粋に酔う。

桜々中雪生

粋に酔う。

 夕暮れ時、いや、寧ろ、夕日も殆ど海の向こうへ沈もうかという時分に、何とはなしに浜辺を歩いていた折、爪先で硬いものを踏みつけたのに気づいた。貝にしては不自然と感ぜられる程に大き過ぎるし、何より自然物とは思えぬ丸みを帯びている。恐る恐る浜の砂を払ってみると、片手に丁度収まるほどの小瓶だった。コルクで栓をされた中には、小さく折り畳まれた紙が入っているようだった(ようだった、というのは、暗くなっていてよく見えなかったからである)。それで何やら興味がむくむく湧き上がってきて、それを家に持ち帰った。小瓶は、長らく誰の手にも渡らなかったのだろう。固く締まって開かない栓を、あれやこれやと手を尽くし、どうにかこうにか開けてみると、紙の正体はどうやら手紙のようだった。一度読んで、何だこれは、と思った。三度読んでみたが、さっぱり理解できない。これは、その手紙の全文である。


 この文を誰かが読んでいるということは、幸か不幸か、無事に人のいる岸へ打ち上げられたのでしょう。しかし、これを拾ったからといって、別段目を通してくださる必要はありません。これは単なる心情の吐露であり、人様に見せられるものでも、また自分で読み返すものでもなかったものですから。燃してしまおうかと考えたこともあったのですが、一度書き上げたものを灰に帰すのは忍びなく、流れ着くあての知れない海へと放したわけであります。ですから、先に書いた通り、読んでくださる必要はありません。ただ、それでも読むという方ならば、これのことはどうか、他言無用にしていただきたい。それ以外には、何をしても構いませんから。

(ところどころ文が乱れることがあるかも知れませんが、悪しからず。持病の酒呑みの所為です)

 私は元々無学な人間で、嫁を貰ってからも、ろくに働きもせず、その癖をして女房に大きな顔をしておりました。そして、幾らか本を読んだくらいで、いっぱしの学者気取りをしていたものです。たったそれだけで、女房をやれ教養のない人間だ、やれ俺はお前とは違うのだから大人しく従え、とばかにしていたのですから、今思い返しても恥ずかしいばかりでございます。罪深い人間です。キリシタンではございませんが、神に懺悔できるというのなら、これから只管ひたすらに赦しを乞いましょうとも。もしも、本当に神が居て、私の罪が許していただけるのであれば、ですが。

 そのような愚かな私は、太宰を好んで読んでいるのですが、様々、彼のものを読んでみると、どうにもニヒルでセンチメンタルな気持ちがしてきて、世を嘆く男がひょっこり顔を覗かせてきます。そんな時、決まって私は彼に倣って文学など書いてみようと思ってみるのですが、いざ、紙とペンを用意すると、途端、思考は支離滅裂に分散してしまうのです。

 はて。一体文学とは何なのだ。何を以てして文学は文学たるのか。

 そんな茫漠たる思いが漫然と私の中に充満してきて、取り上げたペンはそのまま机へ横たえられてしまいます。私には何もわからぬのです。半人前のくせをして書物などを読んで、一丁前に知ったふうな気になっていただけなのです。茫漠な中に黒い染みがぽつりと落ちて、わからぬ、何も、わからぬ、とぶつぶつ男の呟く声が聞こえてきて、散った思考はまったく何処かへ行ってしまいます。

 霧散した後は文机の上に原稿やら何やらとっ散らかしたままで、安酒を、十回に一遍くらいは地酒の一寸良い日本酒などを、ちびりちびりとします。徒然した中で泡沫に浮かぶ考えを肴に呑む酒は、インテリぶった私を気分良く酔わせてくれるのです。すっかり酔いの回った私は、何やら得意になって千鳥足で再び文机に就きます。そうしてペンを走らせるのですが、酔いの醒め切った頭で読み返してみると、何のことやらさっぱりなのです。ときどきは読めないことだってあります。例えば、──鷗が銭湯で焼き芋をくり抜き、八百屋の店主がそれを吹く。ぱらぴりぴろと音が鳴る。愉快愉快、周りの猿やら狸やら、拍手喝采、涙をだくだく。──こんな具合なのでございます。よくもまあこんな素っ頓狂なことを書けるものだと自分でも感心いたします。

 こうしている間にも、筆が止まり、手が酒へと伸びていきます。安酒は何とも厄介なものです。大して美味くもないくせに、どうにも飲まずには居られなくなる。あれよあれよという間に酒がなくなっていきます。ああ、ほら、気分が良くなってまいりましたよ。今日は蜻蛉とんぼの夫婦が魚籠びくの魚をくすぐっています。水浴びをしていた蝮も大笑いです。北風が東から吹いて、銀杏も丸裸になってしまいました。まだ青々としていたのに、勿体ないですね。おや、どうやら私のもとへ客人のようです。九尺以上もある赤子の影が、(ここから五行ほどは蚯蚓がのたうち回っているように文字が歪み、判読できない。紙のところどころ染みもできている。呑み潰れて猪口をひっくり返しでもしたのだろう)


 どうやら、酒に呑まれてしまっていたようです。見苦しい文が並んでおりますが、このまま書き進めていこうと思います。こうして書いてみましたが、存外まとまらぬものです。私には、文学的な思考よりも、まず文才というものが欠けているのでしょうか。阿呆だとお思いでしょう。このような手紙ひとつ満足に書けぬのです。これで文学を書いた気になっていたのです。甚だ無様な振る舞いでした。はじめの方に、原稿を前にすると思考が散り散りになってしまうというようなことを書いていたと自分で記憶しておりますが、(読み返すのは気恥ずかしく情けなく思われるのでしておりません)ひょっとすると、私には最初から書き起こすほどの思考も意思もなかったのかもしれません。貴方が学のある人間なのか否か、私には知り得ませんが、若し学のない人間だとしても、私が学のある風を装った空虚なホモ・サピエンスであることにお気づきでしょうね。あまりにも薄い皮を被っておりました。その下にある、無価値な自分を隠しきれなかった。もう少し上手く生きてみたかったものです。女房にも愛想を尽かされました。当然です。態度だけ横柄で、才能や思慮などまったくない矮小な男など、あいつには取るに足らない存在だったのでしょう。二人の子供も私とは口を利いてはくれないのです。女房の口から私への悪態などは聞かされていないでしょう。女房は私なぞよりも遥かに潔く、小汚い行為は嫌いですから。ああ、このようなことをきちんと知っていたのに、何故私は道を誤ってしまったのでしょうか。父親の厭なところを何時の間にやら知って、あいつらは私を嫌ってしまいました。食卓に私が現れるだけで、空気がどんよりと重くなります。母と子。それだけで作られる空間の何と甘美なことか。そこに父は要らぬようです。ちっぽけな平屋に、私の心は独りぼっちになってしまいました。今ではすっかり弱ってしまって、母を求める雛鳥のように小さく震えるばかりです。些か回りくどいでしょうか。つまり、私は、寂しいのです。こんなことになる前に、気づいて居ればよかった。今更何を言うかと、自分で嗤ってしまいます。あまりに無様で滑稽でした。才能も学もなく、酒を呑み、酒に呑まれるだけの生涯。私はそれに、うんざりしているのです。私の人生に憤慨して、嘆かわしいとすら思います。そんな下らないものではなく、荒波や何かに飲まれていれば、少しは違ったのでしょうか。書けるものもあったでしょうか。文学を書こう、などと宣っておりましたが、それすらも妄言だったのです。書いてみたこともありましたが、終ぞ完成させられた原稿などありませんから……。

 とどのつまり、要するに、結局のところ、私は、何をも残し得ない、幾千という人間のひとりに過ぎぬのです。私なぞが何か名を残せる筈もありませんでした。そのような底無しの欲求は、早くに捨て去るべきだったのです。これまで書き溜めたものは、すべて捨ててしまうつもりです。そのことを、誰かに知っておいてもらいたいと僅かばかりの望みを捨て切れずに、このような愚昧な行為に及んでしまいました。貴方はきっとこの手紙を訳の分からぬ戯言だとお考えになることでしょう。しかし、どうか、愚かな男のささやかなけじめを、見届けてください。私にはもう、これしか残されておりませんから、この文が終われば、何もかもが終わるのです。

 ここまで書いてきましたが、そろそろ終わりにしようと思います。夕餉の匂いがしてきました。今晩は、猪鍋でしょうか。昔なら喜んでいたでしょうが、今の私には、何も感ぜられません。夕餉の飯が何であったとて、私がどうできましょうか。私にはわかりません。そうです。私には何も、何ひとつわからぬのです。どうです? 貴方にだっておわかりでしょう。私は何をも、知り得なかったのです。


 そうして、文は終わっていた。心情がどうのと最初に書いていたが、それほど書かれているようにも思わぬし、話の順序は明快でなく、読む者の頭を痛くさせる文章だと思った。三度も読んでいると、何やらむかむかと胸焼けまでしてきた。ぎょっとして眉間を軽く揉みこむと、少々楽になった。しかし、読むのに随分と骨の折れる文章であった。成る程、インテリぶっただの、文才に欠けるだのと自分で言っているだけのことはある。妙に納得せられた。耳を澄ますと、隣室から女房と子供の寝息が聞こえてくる。たったこれっぽっちの手紙を三度読み返すだけで、一刻経っていたらしい。さて、と呟いて手紙を抽斗ひきだしに仕舞った。私は、読みかけになっている太宰の『人間失格』に手を伸ばし、続きを読み始めた。

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