第一章

 はくろうこくは、てんこうこくの西側に位置していたため、古い時代から西側の国々との交流がさかんであった。西側の様々な文化にえいきようを受けながらも、東側の伝統も大事にしており、かんようと共存、そしてようせいを重んじる気風をもつ。

 伝統に新しい習慣が混じり合ってできた文化の一つに、『出逢いの春』がある。

 春に出逢いを、夏に仲を深め、秋にしゆうげんを挙げ、冬に愛をはぐくめば子宝にめぐまれる。

 そんな習慣が根づいてから、春に若い男女が街中をういういしく歩く光景を、盛んに見ることができた。


「──明日、見合いの練習相手の代理を頼まれてもらいたいのです」

 まつによかんちようからどんな説教をされるのだろうかと不安だったが、名家のそくの見合いの練習相手になってほしいという頼みごとだったので、とてもおどろいた。

 元々はえんこうりんという女官に頼んでいた話だったのだが、彼女がで寝こんだため、ねんれいの近い茉莉花に代役が回ってきたらしい。

(最初から本命とお見合いをしたら失敗するかもと心配したご両親が、ご子息のための練習相手がほしくて女官長に声をかけた……と)

 どうやら相手はとんでもない名家の子息のようだ。

 だからこそ良家のれいじようである紅琳が見合いの練習相手として選ばれていたのだろう。

 先方の両親の過保護さに感心していたら、女官長からどうですかと返事を求められた。

うけたまわります」

 わたしには無理ですといって断ることも可能だった。でも引き受けたのは、年頃の女性ならだれでも経験する『出逢いの春』へのこうしんがあったのだ。

 ──お見合いごっこだけでも、一度楽しめたら。

 本当は紅琳が着る予定だったという服を女官長から受け取り、静かに退出する。

 そのあと、仕事の合間に急ぎ準備をしていれば、あっという間に次の日となった。

 紅琳の両親との待ち合わせ場所は、とあるりようていだ。そうほうの両親がたくをはさんでなごやかにだんしようしている。

「紅琳は後宮の女官として働いていまして……」

 そう、茉莉花はえんの紅琳として、練習相手を務めることになってしまった。

 見合いの練習を頼んできたのは、白楼国の人間ならば誰でも知っているあのれいだ。

 黎家は武人一家で、禁軍の将軍となった者も多い名家中の名家。その黎家の跡取り息子である、きよ試験に合格した若き武官『れいてん』の名は、茉莉花でも知っている。

 黎天河の見合い練習相手が紅琳ではなく代理の少女になってしまったなんてこと、あってはならないらしい。紅琳の両親から紅琳のふりを頼まれ、茉莉花は自分にできるのかと不安になったが、たった一度きりの練習相手だからいいだろうと開き直ることにした。こうきゆうで暮らす茉莉花と紅琳は、この先、黎天河と顔を合わせることはないはずだ。

 それでも『紅琳です』とうそをついたしゆんかん、不安でどきどきしてしまった。

「ええっと、天河殿どのは……」

 今、この場にいるのは、紅琳の両親と茉莉花、そして黎家の両親のみ。

 見合い練習の主役である黎天河がなぜか一向に現れず、茉莉花たちはどうしたんだろうかとこんわくしていたのだが……。


「すみません、遅れました。はじめまして、黎天河です」


 ついたての裏から出てきたのは、乙女おとめならば誰もがほおを染めてしまいそうなうるわしい青年だ。

 はつきんいろの髪に、きんがん。他の国ならぎょっとしてしまう色の組み合わせだろうが、この白楼国ではそう珍しいものではない。現に、皇帝陛下も……。

(……って、珍しいとか、珍しくないとかじゃなくて……!?)

 本当はここで『燕紅琳です』と改めて名乗るべきところなのだが、茉莉花はあまりのことに頭が真っ白になってしまった。くちを半開きにしたまま、閉じることができない。

 ──見合い練習の相手は、黎家の跡取り息子で、武科挙試験に合格したあの黎天河。

 たしかにそう聞いて、今日も黎家の両親から同じことを説明されていたのだが……。

(ちょっと待って……!? この方は……!)


 自分がおかしいのだろうかとあせるが、黎家と燕家の夫婦が、ではそろそろと立ち上がっている。黎家の両親の顔が『さっさとこの場を離れたい』と言っているのは、おそらく気のせいではない。

 茉莉花が助けを求めるようにおろおろとしていると、『黎天河』と眼が合った。

 とてもあま微笑ほほえまれたけれど、胸がいやな意味でどきどきしてしまう。

「あとはお若い二人で……」

 両家の両親からお決まりの文句が放たれ、茉莉花たちは店を出るようにとうながされる。

 事態についていけずあせをかいていると、誰かにそっと肩を抱かれた。

 ……いや、誰かではない。一人しかいない。

「紅琳さん、お茶でも飲みに行きましょうか」

『黎天河』が、間近でとてもやわらかい微笑みを向けてくる。

 茉莉花は胃がひやりとした。を言わせないはくりよくをこの笑顔から感じるのは、眼の前の人の本当の姿を知っているからかもしれない。

 彼にぐいぐい押されたら、歩き出すしかなかった。

 何度も振り返って両家の夫婦に助けを求めたのだが、気づいてもらえない。

 前を見ずに歩いていれば、当然人にぶつかりそうになる。転びかけたのだが、となりの『黎天河』が腰を抱いて支えてくれたので、借りたれいしようどろをつけなくてすんだ。ほっと胸をなで下ろし、礼を言うために顔を上げ、そうだったと固まる。

「……ええっと、『茉莉花』ちゃん、だっけ? 後宮の女官の子だよね」

 正しい名を呼ばれ、どうしてこの方に顔と名を知られているのかを不思議に思う。

 そのおくりよくに感心しながらも、あわてて二歩下がり、思いっきり頭を下げた。

「申し訳ありませんでした、こうてい陛下……!」

 そう、『黎天河』の代わりに見合い練習へきたのは、白楼国の皇帝『はくよう』だ。

 きゆう殿でんしつはげんでいるはずのかんぺきなる皇帝が、黎天河として見合いの練習にきたのはどうしてだろうか。

(一体、黎天河さまになにがあったの──……!?)

 なんとなく、わかる気がしないでもない。黎天河は、武科挙試験のしゆせき合格者だ。その能力を皇帝の珀陽に認められ、皇帝しか身につけることを許されないむらさきいろきんじきの小物を与えられたという、すでに将軍職までの出世が約束されている側近中の側近である。

 だから、珀陽が見合い練習に現れた理由はきっと自分と同じだろう。つまり……。

「やっぱり茉莉花ちゃんも私に気づいていたんだ。もしかして私と同じ理由?」

「申し訳ありませんでした!」

 皇帝の前では、許可がなければ顔を上げてはならない。身分が低ければ、ぬすでもしない限り、皇帝の顔を見る機会はないのだ。

 先ほどの紅琳の両親のように、珀陽を見ても正体に気づかないのは当たり前である。

(でも、わたしは後宮で何度か陛下の横顔を見る機会があったから……)

 気づけてよかったとどっと冷や汗をかく。気づかずにけいなことをしていたら、自分だけではなくて燕家や女官長を巻きこんで、大変なことになっていたかもしれない。

 必死に頭を下げ続けていると、目立つから顔を上げてと珀陽から声をかけられた。

「天河が仕事で行けなくなったから、私が代理できたんだ。私はお見合いとえんがない職にいたし、一生に一度ぐらいは経験したいなって思ったんだよ。茉莉花ちゃんは?」

 珀陽は、皇帝のちようあいを競い合うきさきが住まう後宮をもつ。見合いなんてものは必要ない。

 同じように『好奇心からの代理人』同士だけれど、方向性は完全に違った。

「紅琳さまが風邪でせってしまったので、わたしはその代理です……。わたしは紅琳さまと違って平民の出身ですので、正直に代理の話を告げたら黎家の方がご不快になられるだろうと……うそをついて本当に申し訳ありませんでした……!」

 三度目の謝罪に、珀陽はいいからいいからと笑い飛ばす。

「こちらこそ、黎家側からお願いしておきながら、当の本人が仕事で行けなくなったんだから。宮殿に戻ったあとは、私がこの一件をく納めておくよ」

 どうやら珀陽は黎家をだましたことを許してくれるらしい。

 助かった、と茉莉花はさらに深々と頭を下げた。

「あの、では、戻りましょうか……」

「なんで?」

 心底不思議そうにしている珀陽に、茉莉花の方が不思議に思ってしまう。

「……いえ、互いに代理ならば、この先は必要ないかと……」

 今日は黎天河のための見合い練習である。黎天河が燕紅琳をお茶にさそい、互いの理解を深め合うための会話をし、夕方になったら紅琳を宮殿まで送る。

 茉莉花は見合い練習相手の代理で、珀陽も頼んでおきながら仕事でこられなくなった黎天河の代理だ。代理同士で練習を続ける必要はない。

「ああ、私の目的は天河の代理だけではないよ。お見合いが経験したくて、困っていた天河の両親に無茶なお願いをしてここにきたんだ。だから茉莉花ちゃん、最後はきちんと宮殿まで送るから、茉莉花と珀陽で改めてお見合いをしようか」

 事情を知った珀陽は、代理や練習というたてまえを投げ捨て、ただの見合いをせまってきた。

「困ります……! さすがに身分が……!」

「私は気にしないよ。あ、そこの看板を左に曲がろう」

 どうか気を変えてくれと茉莉花は必死にいのる。

(相手はあの皇帝陛下……!! 今まで遠くから横顔を盗み見することしかできなかった方で、美しい妃さまたちが寵愛を競い合っている、あの皇帝陛下……!!)

 あこがれの人がすぐそばにいるという夢のような出来事が起きている。でもこれは夢ではなく、現実なのだ。

 きっと周囲からはよくある光景の一つにしか見えないだろう。けれど茉莉花の心臓は今にもれつしそうだ。この方のきようを買ったら首が飛ぶ。表現ではなく、物理的に。

(ただの女官が皇帝陛下と言葉をわすなんてこと、物語の中だけでいい……!)

 茉莉花の希望とは真逆に、珀陽はようようと茶屋に入り、しれっと『黎天河』を名乗る。

 たりのいい外の席へ案内されて座ると、すぐに茶が出てきた。

「黎家も燕家も、互いに代理と気づかれないうちに……ってさっさと立ち上がってしまったからね。遅くなったけれど、自己しようかいといこうか」

 珀陽が店員からげつぺいの皿を受け取り、どうぞと渡してくる。

「『黎天河』の自己紹介を用意してきたんだけれど、もう代理だって知っているから、めんどうなことはやめよう。私は珀陽、この国の皇帝をしている。特技は色々ありすぎて、『できないことはない』でまとめようかな。しゆは仕事を完璧にこなすことと、ときどきふらっと城下に降りて、かんを食べながらたみの生活をながめること」

 これがつうの男の人の言葉であれば、ところどころで笑って、なんですかそれはと会話を楽しんだだろう。

 しかし、この人は皇帝『珀陽』だ。『できないことはない』という特技も、でしょうねで終わってしまう。科挙試験も武科挙試験も合格してしまった本物の天才なのだから。

「え? 今の自己紹介って笑えない? きんちようしている茉莉花ちゃんのために笑いどころをつくったつもりだけれど、難しいね。で、茉莉花ちゃんは?」

「……こう茉莉花です。特技は物覚えがちょっといいことで、趣味は……書物を読んだり、お茶を飲んだりすることです」

 茉莉花は晧茉莉花としての自己紹介をとっさにひねり出したのだが、とてもつまらないものになってしまった。これこそ、笑いどころがない。笑いをとろうという気持ちすら出せなくて、申し訳なさすぎる。

 それでも天から才能ばかりをさずけられた珀陽は、にこにこと笑いながら、お茶が好きならあそこの春限定の桜茶がおいしくてね、と話題をふくらませてくれる。

 とてもできた人だ。でもだからこそ今すぐ帰りたくてしかたなかった。へいぼんすぎる自分との会話につきあわせるなんて、不敬にあたいする。

「茉莉花ちゃんって私のそくに合わせて入ってきたから、女官になって一年半か。……あ、いや、宮女として入ったのが一年半前で、女官になったのは半年前だったね。だいわりで慌ただしかった後宮を、ここまで支えてくれてありがとう」

「……ありがとうございます。まだ至らぬ身で、勉強しなければならないことばかりです」

 茉莉花の官位は、せいはちほんという一番低いものだ。それなのに珀陽は茉莉花の名と顔を覚えているどころか、礼をさらりと言ってしまった。

(この方が皇帝に選ばれた理由が、今とてもわかった気がする……)

 後宮の妃が、珀陽の寵愛を競い合うのは、自分の家のためだ。けれど、なによりも珀陽がらしい人だからこそ、愛されたいと願うのだろう。

「たしか、こうよううたげかつやくして宮女から女官にしようかくしたんだっけ? 女官長からのすいせんぶんでは、活躍の具体的な内容はぼかしてあったけれど、誰かのおもてにできないほどの大きな失敗を上手くかばったってところかな」

 半年前、後宮内で紅葉の宴という伝統行事を開くことになったのだが、宴の準備の仕方を記してある書簡を、とある女官が誤って燃やしてしまっていたという事件があった。

 宴の手順や料理の内容、後宮内の飾りつけ等々、伝統行事だけあって細かく決められていたのだが、女官たちが必死に思い出しても、あいまいな部分が多く残ってしまう。

 茉莉花たち宮女にも覚えていることはないかという話が回ってきたため、去年経験していた茉莉花は、宴の準備について覚えていることを書き出し、女官に渡した。それが宴の準備の助けになったらしく、後日女官長からじきじきめられ、さらに後日には女官にならないかと誘われたのだ。

「大したことはしていませんが、陛下の助けになるようにこれからも努力を……」

 誰かの失敗をこうていするわけにはいかないので、茉莉花は大人な言い回しで対応しようとしたのだが、珀陽がしんけんな顔をぐっと近づけてきた。

「その『陛下』はやめよう。気づかれたら、叱られる」

 表情に反して、頼みごとの内容はとても幼い。しかしあまりにも綺麗な顔なので、心臓に悪くてつい突き飛ばしそうになった。

「ですが」

「今は『珀陽』と呼んで」

「……珀陽さま」

 さま付けとはいえ、名前なんておそおおいし慣れ慣れしすぎる。本人が呼べと言っているけれど、どうしても周囲の眼が気になった。

「話を戻そうか。茉莉花ちゃんの特技の『物覚えがちょっといい』って、どれぐらい?」

「本当にちょっとです。特技がそれぐらいしか思い当たらなくて……」

 急に恥ずかしくなって、うつむく。

 いっそ特技はないと言いきってしまえばよかった。多才でありながらどれもきわめている珀陽相手にほこれるような特技ではない。

「ならこのあと……、ごめん、待って」

 話のちゆうで珀陽の声がするどくなる。なぜかいきなり立ち上がり、急ぎ足だけれどごく自然な動きで、大通りに向かった。

 どうしたのかと、茉莉花は珀陽の背中を視線で追う。

 珀陽の目指す先には、布に包まれたものを大事そうにかかえている男、それと彼に足早で横から近づく男もいて──……。

「危ない! ひったくりだ!」

 その言葉で、珀陽がなにをしようとしていたのかを、茉莉花もようやく理解できた。

 包みをうばい去った男と、包みを取られて転んだ男がいて、珀陽がつかまえてくれと通りの人間にさけんでいる。

 直前に包みを抱えていた男へ警告を発したのは珀陽だ。ひったくりをもくむ男の動きに気づいて、しようとしたのだろう。

「どうした! なにがあった!?」

 見回りの兵士がさわぎに気づき、転んだ男に近よる。荷物を盗られたとの説明に、兵士がうなずいた。そのとき、犯人を追いかけに行ってくれた親切な通行人が、申し訳なさそうに見失ったと戻ってくる。

られたのはどんな荷物だ? 犯人のふうぼうは?」

 兵士の確認に、被害者はうなった。

「え~っと、盗られた荷物は緑色のふくろで、黄色の、なにかの模様が入っているものです。大きさはこのぐらいです。犯人はそんなに背が高いようにも思えなかったから……」

 がいしやは荷物を盗られた勢いで転び、犯人をよく見ていなかった。周囲にいてぐうぜんもくげきした通行人と珀陽が、犯人と盗られた荷物について覚えていることを話す。

あいいろの上着を着ていた」

いつしゆん見たけれど、髪は長かったような……? 上着は黒だった気がする」

 とっさの出来事で、おまけに人通りが多いところなので、犯人のふうぼうや服の色の証言にちがいが出てしまう。

 茉莉花は助けた方がよさそうだと判断し、立ち上がった。

「兵士さん、わたしも見ていました」

 兵士に声をかけ、一瞬だけはっきりと見た荷物と犯人の姿の特徴を、かたぱしから挙げていく。

「奪われた荷物はこのぐらいの大きさで、深みのある緑色の布にくるまれていました。布には?しゆうがしてあって、それは黄色の糸で花びらを五つ組み合わせたものと、黄緑色で細長い葉を?いだものです。縁にはふさかざりがついていました。結び目はこんな風に……」

 自分の手ぬぐいを出して、結び目をつくってみせる。

「犯人の身長は荷物の持ち主の方よりもこぶし一つ分高く、髪と眼は黒色です。髪は肩を超えたぐらいで、おういろひもで一つに結んでいました。服はあいいろで、たてじまの模様がさらにい藍色で入っています。帯は黒で結び目は……こういう風に。眼は切れ長で、くちは大きく、だんばな、耳が大きめです。ほくろがこの位置に二つ。年は三十前後に見えました。奪ったもの以外の荷物はもっていません」

 兵士は集まってきた仲間にこの証言を伝え、急いで捜せと走らせてくれた。

 あとは兵士たちに任せるしかない。少しでも証言が役立ちますようにと茉莉花が思っていると、いつの間にか珀陽が真横にいて、こちらをじっと見ている。

 おだやかな微笑みを浮かべているのに、珀陽の視線にはみような力がこもっていて、茉莉花はつい一歩下がった。すると珀陽が間合いを一歩分めてくる。

「は、珀陽さま……?」

 どうしたんだと視線で問うと、じっと瞳をのぞきこまれた。

「茉莉花ちゃん、すごいおくりよくだね」

「あ……はい、物覚えはちょっといいので……」

 この物覚えのよさのおかげで、紅葉の宴の事件のときも皆の役に立てた。

 けれども、覚えるのが早いだけなのもたしかだ。この物覚えのよさは、茉莉花にとってちょっとだけ助かる特技というにんしきである。

「……ちょっと、ね。『ちょっと』って、どのぐらい?」

「ちょっとは、ちょっとです。たとえば、がくを一度見て覚えることができても、上手く演奏できるというわけではありませんし……」

 この特技で期待を抱かせてしまうなんてこと、あってはいけない。自分の価値の低さを、丁寧に説明しておく。

「へぇ?」

 なぜだろうか。珀陽は茉莉花の説明になつとくできなかったのか、すごみのある優しい表情のままさらに見つめてくる。

 あの皇帝『珀陽』のうるわしい顔を間近で見られるなんて、本当にとても貴重な機会のはずなのだが、なぜかじんもんされているような気持ちになった。

(そろそろ……お見合いを終わりにしましょうともちかけてもいいかな……?)

 ひったくりそうどうで、見合いを続けるというふんでもなくなった。

 そうしようと茉莉花が決めたとき、兵士たちがわめいている男の腕を?つかんで引きずってくる。茉莉花はその男の顔を見て、あっと小さく叫んだ。

「この男です! 俺の荷物を盗ったのは!」

 被害者が叫べば、兵士たちはもうのがれできないぞと犯人をなわしばった。

 違うと否定を続ける男は、服の色こそ違ったけれど、他の特徴はすべて茉莉花の証言といつしている。

「あれ? でも上着の色が……」

 珀陽が兵士に確認すると、兵士は犯人の上着をぐっと?み上げて、裏地の色を見せた。

「ひっくり返しただけですよ。こういうとき、一番覚えられているのが上着の色ですからね。でもおじようさんの証言のおかげで、他の特徴から犯人を見つけることができました」

 ご協力感謝しますと兵士から頭を下げられた茉莉花は、いえいえと微笑む。

 荷物も質屋に入れる直前だったということで、無事に元の持ち主へと返されたらしい。あっという間の一件落着で本当によかった。

「茉莉花ちゃん、おがらだね」

 珀陽に褒められ、茉莉花はとんでもないと否定する。

「珀陽さまのおかげです。事件が起こったあとでは、よくて犯人のうしろ姿を見るのが精いっぱいだったでしょうから」

 自分は犯人を見ただけ。それができたのも、珀陽が注意をうながしてくれたからだ。

「そんなことないよ。犯人たいができたのは、茉莉花ちゃんの力だ。……そうだな、ごほうをあげよう。ついてきて」

 肩を抱くという優しい道案内をまたされてしまった。実際はていこうしても勝手に足が進んでいくというちょっとしたきよう体験である。

「お待ちください、珀陽さま! 女官が皇帝陛下からのひんを頂くわけには……!」

「今の私は『黎天河』だよ。天河からの贈りものなら、問題ないはず。天河は禁軍の武官、さっきの茉莉花ちゃんの手柄をたたえないなんてありえないからね」

 なにがいいかなぁと言いながら、珀陽は本屋の前で立ち止まった。

 少し前、木版印刷というものが発明されて以来、書物は一部の貴族だけでなく、しよみんでも手に入るものになってきている。けれど、まだ気軽に買えるようなものではない。

(あ、書物を読むのが好きって言ったから……? すごい、本当にづかいのできる方だ)

 自分は珀陽のように、相手を当たり前のように尊重できるだろうか。自己紹介で教えてもらったことを覚え続ける自信はあるけれど、とっさに活用できるとは思えない。

 ──物覚えがいいだけではなにもならないのだと、改めて実感してしまう。

 感心していると、気がついたら本屋の中に入っていた。

 そしてうしろに立った珀陽によって、なぜか眼を手でおおわれる。

「珀陽さま……これはどういうことなのでしょうか……?」

 街で若い男女がこんなことをしていたら、だーれだ、とじゃれて遊んでいる恋人同士にしか見えないだろう。

 けれど、茉莉花の相手は皇帝だ。一般論で語ることはできない。

「まだ本棚を見てほしくない。このまま五歩……茉莉花ちゃんなら七歩。ゆっくり前へ」

 よく見えなくて怖いから無理です、と珀陽に言えるはずがなかった。

 自分の命がしい茉莉花は、だまって指示に従う。

「右を向いて、うん、もう少し……はい、止まって。首を少し上げて」

 茉莉花も年頃の女の子だ。恋愛ごとに興味がないわけではない。

 てきな方にうしろから抱きかかえられ、その体温やどうを感じてどきどきしてみたい。

 緊張でいっぱいいっぱいになって、あとでそのことを思い出して顔を覆いたい。

 そんな恋を自分だって一度は……と思っていた。

(でも、皇帝陛下が相手では、いくら顔が素敵でも、ご立派なところをどれほど見せつけられても、いやなどきどきしかできない……!)

 失礼なことをしてお叱りを受けようものなら、上司である女官長にもめいわくをかける。実家も大変なことになるかもしれない。

 遠くからこの麗しい横顔を見られたら満足……というぐらいの相手だったはずなのに、どこをどう間違えてこうなってしまったのか。

「私が合図したら、眼を開けて。ここにある書物の題字を、右から左に、上から下に見ていって覚える。見終わったら、声をかけて」

 今の茉莉花は「はい」を言い続ける人形だ。

 皇帝をげんのよいままにして、きたところで宮殿に帰ってもらう。

 ここでもらう褒美は、黎天河にもらったつもりで、一生の宝にしよう。

「いくよ、はい、眼を開けて」

 茉莉花は眼を開け、書物の題字を見ていく。右から左へ、上から下へと視線を動かし、順番に頭へたたきこみ、最後まで読んでから「終わりました」と宣言した。

「覚えた? もういい?」

「はい」

 迷わず頷くと、珀陽はすごいな……と小さくつぶやいた。

「もう一度眼を閉じて」

 ひやりとした手に再び眼をおおわれ、びくっと身体がはねる。

 驚かせてごめんね、と珀陽は優しく言ってくれたが、茉莉花は妙に速い鼓動をなだめるために、胸に手を当てた。

「覚えてもらった書物の題字、右から順番に言っていって」

「はい」

 まずは、と茉莉花は一番右の書物の題字を思い出す。

てんこうしゆうでん、十七通編、続十七通編、へきしよ……」

 五つ目の書物までは、聞いているのかいないのかなぞになるぐらい珀陽はうんうんと言っているだけだった。偉い人の考えていることは、茉莉花にはよくわからない。後宮の宴でろうされるきゆうの歌や踊りといったげいごとのような感覚で、この物覚えのよさをおもしろがっているのかもしれない。

「──、……りくえいゆうでんはくほんまつしゆ史紀事本末……最後がです」

 一度もれずに言い終わると、そっと珀陽の手が離れていった。

「……すごいね。本物だ」

「本物?」

「うん、たった今、見つけた」

 甘いのにどこかくせのある、はちみつのような笑顔で見つめられる。

 こんな視線にさらされたことは一度もなくて、喜ぶよりも先にひるんでしまった。

「ご褒美を決めたよ。女の子だし、しよはもっていないよね? どれぐらいで読める?」

「えっ……!? いえ、でも、わたしは文字を読めるだけで学がなくて……」

「四書の内容は本当に簡単なものだ。科挙試験を目指すのなら、八歳までには必ずあんしようしておかなければならないものだから」

「はあ……」

 茉莉花が普段読んでいるのは、いわゆるたいしゆう小説というものである。恋愛物語だったり、りつしん出世物語だったりと、楽しんでおしまいの書物だ。

(でも八歳までの男の子が読むような書物だったら、わたしにも……)

 これは珀陽からの、もっと学をつけて機転のく会話ができる女官になりなさいという助言なのかもしれない。そうとしか思えない。

(女性に対する贈りものにしては、ちょっと、ね)

 逆に四書なら受け取りやすい。高価なかんざしや上衣だと、返礼をどうすべきか頭を悩ませただろう。

「ちゃんと読んでおいて。あとで感想をくから」

「はい。……素敵な贈りものをありがとうございます」

 返礼は、きちんと読んで立派な女官になることだ。

 今日一日、信じられないぐらい驚くことばかりだったけれど、最後の最後で丸く収まった気がする。

「またね、茉莉花ちゃん」

 珀陽に宮殿まで送ってもらったあと、それはもう昔からの友人ですかという親しさであいさつされた茉莉花は、引きつった笑顔をなんとかつくり、頭を下げた。



 夜、女官の仕事を終わらせた茉莉花は、しんだいへ転がった。

 ようやくおとずれた自分だけの時間を使い、今日の出来事を思い返す。

 ──みんなの憧れを一身に集める皇帝と、お見合いのようなことをした。

 自分は名もなきやくだったはずなのに、回ってきた代役は主役級だった。一生に一度ぐらいなら、こういうことがあってもいい。でも毎日は絶対に無理だ。

「今のわたしは、これでいい」

 皆のように名前のある主役級の役がほしかったときもある。でもほしがってかんちがいをさせたら、またがっかりされる。

 ──茉莉花さん、貴女あなたはもっとできる人だと思いましたよ。

 ──覚えることだけできても、練習を重ねなければ上達できないんだからね。

 わたしは、期待に応えようと思って練習したんです。でも覚える以外の特技をもたないから、すぐには上手くならないんです。

 自分の限界は、自分が一番知っている。ぶんそうおうなことを望めば、昔みたいに自分だけでなく周りも不幸にする。

 現状に満足することで、今ある幸せをしっかり?つかんでおこう。へいおん無事が一番いいことだと、昔から言われているのだから。



 げつちようじよう、月の宮。

 皇帝がまつりごとをするための部屋へ、武官のれいてんかんの報告をしにきた。

 はくようは、自分の代わりにじん耀ようってきてくれた天河をご苦労さまとねぎらう。

「仁耀はどうだった?」

「悪い風邪をひいて寝こんでしまっただけのようです。やつれておりましたが、声がしっかりしていましたので、今すぐどうこうという容態ではないかと。……陛下、ご自分でお見舞いに行かなくてもよかったのですか?」

「ちょっとね。……まあ、私にも色々と」

 仁耀は、先の皇帝の弟だ。珀陽と同じく、若いころにこうせきを捨てる決断をし、先の皇帝を臣下という立場から支え続け、禁軍の将軍までのぼめただいなる武官である。

 かつて珀陽が皇籍を捨てようと考えたとき、真っ先に相談した相手が仁耀だ。仁耀は笑って背中を押してくれて、武科挙試験のすいせんにんにもなってくれた。

 しかし、珀陽が皇帝に即位すると同時に、仁耀は世代交代をした方がいいと言い出して禁軍をめ、田舎いなかでのんびり暮らし始めてしまったのだ。

「そうそう、お見合い練習の件だけれど、私が代理を務めておいたよ」

 天河は、出発前の珀陽の『あとは上手くやっておく』を、見合い練習の中止と延期のくちえだと思っていただろう。黙っていてもよかったが、天河の両親が「皇帝にめいじられてしかたなく」という言い訳と事情説明を必ず息子むすこにするはずだ。どうせすぐに知られる。

「……ばれなかったのなら、まあ」

 元々見合い練習に乗り気ではなかった天河は、一言でこの一件を終わらせようとする。

 珀陽はにっこりと笑い、先にあやまっておいた。

「実は、私が代理ということを相手に気づかれてしまってね」

「ばれたんですか」

「でもなんと向こうも代理だったんだよ。きたのはえんこうりんじようではなくて、こうまつちゃん。紅琳嬢は風邪をひいたんだって」

「それは互いに意味のないことをしましたね」

 天河はきまりの悪い顔になる。正直に見合い練習へ行けなくなったと言っておけば、燕家が無理して代役を用意することはなかったはずだ。

「で、なんとひったくりの現場を二人で見てね。そこで茉莉花ちゃんが活躍してくれて、犯人を無事逮捕。私は黎天河として褒美を渡すことにした」

「はぁ、俺はかまいませんが、そこは陛下名義でほうしようを渡すところでは?」

 ただの武官からの褒美よりも、皇帝からの褒美の方が誰だって喜ぶ。

 天河のあきれた声に、珀陽は色々あったんだよとうれしそうに言った。

「茉莉花ちゃんが、ただの女官だから陛下からの下賜品は受け取れないって断ってきてさ。黎天河からってことにしたらきようしてくれた。……まあ、それはさておき」

 珀陽は組んだ手にあごを乗せ、ここではないどこかを見る。

「見つけたんだ、本物の天才かもしれない子を」

「……天才?」

「そう、てんさいをもっているかもしれないのに、本人に自覚がない。あまりにもしようで貴重な才なのに、使い方のはばが広すぎて、どうすべきか私も迷っている」

 まるで恋をしているかのような、とろけるような声。ひとみは新しいおもちゃを手に入れた子どものようにきらきらとしたかがやきで満ちあふれていて、でもとらたけるときのような迫力を感じさせる笑みを口元に浮かべていた。

「──本当の天才なら、私は絶対手に入れる。どんな手を使ってでも」

 珀陽には、時間があまりない。急がなければならない。

 この国のために、多くの天才を集めておき、次の皇帝にささげる必要がある。

(『茉莉花』か。小さくて清らかな白い花。私が最初に見つけた。あれは私のものだ)

 必ずその才を花開かせてみせる。

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