巻59 次代の官僚の親

殷穆   特進となったひと

息子の殷淳いんじゅん伝にその名が載る、殷穆。

ちん長平ちょうへい県の人、

要は殷浩いんこう殷仲堪いんちゅうかんの親族だ。

祖父の殷融いんゆう、父の殷允いんいんはともに晋の太常。


人々を円滑につなぐ控えめな振る舞いで

周囲からは称賛されていた。

重要な任務を歴任し、五兵尚書から

相國となった劉裕りゅうゆうの副官に。


劉裕が即位すると、

散騎常侍、國子祭酒となったのち、

再び五兵尚書、郡太守となる。


なお五兵尚書と言うのは、

五つの兵部を取りまとめをする長官、

とのことである。

軍務に携わる、最も偉い文官、

となるだろうか。


劉義隆りゅうぎりゅうが即位すると金紫光祿大夫に。

また竟陵きょうりょう王(劉誕りゅうたん)師に。

その後護軍将軍となり、

特進に任ぜられ、右光祿大夫となり、

始興王(劉濬りゅうしゅん)師となった。


438 年に在職のまま死亡。60 歳だった。

元子と諡された。




殷穆,陳郡長平人也。祖融,父允,並晉太常。以和謹致稱,歷顯官,自五兵尚書為高祖相國左長史。及受禪,轉散騎常侍,國子祭酒,復為五兵尚書,吳郡太守。太祖即位,為金紫光祿大夫,領竟陵王師,遷護軍,又遷特進、右光祿大夫,領始興王師。元嘉十五年卒官,時年六十,諡曰元子。


殷穆、陳郡の長平の人なり。祖は融、父は允、並べて晉が太常なり。和謹を以て稱うるを致し、顯官を歷し、五兵尚書より高祖が相國左長史と為る。受禪せるに及び、散騎常侍、國子祭酒に轉じ、復た五兵尚書、吳郡太守と為る。太祖の即位せるに、金紫光祿大夫と為り、竟陵王師を領し、護軍に遷り、又た特進、右光祿大夫に遷り、始興王師を領す。元嘉十五年に官にて卒す、時に年六十。諡して元子と曰う。


(宋書59-1_為人)




んー、なんか陳郡殷氏の扱い軽いですねえ。列伝はこのあと劉義隆世代以降の人物を紹介するわけですが、


淳少好學,有美名。少帝景平初,為祕書郎,衡陽王文學,祕書丞,中書黃門侍郎。淳居黃門為清切,下直應留下省,以父老特聽還家。高簡寡慾,早有清尚,愛好文義,未嘗違捨。在祕書閣撰四部書目凡四十卷,行於世。元嘉十一年卒,時年三十二,朝廷痛惜之。

子孚,有父風。世祖大明末,為始興相。官至尚書吏部郎,順帝撫軍長史。

淳弟沖字希遠,歷中書黃門郎,坐議事不當免。復為太子中庶子,尚書吏部郎,御史中丞,有司直之稱。出為吳興太守,入為度支尚書。元凶妃即淳女,而沖在東宮為劭所知遇,劭弒立,以為侍中、護軍,遷司隸校尉。沖有學義文辭,劭使為尚書符,罪狀世祖,亦為劭盡力。世祖剋京邑,賜死。

沖弟淡字夷遠,亦歷黃門吏部郎,太子中庶子,領步兵校尉。大明世,以文章見知,為當時才士。


とまぁ、淡々と紹介されちゃってます。殷穆の息子たちのうち、次男の殷沖いんちゅう劉劭りゅうしょうによる劉義隆弑逆事件に大きく関わったのが響いてるんでしょうか。しかし弑逆事件にかかわってる割に三族ブッ殺喰らわないのが名族ですねぇ、ほんに闇が深い。

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