范泰8 後進の教育者
425 年の秋に
日照り+イナゴのダブルパンチ。
相当に災害に悩まされた感じだ。
ここで
内容を大雑把に言えば
「
妻子にまで及ぼしてはならない。
そこがはっきりしていなかったために
この災禍が起こっていたのではないか」
えっどうゆう理屈? よくわからないが、
ともあれ謝晦の妻子らは許された。
この頃、
なにせ弟と、族弟が文帝の側近である。
その状態はヤバいんじゃないか、
范泰、王弘にアドバイスをする。
「政治の場では何が起こるか
分かったものではない。
政権の中心に長居するのは、
もとより難しかろう。
いま、そなたら兄弟は、
まさに枢要におるわけだが、
その勢いを、少し自主的に
削いでおいた方がよかろう。
ここは、どうだ。
陛下の弟君、
任地より中央にお戻しになり、
朝政に参画させて
おくべきではなかろうか」
王弘、このアドバイス通りにした。
范泰は読書、執筆を非常に好んだ。
また後進の育成にも精力的であった。
『古今善言』、つまり歴史上に伝わる
名言集を二十四巻ぶん編み、
別に自らの著した文章をまとめた。
これらはみな広く世に伝わった。
最晩年には仏教に傾倒、
自宅の西側の敷地に
死亡は 428 年。74 歳だった。
車騎將軍を追贈、宣侯と諡された。
范泰の息子も紹介しておこう。
長男の
次男の
三男の
四男の
後に謀叛を起したため、処刑された。
なのに後漢書は世に伝わったのだから、
どれだけ後漢書の評価が高かったのか、
という感じである。
そして末子の
ちなみに、たぶん本名は
南斉の皇帝、
避諱している、と思われる。
かれは文才が非常に高く、後に皇位につく
范曄の謀叛に連座し、処刑された。
其年秋旱蝗,上書奏,上乃原謝晦婦女。時司徒王弘輔政,泰謂弘曰:「天下務廣,而權要難居,卿兄弟盛滿,當深存降挹。彭城王,帝之次弟,宜徵還入朝,共參朝政。」弘納其言。泰博覽篇籍,好為文章,愛奬後生,孜孜無倦。撰古今善言二十四篇及文集傳於世。暮年事佛甚精,於宅西立祇洹精舍。五年,卒,時年七十四。追贈車騎將軍,侍中、特進、王師如故。諡曰宣侯。長子昂,早卒。次子暠,宜都太守。次晏,侍中、光祿大夫。次曄,太子詹事,謀反伏誅。少子廣淵,善屬文,世祖撫軍諮議參軍,領記室,坐曄事從誅。
其の年の秋に旱蝗あらば、上書して奏じ、上は乃ち謝晦が婦女を原す。時に司徒の王弘の輔政せるに、泰は弘に謂いて曰く:「天下の務め廣かれば、權要は居せるに難し。卿の兄弟は盛滿たらば、當に深く降挹を存すべし。彭城王は帝の次弟なれば、宜しく徵還し入朝せしめ、共に朝政に參ぜしむべし」と。弘は其の言を納む。泰は篇籍を博覽し、文章を為すを好み、後生を愛奬し、孜孜と倦む無し。古今善言の二十四篇、及び文集を撰じたるは世に傳わる。暮年には佛に事うること甚だ精にして、宅の西に祇洹精舍を立たしむ。五年に卒す、時に年七十四。車騎將軍を追贈され、侍中、特進、王師は故の如し。諡して宣侯と曰う。長子の昂は早きに卒す。次子の暠は宜都太守なり。次の晏は侍中、光祿大夫なり。次の曄は太子詹事なれど、反を謀り誅に伏さる。少子の廣淵は屬文を善くし、世祖の撫軍諮議參軍となり、記室を領せるも、曄が事に坐し誅に從う。
(宋書60-8_規箴)
范泰さん、他の人の伝だと割とアオりキャラなのにご本人の伝では大人しいですね。このひとの本領はよその人の伝にカチコミかけた時だなー、とつくづく実感。なーに劉義隆に対していい子ちゃんぶっとんのじゃ。
いや、劉義隆もそのアオりキャラっぷりは把握してたのかもしれない。ほんと趙倫之伝の時の振る舞いとか、次の王准之に対するセリフとか、結構ブッ込んできますものねぇ……。
范昭
根拠としては范泰の息子兄弟に「日」が共通していること。となると末子の范広淵も「日」字を抱えた名であることが想定され、ではなぜそこが伏せられるかと言うと沈約が南斉時代に宋書の大部分を書いたからなのだ。
……って書いてみたあと宋書検索してみたけど、案外「昭」使われてるんだよなあ。いや用例結構少ないですけど。あと、上の四人と母親が違った場合には、字を共有させなかったりもするんですよね(例えば
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