偽典・書物の神 ~in the Woods~
私は売れない兼業小説家だ。
30代半ばで何とか新人賞を射止めたまでは良かったものの、デビュー作は鳴かず飛ばず。新作長編の構想も浮かばないまま、毎日PCに向かって世にもしょうもない駄文を書き散らかしている日々であった。
そんなある日。いつものように自室のデスクに座り、クソみたいなショートショートを延々と書き連ねていた時のことである。
「A先生でいらっしゃいますね……」
いきなり背後から声を掛けられ、私は驚いて振り向いた。
そこには、ぱりっとしたスーツに身を包んだ、一人の男が立っていた。
「誰だね、君は」
私が
「わたしは、この世の書物の全てを司る者。強いて言えば『書物の神』といったところでしょうか」
「書物の神?」
「
「田中金次郎! あの高名な!」
「まあ、昔の話です」
男は言った。
「しょ、書物の神様が、どうして私のような弱小作家のもとに……」
「わたしはずっと、あなたのことを見ていましたよ。売れないクソ作家」
「ひどい言われようですね」
「毎日クソのような話を書き続けるあなたの姿に、私は胸を打たれたのです。なのでわたしは、是非あなたに協力したくなった。あなたに良い話を持ってきました。あなたに知識を授けてあげましょう。この世の全ての小説を、あなたの脳に転写してあげようではありませんか」
「なにっ! どういうことだ!」
「言葉通りですよ。今までに地球上で出版された小説は、およそ10億冊ほど。その内容の全てを、あなたの脳にコピーして差し上げましょう」
「ヒーハー!」
私は感激した。この世の全ての小説を私の脳に。
なんということだ。全ての情報をインプットできるということはつまり、全ての小説のネタを手に入れることができるということだ。
そうすれば理論上は、全ての小説をアウトプットできるようになる。
何しろ地球上の物語のパターンが全て頭に入るのだ。
「では、始めますよ」
「はい、是非お願いします。……いや、ちょっと待てよ……?」
しかし、私はここで少し考えた。
なんだか、話がうますぎないか?
何の代償もなく、私のような大した徳も積んでいない人間が神作家に?
そんなおいしい話、あるか?
よくよく考えると、この『書物の神』を自称する男、怪しくないか?
妙に顔色が悪いし、何やら耳がものすごく尖っているし、よく見るとその手には三つ又の槍のようなものを持っているし、ズボンの尻からは黒い尻尾がのぞいている。
こいつ、本当は悪魔か何かで、私を罠に掛けようとしているんじゃないか?
そういえば昔、『この世の全てを知ってしまった人間が、世の無為を悟り自殺してしまう』というショートショートを読んだ事がある。
こいつ、全ての小説を頭に詰め込んで廃人になった私を
まあ、それは杞憂だったとしてもだ。よく考えると、今ここで全ての小説を知ってしまったら、私にはもう新たな読書の楽しみがなくなってしまうではないか。
娯楽のためにも、少しは未読の小説を残しておいた方がよいだろう。
「待ってくれ。やっぱり、この世の全ての小説の情報は要らない」
考え抜いた私は、男に言った。
「全てではなく、そのうちの9割……いや、8割でいいか。8割を私に授けてくれ」
私の言葉を聞いた男は、たちまち不機嫌な顔になった。
「えー? 本当に、それで良いのですか?」
「ああ。8割程度で構わない。欲張りすぎると、何か悪いことが起きそうだからな」
「ちっ、クソ作家のくせに感づきやがったか。……はいはい、わかりましたよ」
男は舌打ちをしつつも、私の頭に
「それではどうぞ。ナンジャラモンジャラホニャラカピー!」
謎の呪文を唱えて私の脳に情報を与えると、書物の神を自称していた男はそのまま何も言わずに消えてしまった。やはり、やつは悪魔の
こうして私はこの世に存在する全ての小説のうち、8割の情報を手に入れた。
これで、新たな小説が次々と書ける。そう思っていた。
「あ……あああっ……」
だがそれは、致命的な間違いだった。
「あああああっ!!!」
私が手に入れたのは。
私の脳にダウンロードされたのは。
「10億冊の小説のうち8億冊の全文」ではなく、
「10億冊の小説の全本文のうち8割」だったのだ。
私は、この世に生み出された全ての小説の、最初からほぼ終わり(=80%)までは読んでいるが、最終盤の20%は読めていないという状況に陥ってしまったのである。
つまり、私は全世界の小説を読みつつ、その最初から8割までしか知らなくなった。
考えてみてほしい。それまで読んでいた全ての小説が、最後の2割を残して白紙になってしまっている状況を。
全世界の300
10億冊の物語を読みながら、その全てが起承転結の『転』で途切れる絶望を。
類稀な英雄譚の一大叙事詩は知っているが、その主人公の壮絶な最期は知らない。
だだ甘な恋物語は知っているが、主人公が最後に誰と結ばれたかは知らない。
驚天動地のミステリは知っているが、そのトリックの正体は知らない。
幻想的なファンタジーは、魔王城の前で知識が途切れる。
「最後の一
オチがすべてのショートショートで、ラストの数行が途切れている。
あああああ。気になる気になる。この世の全ての小説の結末が気になる。
あの話は、最後どうなる。その話はどう落ちたのだ。
読みたい、読みたい、読みたい。
以来、私はB●●KOFFに入り浸った。
全ての書棚、全ての物語を立ち読みし、この世のあらゆる物語の結末を読み耽った。
少しは満足した。
少しだけは腑に落ちた。
10億冊の物語のうち、数千冊はその結末を知れた。
まるまる一年かけて、世界に溢れる物語の0.000数%はその結末を知れた。
だが足りない。まだまだまだまだ足りない。あの物語はどんな結末を迎えた? あの愛憎劇の末、彼女は最後に誰とどうやって結ばれた? あの不憫な侍の仇討ちは成功したのか? あの不可能殺人のトリックは何だった? 事件を影から操る本当の真犯人は誰だったのだ? 気になる気になる気になる。読みたい読みたい。でも全てを読む時間は一生を賭けても稼げない。私は発狂しそうになった。いや、もう発狂しているのか私は。
もう、小説など書いている場合ではなかった。読むだけで手一杯なのだ。食う間も寝る間も惜しんで、私はひたすら物語を読み続けた。作家は廃業した。人間も廃業した。私は昼夜を問わず物語を読むことしかしない廃人となった。
しかし。
何年も何年もB●●KOFFに通いながら
私は、この状態を打破する方法が一つだけ存在することに気づいたのだ。
そうか。
その手があったぞ!!
いま置かれている状況を解決できる、
自分の神がかった発想に感激した私は小躍りし、独りで祝杯をあげた。
その晩、私は数年ぶりに熟睡し、安らかな眠りにつくことができたのである。
さて翌日。私はさっそく、ネットの闇通販サイトで大量のギ
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