王准之3 風素に寡乏す  

425 年、劉義恭りゅうぎきょうの副官兼歷陽れきよう太守に。

併せて江州こうしゅう府の諸務を代行した。

その決済は理にかなったものであり、

兵も民もその判断を頼りとした。

その後中央入りし、侍中に。


426 年には都官尚書となり、

さらに吏部尚書に。


その性分はかなりせっかちであり、

そのためいわゆる風雅からは

縁遠い振る舞いをなしていた。

丹陽たんよう尹となった。


王准之おうじゅんしは過去の儀礼に通暁しており、

どんな質問にも

たちどころに答えてみせた。

この頃大将軍となっていた劉義康りゅうぎこう

尚書の業務を取りしきっていた時に、

このように嘆息していたという。


「ご高説や机上の空論は要らん。

 王准之の隣にもう二人、

 合計三人の王准之さえおれば、

 世は治まろうにな」


とは言え、上でも語った通り

風雅のふの字もない性分である。

貴族たちは王准之を重んじなかった。


王准之は家伝を活かし、

儀礼に関する注を書き上げた。

この注は、斉梁せいりょうの時代になっても

現役で用いられている。


433 年に死亡。56 歳だった。

太常を追贈された。


子の王興之おうこうしは征虜主簿となった。

代々御史中丞と言う呪いは

解かれたようである。




元嘉二年,為江夏王義恭撫軍長史、歷陽太守,行州府之任,綏懷得理,軍民便之。尋入為侍中。明年,徙為都官尚書,改領吏部。性峭急,頗失縉紳之望。出為丹陽尹。准之究識舊儀,問無不對,時大將軍彭城王義康錄尚書事,每歎曰:「何須高論玄虛,正得如王准之兩三人,天下便治矣。」然寡乏風素,不為時流所重。撰儀注,朝廷至今遵用之。十年,卒,時年五十六。追贈太常。子興之,征虜主簿。


元嘉二年、江夏王義恭の撫軍長史、歷陽太守と為り、州府の任を行ず。得理を綏懷し、軍民は之を便とす。尋いで入りて侍中と為る。明くる年、徙りて都官尚書と為り、改まりて吏部を領す。性は峭さか急にして、頗る縉紳の望を失う。出でて丹陽尹と為る。准之は舊儀を究識し、問に對えざる無く、時の大將軍の彭城王の義康の錄尚書事とならば、每に歎じて曰く:「何ぞ高論玄虛を須めんか、正に王准之が如きを兩に三人得らば、天下は便ち治まりたらん」と。然れど風素に寡乏せば、時流に重んぜらる所と為らず。儀注を撰じ、朝廷は今に至るまで之を遵用す。十年に卒す、時に年五十六なり。太常を追贈せらる。子の興之は征虜主簿となる。


(宋書60-11_為人)




征虜主簿どまりってことは夭折かなあ。それにしても王准之は琅邪ろうや王氏らしからぬ振る舞いの人、という感じっぽいですね。まぁそもそも王導おうどう系ではないし、そんなもんなのかな。王導系以外の琅邪王氏って肩身狭かったんじゃないかなあ。そん中でも王彬おうひん系は名が残っているほうでしょうね。


こう言う傍系琅邪王氏の擦り切れ方見てると、「現代人の先祖を辿ればみな貴種に行きつく、何故なら貴種でない家柄の子孫は絶滅するからだ」って言う言説に一定のもっともらしさを感じてしまう。

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