范泰4  宋国中の簡雍

息子のいなかった、劉道規りゅうどうき

かれは劉義隆りゅうぎりゅうを養育していた。

そのまま息子をなすことなく、死亡。

その追贈封爵地、南郡なんぐんは、劉道憐の次男、

劉義慶りゅうぎけいが継承することとなった。


劉裕りゅうゆう、劉道規が劉義隆を

愛していたことから、

劉義隆に継承させてはどうだ、と言う。

が、劉義隆はすで華容かよう県公を

継承済みであった。

なので范泰はんたいは言っている。


「劉裕様、さすがにそれは

 弟御への思いが行き過ぎです。


 二つの爵位継承など礼法に基づけば

 決してありえぬこと。


 ご子息の爵位は変更なく、

 そのままとなさいませ」


それもそうか、

劉裕、この意見に従った。


司馬徳文しばとくぶんの副官や右衞將軍となり、

散騎常侍を加えられた。

のちに尚書となったが、

散騎常侍であることはもとのままだった。


更には三公である司空にも就任。

ただし、これは名誉称号のようなものだ。

右僕射の袁湛えんたんとともに、

劉裕が長安ちょうあんを落とした段階で

宋公そうこう、九錫を授けられるだけの

重みをもたせる肩書に過ぎない。


北伐軍に付き従い、洛陽らくよう入り。

また劉穆之りゅうぼくしの死によって

急遽彭城ほうじょうに帰還したときには、

共に城に登った。


ところで范泰は足に病を抱えていた。

そのため移動にも、手押し車を

用いることが特別に許されていた。


大の酒好きで、細かいことにこだわらず、

心の赴くままに振る舞う。

公的な場でも、まるで

私的な場にいるかのような

リラックスぶりであったという。

そのふるまいが、

おそらくずっとギスギスして

おらねばならなかった劉裕にとって、

一種の癒やしとなっていたのだろう。

劉裕に寵愛されていたという。


が、政務の手腕はアレ。

なので、たとえば護軍將軍にしてみると、

すぐにポカをやらかして首になった。




初,司徒道規無子,養太祖,及薨,以兄道憐第二子義慶為嗣。高祖以道規素愛太祖,又令居重。道規追封南郡公,應以先華容縣公賜太祖。泰議曰:「公之友愛,即心過厚。禮無二嗣,義隆宜還本屬。」從之。轉大司馬左長史,右衞將軍,加散騎常侍。復為尚書,常侍如故。兼司空,與右僕射袁湛授宋公九錫,隨軍到洛陽。高祖還彭城,與共登城,泰有足疾,特命乘轝。泰好酒,不拘小節,通率任心,雖在公坐,不異私室,高祖甚賞愛之。然拙於為治,故不得在政事之官。遷護軍將軍,以公事免。


初、司徒の道規に子無く、太祖を養わば、薨ぜるに及び、兄の道憐の第二子の義慶を以て嗣と為す。高祖は道規の素より太祖を愛せるを以て、又た令し重きに居せしめんとす。道規の南郡公を追封さるに、應に以て先に華容縣公を太祖に賜う。泰は議して曰く:「公の友愛なるは即ち過厚なると心す。禮に二嗣無く、義隆は宜しく本屬に還ずべし」と。之に從う。大司馬左長史、右衞將軍に轉じ、散騎常侍を加う。復た尚書と為り、常侍は故の如し。司空を兼ね、右僕射の袁湛と與に宋公九錫を授けんと軍に隨い洛陽に到る。高祖の彭城に還ぜるに、共に城に登り、泰に足疾有らば、特に命じ轝に乘らしむ。泰は酒を好み、小節に拘らず、通率なるは心に任せ、公坐に在したりと雖ど、私室と異らず、高祖は甚だ之を賞愛す。然れど治を為すにては拙く、故に政事の官に在せるを得ず。護軍將軍と遷るも、公事を以て免ぜらる。


(宋書60-4_政事)




……簡雍かな?


と思って調べてみたら、結構合致する感じだった。劉備のそばにあって献策云々というよりは雑談相手としてそばにいた人物。そうやって考えると、礼に二嗣無しとか、結構直言に勇気のいる言葉だと思うし、信頼は受けてたんでしょうね。

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