?」

「はい」

 茉莉花の返事に、子星がえっと身を乗り出してきた。

「一度……!? 本当に、一度読んだだけ!?」

「私も一度では無理だろうと思って、女官の仕事内容について調べておいた。たしかに茉莉花ちゃんには、夕方前と寝る前の少ししか時間がない。一度読むのが限度だ」

「……一度」

 珀陽も、子星も、天河も、一度しか読まなかったというところにおどろいている。

 茉莉花は慌てて驚くような能力ではないと説明した。期待されても困る。

「わたしは、物覚えが少しいいだけです。がくを一度で覚えることができても、上手じようずけるわけではありません。お茶もそうです。入れ方をすぐ覚えることができても、おいしく入れるためにはまた別の能力が必要です」

 物覚えがいいと、女官業務の助けになる。この能力はその程度のものだ。

 茉莉花より覚えるのが遅くても、さいほうや料理、楽器演奏の上手な人はたくさんいる。

「これは使い方次第でしょう。女官業務には『便利』止まりかもしれませんが……」

 子星が信じられないとつぶやいた。天河はもしかしてと珀陽に尋ねている。

「茉莉花さんは人の顔を覚えるのも得意なんですか?」

「得意だよ。一度見たら細かいとくちようまで言える。だからひったくり犯がつかまったんだ」

 茉莉花以外の三人が、ああでもないこうでもないと話をしている。

 でも、高く評価されるような才能ではないことを、茉莉花自身が誰よりも知っていた。

 ──茉莉花さん、貴女はもっとできる人だと思いましたよ。

 ──覚えることだけできても、練習を重ねなければ上達できないんだからね。

 最初は早く覚えることだけでも満足してもらえる。でもそのうち、それだけでは駄目になり、期待に応えようとしてもできなくて、がっかりさせてしまう。いつもそうだった。

「茉莉花ちゃん、そのてんさいを他のことに使う気は? 茉莉花ちゃんの可能性は星の数ほどある。君ならなんだってなれるだろう。文官でも、武官でも、医師でも薬師でも」

「……なんでも」

 夢のような話を告げられて、茉莉花はゆっくりまばたきをする。

 皇帝に天賦の才があると見初められて、女官ではない別の道を示され、新しい自分に出会える道をすすめられた。物語の中の重要人物の役が手に入るかもしれない。

(でも、わたしがわたしを一番よく知っている)

 天賦の才に見えるこの『物覚えのよさ』の限界を、誰よりも自覚している。

 女官以上のものを望んだら、自分と周りを不幸にするだけだ。

「ありがとうございます」

「うん、なら……」

 よかったと微笑みを浮かべてくれた珀陽に、茉莉花は首を横に振った。

「本当に、分不相応な申し出です。だからこそ、断らせてください」

 驚きの表情になったのは、珀陽だけではない。子星も天河も、断ったのはなぜだという顔をしている。

「わたしは、今の女官の仕事ですら満足に務めきれていません。こんなわたしに他の仕事へくことが、どうしてできるでしょうか」

 それに、と静かに呟いた。

「わたしは、女官という職を陛下や女官長さまから頂けたことが、一生分の幸運だと思っております。じゆうぶんすぎるほど、白虎神獣さまに幸せにしていただけました。これ以上は周りも自分も不幸にしてしまいます」

 色々気にかけてくださってありがとうございます、と茉莉花は言い、立ち上がる。

 新たな未来についての話はこれで終わりだ。才能を買ってくれた珀陽の親切も、ここで終わる。女官長にはお礼を言われただけだったので、身辺を探るようなことはできなかったと報告しよう。

 明日から、いつもの自分に戻る。それが毎日続いていく。

 自分はこのままでいいのだと、そんな思いをこめてもう一度頭を下げた。




「……もしかして、私はふられたのかな?」

「はい」

 はくようの確認に、いつも「はい」か「いいえ」だけで淡々と返事をするてんが、ようしやなく同意してくれた。

「相手は女の子ですからね……。男の私たちなら飛びつく話だったでしょうけれど」

 せいなぐさめは、珀陽の心に響いてくれない。

「女の子……」

 珀陽が知っている身近な女の子は、きよ試験のためにたいがくに入ってきた女の子と、きよ試験を受けにきた女の子の二種類だ。

 どちらも男に負けてたまるかという殺気にも思えるほどのやる気に満ちあふれていた。

 まつのように、微笑みながら無理だと引き下がる子はいなかった。

「陛下、茉莉花さんのことは諦めましょう。残念ですが、こういうときもあります」

「私は諦めたくない」

 天河の見合い練習相手の代理としてきた茉莉花と出逢った。

 茉莉花はこちらの正体に気づいて顔面そうはくで、それがおもしろくて茶屋にもつきあわせた。でもあれは運命だったのだと今なら思う。

 茉莉花がひったくり犯の特徴を言ったとき、本屋で書物の題字を流し見ただけで覚えきってしまったとき、自分にできないことができる天賦の才に打ちふるえた。

(本物の天才を見つけたかもしれないって、私がどれだけ喜んだのか、茉莉花にはわからないだろうね)

 自分はなんでもできるという才をもつ。科挙試験も、武科挙試験も合格できた。

 でも、その道をきわめた天才には絶対におよばない。代わりに天才の成すことを理解してやることはできる。

(私は茉莉花を諦めきれない。天才を集め、次の皇帝に引き渡すことは私の仕事だ)

 期間限定の皇帝職だ。その間にできることはなんでもしておく。

 命を燃やしくし、灰になってもかまわない。

 巻きこまれた者のうらみはすべて自分が引き受け、この国を新たな皇帝に引き渡す。

「……茉莉花ちゃんは、きっと幸せな人生を歩んできたんだろうね」

 ため息とともに吐き出せば、子星がやんわりとたしなめてきた。

「幸せかどうかを判断するのは、本人だけに許されることですよ」

「本人が幸せだと言っていたんだから、幸せでいいと思うよ。多分、茉莉花ちゃんは『話せばわかってくれる』人ばかりに……いや、わかってくれる人を選んできた」

 茉莉花は物覚えのよさを使い、周囲をよく見る余裕をつくっている。だから『話してもわかってくれない人』をけてきた。

 珀陽は自分に頷く。指でとんとんと椅子の手すりをたたき、しかたないと決断した。

「茉莉花ちゃんには、『話してもわかってくれない人』という理不尽にそうぐうしてもらう」

「……陛下、それはちょっと。やる気のないどうりようは、ときに能力のない同僚よりもやつかいです。茉莉花さんの能力は高すぎる。周囲はそれだけのこころざしを要求します」

 子星が心配することもわかる。でも今は無理でも、やってみたら変わるかもしれない。

 茉莉花は、女官なら自分にもできると判断した。そのできると判断したはんをもう少し広げてもらうだけだ。

「時間はまだある。誰だって、始まりはきっと形からだったろうから」

「たしかにそうですけれど……。とりあえず、どうするおつもりですか?」

 可能性はいくらでもある。その中で、茉莉花の能力を最大限にはつできる道は……。

せいこうほうでいこう。もんを言われたくない」

 珀陽の決定に、子星はわかりましたと頷く。

 天河は何も言わなかったけれど、ほんの少しの間、とがめるようにこちらを見ていた。




 まつは、日常に戻ることができてほっとした。

 女官長たちははくようの相変わらずの様子にぴりぴりし、妃たちもなんとかして寵愛を得ようとぎらぎらし……茉莉花はそれを一歩引いて見ている。

 こういう日々を積み重ねていきたい。めるころには給金もまっているだろうから、元女官という肩書きを使い、女の子の家庭教師をするのもいいかもしれない。

「それまでに字を綺麗にしておかないといけないわね」

 読みやすいけれど、綺麗と言いきるにはたよりない字だ。

 自分は、いつもこんな感じなのだろう。そこそこ止まりで、極めることはできない。

「茉莉花、女官長さまがお呼びよ」

「はい! ただいま向かいます!」

 みがき終わった銀食器の確認の手を、いつたん止める。急いで片付けをして、周囲に誰もいないことを確かめながら廊下を早歩きした。

「失礼します、茉莉花です」

 女官長の部屋に向かうと、女官長が厳しい顔をして待ち構えていた。どうやらお叱りの呼び出しらしい。

「座りなさい」

「はい」

 おや、と茉莉花はかんいだく。お叱りならば、立ったまま受けることになる。どうやら自分がしつたいおかしてしまったというわけではないらしい。

「先日、わたくしは皇帝陛下から相談を受けました」

 女官長が重々しく切り出した。とりあえず、黙って頷いておく。

「貴女が、太学に入るための学費がまかなえず、科挙試験を諦めたという話です」

「……は、い!?」

 理解できないつくり話に、茉莉花が驚く。

 しかし女官長は、隠していたことを知られてしまったという反応だとかんちがいしたようで、大変でしたねとねぎらってくれた。

「陛下が貴女のことを気にかけて、資金えんじよをしたいと申し出てくれました」

「いえ……あの、わたしはそんなこと……!」

 そもそも科挙試験という単語に、なじみがない。

 受けたいと思うことが一度もなかったぐらい、夢物語の中のものだ。

 なぜ珀陽がこのようなことを言い出したのか理解できない。

(ううん、認めたくないけれど、理解はしている。……陛下が本気を出したんだわ)

 珀陽のことを、話せばわかってくれる人だと信じていた。

 こちらの主張を受け入れ、皇帝と女官という間柄に戻ってくれるのだと。

(相手は、はくろうこくの皇帝だったのに……!)

 皇帝が願ってかなわないことなんてない。茉莉花から女官という職を無理やり?はくだつするなんて、とても簡単なことだろう。

 それでもあの人は手順をみ、茉莉花自身の意思で望ませようとした。納得してから新しい道を選び取れるように手配してくれた。

 茉莉花の気持ちをそんちようしてくれる珀陽は、とても優しいと思う。でも、強い人でもある。己の意思をげることはしない。

「これは大変なほまれです。陛下の期待に添えるよう、これからはよりいつそう励みなさい」

 女官長に事情を説明したら、どうなるのだろうか。

 皇帝に側近になれと望まれたが、自分には無理だと断った。科挙試験援助の話もなかったことにしてほしい。このまま女官でいたい。

 ……駄目だ、と茉莉花はぜつぼうする。

 皇帝と下っ端の女官を比べたとき、自分に味方してくれる人なんていない。

 むしろ、女官長のような人ならば、そこまで望まれてなぜ断ったのだと叱るだろう。

(わたしには科挙試験なんて無理……! 天才なんかじゃない……!)

 いつだって、必ずあとからがっかりしたと言われた。

 物覚えがいいだけでは駄目だということをもう知っている。そのしように、しよを暗記しても意味がちっともわからない。

「荷物をまとめなさい。勉学の遅れを取り戻すのならば、少しでも早い方がいいでしょう。ぎのことは気にせず、貴女は貴女のやるべきことをなさい」

 女官長が茉莉花の手をぎゅっと両手でつつみこんでくれる。

「女官の仕事をそつなくこなすで止まってしまっていたのは、他に夢があったせいなのでしょうね。今度こそ、やる気をもって夢を追いかけなさい。貴女ならできるはずです」

 違うと言いたかった。夢は女官でいい。もう叶っている。

「つらいこともあるでしょうが、がんばるのですよ。わたくしたちは、貴女が科挙試験に合格したという報告を聞くのを楽しみにしていますからね」

 女官仲間の誰かが科挙試験を目指すと聞いたのなら、すごいと感心したはずだ。元同僚のかつやくを耳にするたび、ほこらしく思えただろう。

 でも、科挙試験を受けるのは自分だ。

 受かってどうする? 嬉しいと、誇らしいと、胸を張れるのか? りつしんしゆつを幸せと思えるのか?

 自分のことなのに、この先のことがまったく見えなかった。



 女官長の部屋を退出したあと、茉莉花は後宮の出入り口に急いだ。

 思った通り、珀陽が廊下の柱に背をもたれさせて立っている。あいいろの布をかかえた腕を組んで、楽しげに茉莉花を見つめていた。

「……陛下、これはどういうことでしょうか」

 いつもなら跪き、礼を尽くそうとしただろう。でも今はそれどころではなかった。

「皇帝なら、『いいえ』を『はい』にすることは簡単なんだ。茉莉花ちゃん、君は私をあまく見すぎたね」

 話せばわかってくれる優しい男ではないと、ほんの少し前に知った。

 この人の優しそうな外見は武器だ。勝手に判断した自分がおろかだった。

「わたしにそこまでの価値はありません! 考え直してください!」

「価値を決めるのは君ではない。周囲の人間だ。周囲の他人である私は、君に価値があると考えた。君は天賦の才をもつとね」

「覚えるだけではなにもならないと、皇帝であるあなたに、なぜわからないのですか!」

「その『覚える』だけが、どれほどしような能力だと、君こそなぜわからない?」

 珀陽からおだやかな微笑みが消えて、どうもうけものほんしようが現れる。

 鋭い金色の瞳は、茉莉花よりも優位に立っていることを主張していた。

「晧茉莉花、君にきんじきをもたせ、私の側近にする。立身出世を約束しよう」

「禁色……!?」

 珀陽は科挙試験に合格させるだけではなく、茉莉花を信じられないところまで引き上げようとしている。

(怖い! 陛下がなにをしたいのか、わたしには理解できない……!)

 珀陽はもたれていた柱からゆっくり身体を離し、近づいてきた。

「物事には、順序や形式がある。面倒だけれど、それを守った方が有益なときもある。私の力なら、官吏の一種である女官の君を異動という形で文官にし、今すぐ禁色をもたせることも可能だ。でも君の将来のことを考えて、正攻法でいこう」

 茉莉花は、珀陽から藍色のきぬを押しつけられる。

「とりあえず、科挙試験に合格してきて。できるよね」

 藍色に黒のふちりがあるこの上衣は、太学の学生が身につけるものだ。

 どれだけの誇りがまっているものなのか、茉莉花でも知っている。

 でも、太学の学生と自分は違う。能力ではなく、もっと根本的なところで。

「わたしにはできません……!」

「君ならできる。太学へ編入できないか、しんしている最中だ。学費や当面の生活費は、私が負担しよう。今は科挙試験のことだけを考えたらいい」

「無理です! わたしは四書しか読んでいないんですよ!?」

「これから他の本を読めばいい」

「わたしに理解できるとでも!?」

「いいね、少しずつ茉莉花がうちとけてきた。言葉がくずれ始めている」

「陛下!」

 茉莉花が叫んでも珀陽は動じない。

 珀陽が見せていたあの優しい笑顔は、『女官の茉莉花ちゃん』用だったのだ。今の珀陽は女官ではなく、『茉莉花』という未来の文官へ命令している。

「……わたしは、街の学校程度の教養しかありません。太学への編入自体が無理です」

「そう?」

 挑むように見上げれば、たやすく受け止められた。

「太学入学に必要なのは、基礎教養だ。基礎教養のかなめは『四書きよう』。四書は『論語』『大学』『ちゆうよう』『もう』、五経は『えききよう』『しよきよう』『きよう』『礼記』『春秋』。合わせて四十三万千二百八十八字をまずは覚えてもらう」

「よんじゅう……さん、まん!?」

 けたが違いすぎて、どれほどの量なのかも想像できない。

 ?ぜんとしていると、珀陽が茉莉花にもわかるように説明し直してくれた。

「君は四書のおよそ十四万字を働きながら四日で覚えた。覚えることに専念できる時間があれば、残りは五日で覚えきれる。四書五経を覚えたら、次はそれがどういう意味なのかをわかりやすく説明したちゆうしやくぶん、四書五経から出る問題の解き方、解くために必要な知識となる他の歴史書だ。ありとあらゆる『知識』を今から叩きこむ」

 どれぐらいの書物を読めばいいのかは理解できた。

 でも読めるとは思えない。書物を読み続けるなんてこと、したことがない。ときどきちょっとずつページをめくるのが、茉莉花にとっての楽しい読書というものだった。

「太学の入学試験は、基礎教養をどれだけ覚えているかを測る試験だ。科挙試験は知識を元にどれだけ持論を論理的につくり上げるかが重要になるんだけれどね」

「その考える力は、わたしに……」

「あるよ。考える力があるから、平民出身の女官という異例のばつてきを受けながらも、上手くやることができた。あえて適度に手を抜いて目立たないようにすることで、皆からにらまれないようにしてきた」

 それだけ考えられたら充分だよと珀陽はとろけるような笑顔を見せる。

「半月で太学編入試験のための知識を詰めこんでもらう。入学したあとは、知識を元にしてひたすら考える。他の生徒は、入れた知識がこぼれないように復習に時間をとるけれど、君は必要ない」

「待ってください! そもそもわたしにやる気が……!」

 珀陽の言葉を信じて、文官に向いているということを認めたとしても、本人にやる気はない。それでいいのかと問いかける。

「ああ、別にいいんだよ、このまま後宮に戻っても」

 とつぜん、珀陽は態度を変えた。驚いていると、考えてみてと顔を覗きこまれる。

「私は諦めないよ。後宮へ毎日通って、しつこく『晧茉莉花』を呼びつける。……そんなことをされたらどうなるか、一度経験したよね」

 後宮にきた珀陽が茉莉花の名を呼び、土産を渡そうとしたとき、後宮内が荒れた。

 あれは別の人からの贈りものという弁明をしても、なかなか信じてもらえず、しばらくは冷たい眼で見られたりにらまれたりした。

(毎日……!? そんなことになったたら、後宮内のすべての人を敵に回してしまう! わたしは女官を続けられなくなる……!)

 なにを言ってもなのだと、認めるしかなかった。

 今すぐ逃げ出すことならできるだろう。でも、逃げ出した自分をかくまってくれるようなところは思いつかない。実家にも迷惑をかけてしまう。皇帝への反逆だと言われ、家族がばつを受けるかもしれない。

(……わたしが、太学に入って、科挙試験を受ける?)

 あまりにも現実味がない話だった。重圧を感じられないほど、遠いところに科挙試験というものが位置しているのだ。

「子星に君の世話を任せるよ。ここを出たら待っているから」

 行こうと手をさしのべられる。けれど茉莉花はその手を取らない。本当にささやかな、珀陽へのていこうだった。

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茉莉花官吏伝 皇帝の恋心、花知らず 石田 リンネ/ビーズログ文庫 @bslog

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