八月九日
あと何度知らない男の家の換気扇の下で煙草を吸えば、私は幸せになれるのだろう。
メンソールの煙草を吸いながら、愛理はふと思う。
ベッドには長髪の男が裸で寝ていた。名はマサハルとかいっただろうか。
半分まで吸った煙草を灰皿に押し付けると
マサハルの冷蔵庫を物色し、グリーンスムージーを手に取りボトルのまま唇をつけて飲んだ。
「もう用はない」
悪役が手下を始末する時のようなセリフを残し、愛理はマサハルの家を後にした。
来週、酔花のみんなとサークルオブライフの手がかりを掴みに福島へ行く。
愛理は母親と死別していた。例えそれが実物でなくても、幼き頃の思い出に残る母に擬似的にでも会えるならそれはとてもステキな事だった。
ワイヤレスのイヤホンを片耳につけると、ビリージョエルを流す。
八月とはいえ朝四時の空気はきりりと澄んでいて、昇る太陽がビルの隙間からまぶしい光を届けてくれる。運動会の日の朝みたいだな、と愛理は思った。街灯が申し訳なさそうに弱い光を放っている。
朝日も街灯も、頑張って街に活気を与えている。世界はこんなにも輝いている。
しかし愛理の心は空白に満ちていた。
物心ついた頃から、周りの人間が何を考えて生きているのか、皆目見当がつかなかった。東京に出てきてからは更に実感するようになった。
渋谷の街なんかを歩いてみても、人混みに揉まれて疲れ、慣れないヒールで足を痛めるだけだった。
愛理にとって世間は油なのだ。純真無垢な水である私とは決して交わる事はない。
こんな感覚、誰かに話して伝わるものか。
人に言わせれば私は顔が可愛らしく出来ているようなのでーーもっとも私はそれすら信用出来ず、要するに及第点を取っていてしかし高嶺の花ってほどでもない、ちょうど手を出しやすいって事なんだろうと未だに思っているーーその辺の居酒屋で少し物憂げそうに頬杖でもついて酒を飲んでやれば、男はいくらでも寄ってきた。
「どしたん?悩みあるなら話聞こうか?」
私の苦悩などお前らに分かってたまるか。
しかし愛理はいつもギリギリの所で人間に希望を抱いてしまう。
そうして期待をした数だけ、失望を味わうことになる。
中身のないくせに図体だけは一人前で、針で刺せば大げさな音を立てて割れ、あとには何も残らない風船のような時間。
通勤ラッシュに揉まれて帰宅する。
玄関の扉を開けるとガーネッシュの香りが鼻をくすぐり、副交感神経が活発になる。
六畳のワンルームにユニットバス、かろうじてキッチンが備え付けてあるだけのこの空間に、一ヶ月七万円というお金を消費して愛理は東京にしがみついていた。
「明日は何しようかなあ」
どこにも行くあてなどない。
持て余した自由な時間は、目的のない気怠さと実体のない不安(もっともそれは、リボルビングの利息や、まだ返信していないメッセージや、たまにゴロゴロ音を立てる隣人や、態度の悪い最寄りのコンビニの店員や、排水口に溜まったゴミの掃除や、生きていく上でのあらゆるストレス、具体化しだしたら枚挙に暇がないものの集合体である)によって、何をするでもなくするでもなく、狭い部屋で鬱屈と消費されてしまう。
漠然としたもやもやから逃れる術を、愛理は知っていた。答えは白い冷蔵庫に眠っている。
度数の高いぶどう味の缶チューハイを取り出すと、愛理はぐりゅぐりゅ喉を鳴らし流し込んだ。
シラフで悩みと対峙なんてまっぴらごめんだ。私の闇は暗く深いのだ。眩しく輝く光さえ取り込み永遠に逃がさないブラックホールなのだ。
チューハイを飲みながら、太宰治の人間失格を読んだ。
愛理は通算十回以上はこの本を読破しているのだが、妙な中毒性があり、本がクタクタになるまで何度も読んでしまう。
やがてテーブルの上に空き缶が三本、四本と並び始めた辺りで、完全に集中力をなくしてしまった。
中枢神経をアルコールに支配され、得体の知れない多幸感に包まれる。
愛理が一人で酒を飲む時は、必ず本を読む。そうして酔いが深まれば次の段階へいく。
五万円で買った、小ぶりながら中々音質の良い赤色のスピーカーの電源をつけ、ショパンの夜想曲を流す。
繊細なピアノの旋律、その一音一音が愛理の耳を経由して脳に響き、そうしてなんとも優雅な気分に浸る。
言葉も通じない、何百年も前にいなくなった人の心情が、今ピアノを介して私の中へと流れ込んできて一体となる。
どこか遠い場所にある静かな湖畔で、恋人と二人、暖かい月の光に照らされながら、小さなボートを漕ぐ情景が目に浮かぶ。
ピロン。スマホにメッセージが届く。
幻想的な音色に酔いしれていた所を一気に現実に引き戻される。確認すると、マサハルからだった。
「昨日は楽しかったね。また今度飲みに行こうよ」
スマホを操る親指を左に大きくスライドすると、いくつかの項目が表示される。返す刀でブロックを押す。
薄汚れた世界はもううんざりだ。
なんだか興醒めしてしまった。
スピーカーの電源を切ると、転がっていたアルパカのぬいぐるみを枕がわりにして、そのまま床に寝転がる。
午後十二時のチャイムが外から聞こえる。
愛理はひどくノスタルジックな気分になり、亡き母への思いを募らせた。
サークルオブライフ、あればいいなあ。
誰でも蘇らせられるアプリ 紅井幻 @akaigen712
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