第5話 冬
冬である。
私は冬が嫌いだ。
寒いし、空が高くて、取り残されたような気持ちになるから。
私は、冬がどうにも苦手だ。
「お疲れ様です」
そう、まだ残っている同僚に頭を下げて営業所を後にする。
冬は年末が近いこともあり、仕事が忙しくなりがちだ。そのおかげで、飲みの誘いを断る手間が省けていいけれど。
「……さむ」
ふう、と息を吐けば冬の空へと白い息が溶けて行った。
冷気から逃れるように、柳くんから貰ったばかりのマフラーに頬をうずめて、すっかり暗くなった道を歩く。
早いもので、柳くんは大学三年生になった。
この間なんて、何かの選手に選ばれたとかで強化合宿に行っていた。生意気な。
最近、彼はとても忙しそうだ。
スポーツ推薦で入ったからと言って、授業やレポートが丸々免除されるわけではないらしい。単位だ提出期限だと、部屋に来ても以前のように長居することは少なくなった。
なに考えてるんだろ、私。
これだから冬はダメだ。原因不明のネガティブに食い殺されそうになる。こういう時はさっさとお風呂に入って寝るに限るということを、二十云年の経験で私は知っている。
そう、大きく深呼吸するように溜息をついて、二階建てのアパートの階段を上がる。
部屋の鍵を開け、ドアノブを引いて。そこに広がっていた光景を見た瞬間、私はその場から動けなくなった。
「……え?」
風が、吹いている。冷たい風が、部屋の中から外へと。
割れた窓ガラス。夏の入道雲がよく見えるからと選んだその大きな窓が割れて、カーテンを揺らしている。
ぐちゃぐちゃになった、部屋の中。
「……え?」
空き巣、と口の中で呟けば、ひゅ、と冷たい空気が喉の奥に詰まった。
血管に針を刺し込まれたみたいに背筋が凍って、全身の毛穴が開く。耳の奥まで脈が打つ。心臓が、ばくばく、暴れまわる。
どうしよう。どうすれば。大家さん。手紙、あの手紙はどこ。盗られた? 違う、警察呼ばなきゃ。電話、110番、違う、119番?
スマホを取り出そうにも、手が震えて上手く行かない。何度も落としてしまいそうになりながら、必死に液晶をタップする。
『もしもし? 琴ちゃん?』
「……あ、あれ、」
『琴ちゃん、どうしたん? 大丈夫?』
着信履歴に残っていたからか。
それとも、無意識的に彼を選んだのか。
いつの間にか繋がっていた電話。
柳くんの声に、やっと私は、自分が上手く呼吸を出来ていない事に気が付いた。
『今どこ、どうしたん。琴ちゃん、大丈夫?』
「……家、が、なんか、あの」
空き巣が、入ったみたい。と。
いつもの調子でおどけてみせようと思ったのに、声が震えて。電話の向こうで柳くんが息を飲む。
そうして、彼は怒鳴るように私へと叫んだ。
『今どこや!? まだ部屋おるんか!?』
「い、いる。警察に、電話、」
『そんなん後でええ! 今すぐそこ出て、コンビニまで走れ! 部屋はそのままでええから!』
「でも、あの、手紙、手紙探さんと、」
『琴美!』
柳くんが、叫ぶ。試合中だって、そんな声出さないでしょって、そう思うくらい。びりびり、喉を絞ったみたいな声。
『琴美、しっかりせえ! 今すぐそこ離れて、明るいとこ行け! 俺、すぐ行くから!』
「わ、分かった」
『電話このまま切んなよ!?』
「は、はい」
電話を耳に当てたまま、アパートの階段を駆け下りて、一番近くのコンビニに向かって走る。真っ暗な道が、昨日まで何とも思っていなかったそこが怖くて、心臓が痛い。
『俺、今、家出たから。10分で着くから』
「うん。ごめん、なんか、ごめん」
『ええから、琴ちゃん』
到着した最寄りのコンビニ。柳くんに言われるがまま、店員さんから警察に連絡をしてもらい、店内で待たせてもらう。
待つこと数分、現れたのはスウェット姿の柳くんで、「寒くないの」と言うよりも先に抱え込むように抱き締められた。
柳くんの胸に押しつけた頬。
胸の皮膚を押し破って出て来ちゃうんじゃないかってくらい、信じられないくらい早く、強く打つ心臓の音を感じた。
「大丈夫? 怪我とかしとらん?」
「してへん。大丈夫」
「さっき、電話で怒鳴ってごめん。怖いの、琴ちゃんの方やのに、俺、パニクって……、」
「……ありがとうね、柳くん」
それからしばらくして、コンビニの前にパトカーが到着した。出て来たお巡りさんは私と柳くんにパトカーの後部座席に乗るように言って、アパートの前に車をつけた。
部屋を調べるお巡りさん達の背を横目に、柳くんと並んで玄関から部屋の中を見つめる。
割れたガラスが散乱する床。そこに転がる引き出しや服。その中から取って来た封筒を、ポケットにねじ込んだ。
「今日、どうするん」
そう、スウェット姿の柳くんは低い声で私へと問いかける。その鼻や頬が赤くなっているのを見て、ああ、早く帰してあげなきゃな、なんてことをぼんやりと思った。
「今日言うか、しばらくは住めんやろ。清掃業者入れて……て言うか、こんなとこもう怖ぁて住めんわな、ごめん」
「……うん」
「どうする? しばらく実家帰る? おばさんら、県境に引っ越さはったんやっけ」
「……うん」
ぎゅう、と知らず握り締めていた手。ポケットの中で、ぐしゃりと手紙が潰れる。
そんな私の異変に気付いたのだろう。柳くんが、「琴ちゃん」と静かに私の名を呼んだ。
ああ、ごめん、柳くん。私、こんなで。
「……帰れへん」
「……なんで」
「去年、親が離婚したんよ」
そう、無理矢理に口角を上げて呟いた私を柳くんが見下ろす。状況を理解出来ていないらしい幼馴染みへと、ぐしゃぐしゃになった手紙を差し出した。
「多喜子さん、ほんまに全部黙っててくれはったんやね。そら、教育上良うないか」
柳くんの目が、文字を追う。ちゃんと読めてるのか疑わしいくらい、動揺にゆらぐ瞳で。
「元々、仲のいい夫婦やなかったけど……私が高三の冬に、お母さんが出て行って」
声が、揺れる。鼻の奥が痛くて、水っぽい鼻水をすする。「ここ寒いね」って、自分に言い訳でもするように笑いながら。
「ずっと別居やったし、いつか正式に離婚するんやろうなぁとは思っとったんやけどね。実際、そうやって、手紙で言われるとさ」
そう、笑ったつもりが、喉が絞まって嗚咽が漏れる。
いつか離婚するって、わかってた。
わかってたけど、目の前でそうなってしまったら、そしたら、何もかもが分からなくなる気がして、怖くて、一人になることを選んだ。
「失敗した結婚の、その末に生まれた私は、なんなんやろう」
「……琴ちゃん」
「一人で生きられたら、自立したら、真っ当な人間でいられるんちゃうかって、思って。ここにおったら、もしかしたらまたお母さんから手紙来るんちゃうかって……もしかしたら、迎えに……なんて、そんなん、来るわけあらへんのわかってんのに、私、」
「琴ちゃん」
「帰られへん。どこにも、帰られへんの」
視界が滲む。大粒の熱い雫が頬を濡らしていくのを感じながら、それでも口だけは笑顔を模ったまま、私を抱き寄せる男を見上げる。
柳くんは、痛いのを我慢するみたいに顔を歪めていた。真っ黒の瞳に目一杯、涙の膜を張って。
彼は、噛み締めていた唇を開く。
「琴ちゃん、俺と結婚しよう」
「……あんた、話聞いとった?」
「違う。結婚なんかせんでいい。住もう、一緒に、住もう。琴ちゃん」
二人で、と。そう言って柳くんは私の頭を抱え込む。そうして、私の頭に顎を乗せて、確かめるように何度も私の背を撫でた。何度も、何度も。私がそこに存在することを確かめるみたいに。
「そんなん、おかしいよ。琴ちゃんがなんにも考えんと、無条件に帰って来られる場所がないなんて、おかしいよ」
「……慣れたはずやったんよ」
「慣れたらあかんよ。寂しいのに慣れんでよ。そんなん寂しいよ、俺」
一緒におろう。一緒におろう、俺達。
そう、私の肩をやわく掴んで。揺れる瞳で私を真っすぐに射抜く男に、小さく頷く。
現場検証が終わり、家まで送ると言ってくれたお巡りさんの申し出を私達は丁重に断った。すっかり日付の近くなった冬空の下を、二人、手を繋いで歩く。
「すぐには、ラクにはならんと思う」
「なにが?」
「気持ち、入れ替えんの」
ぽつり、ぽつり、私達は穏やかに言葉を交わした。繋いだ手を振って、子供の頃みたいなスピードで歩きながら。
「受け入れるにしても、何かが変わる時って、どうしても歪むやん。骨とか、筋肉とか。歪みながら伸びて、そんで、落ち着くん」
「……成長痛かぁ」
「全部終わったら一気に視界が高うなって、ぱあって、目の前が晴れるんよ」
相変わらず心はぎしぎし痛む。
ポケットの中の手紙はやっぱり捨てられないし、冬の空はなんだか怖い。
それでも、左手を包む大きな手の、そのあたたかさが私に教えてくれる。
ここに居るよって。一人じゃないよって。
「今言うべきや思うから言うけど、俺、たぶん大阪の企業チームに就職決まる。どうする? 琴ちゃん、どんなとこ住みたい?」
「窓の大きいとこ」
「俺はなー、台所の高さが高めのとこがええんよなー。あとお風呂大きいとこ」
「その身長やもんなぁ」
「琴ちゃんとちょっとエロい事もしたいし」
「アホやろ」
そう笑えば、笑顔が返って来る。白い息が混ざり合って、真冬の空へと溶けていった。
今年は冬を愛せそうだと、そう思った。
男子、3日会わざれば! よもぎパン @notlook4279
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