范泰3  王元泰が一流の人

桓玄かんげんが打倒された後、國子博士となった。


司馬休之しばきゅうしが西府軍の取り締まりとなると、

その副官となって同行。南郡なんぐん太守に。

長沙ちょうさ相、散騎常侍への転任も諮られたが、

こちらは辞退した。


その後中央に戻り黃門郎、御史中丞に。

が、そこで祭礼についての

失態があったため解任され、

無官のまま職務についた。


410 年に東陽とうよう太守となったとき、

盧循ろじゅんの逆襲に遭遇する。

ここで范泰はんたいは千人の兵らと共に

食料貯蔵庫を開けて配給に回った。

この働きから、振武將軍位を得た。



411 年に侍中に、さらに度支尚書に。

当時の尚書僕射の謝混しゃこん

次世代のホープとして名を知られていた。


劉裕りゅうゆう、謝混に対して質問したことがある。


「范泰殿は、果たしてどのような方と

 比較されるに値致しましょう?」


なんかちょっとへりくだった感じで

聞いたそーである。


謝混は答えた。


王元太おうげんたい、でありましょうかな」


あっこいつやらかしてやがる。


王元太、三国史上では王元泰。

本名は王謀おうぼうと言う。

しょくの建立に尽力した忠臣の第十五位。

すごい人だったが、

三国史編纂の時期には伝記が失われ、

そのため立伝が叶わなかったという。


ついでに言えば

「ん、劉裕くんはこの辺の人物

 知ってるかな、ん、んん?」

的挑発にも見える。

なかなかいろいろ捻じくれた意図を

伺えそうな発言である。

謝混さんに対して偏見持ちすぎですかね。

まあいいや。


その後、太常となった。




義旗建,國子博士。司馬休之為冠軍將軍、荊州刺史,以泰為長史、南郡太守。又除長沙相,散騎常侍,並不拜。入為黃門郎,御史中丞。坐議殷祠事謬,白衣領職。出為東陽太守。盧循之難,泰預發兵千人,開倉給稟,高祖加泰振武將軍。明年,遷侍中,尋轉度支尚書。時僕射陳郡謝混,後進知名,高祖嘗從容問混:「泰名輩可以比誰?」對曰:「王元太一流人也。」徙為太常。


義旗の建つるに、國子博士となる。司馬休之の冠軍將軍、荊州刺史と為るに、泰を以て長史、南郡太守と為す。又た長沙相,散騎常侍に除せらるも並べて拜さず。入りて黃門郎,御史中丞と為る。殷祠の事の議に謬なるに坐し、白衣にて職を領す。出でて東陽太守と為る。盧循の難にては泰は發兵千人を預り、倉を開け稟を給さば、高祖は泰に振武將軍を加う。明くる年に侍中に遷り、尋いで度支尚書に轉ず。時の僕射の陳郡の謝混は後進に名を知られ、高祖は嘗て從容として混に問うらく:「泰が名輩は以て誰ぞと比ぶらんか?」と。對えて曰く:「王元太に一なる流れの人なり」と。徙りて太常と為る。


(宋書60-3_為人)




王謀

楊戯ようぎの『季漢輔臣賛きかんほしんさん』にのみその名が挙がっているという人物。かれに関する評は少府修慎、宣班大化、或首或林(王謀さまはよく身を修められ、劉備様の即位によく尽力されました)というもの。その後に寸評がある。

それによれば容止操行に優れ、はじめ劉璋りゅうしょうに仕え、蜀の支配者が劉備りゅうびに変わっても地位を保った。劉備が漢中かんちゅう王になったときに少府とされたので王少府と呼ばれるらしい。しかしまぁ伝が失われてるあたりから色々アレ。

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