蔡廓4  皇子の席次 下 

傅亮ふりょうからの諮問に、蔡廓さいかくは答える。


劉義真りゅうぎしん様の席次についてだが、

 確かに検討はすべきかもしれん。

 しかし、席次は官位に基づいており、

 爵位には基づいてはいない。

 また皇子を特例扱いにせよ、

 と言う規定もない。


 西晋の時代、司馬炎しばえんの弟、司馬攸しばゆう

 驃騎将軍であった時に、

 孫呉そんご皇族の孫秀そんしゅうが臣下に降った。

 司馬炎は孫秀を優遇するため

 驃騎将軍につけたが、

 併せて司馬攸を鎮軍大将軍に

 引き上げている。


 そなたの申す通り、皇族に

 特別対応がなされるのであれば、

 皇子であれば、もうそれだけで

 席次が高くなり、

 いちいち官位を引き上げる、

 と言う真似に及ぶ必要はない。

 だというのに鎮軍大将軍に引き上げ、

 驃騎よりも上とする措置が取られた。

 これは、官位こそが優先された、

 とは言えまいか?


 別の時、司馬攸が司空で、

 賈充かじゅうが太尉であった。

 ともに尚書署事を錄していたが、

 席次は常に賈充が上であった。


 

 潘尼はんじ春秋公羊伝しゅんじゅうくようでんに基づき奏上したとき、

 同席した三人の錄はそれぞれ、

 太尉の司馬泰しばたい、司徒の王渾おうこん

 次いで、衛将軍の司馬肜しばひょう

 ここでも皇族は優先されておらぬ。



 時を移し、太元たいげん年間の初めのことだ。

 新しい宮殿が竣工した時、

 司馬曜しばようの弟、司馬道子しばどうしが中軍であったが

 司馬柔之しばじゅうしが慶賀の先陣を切っている。

 のちに司馬徳文しばとくぶんが皇太子に立った時、

 徐邈じょばくが礼を取りしきっていたが、

 司馬道子の席次は、他の王よりも下。


 李太后りたいごうへの謁見がなされた時も、

 宗正、及び尚書からの指示は

 司馬純之しばじゅんしを筆頭とせよ、

 というものであった。

 やはり司馬道子が優先されていない。

 しかしこのことに、

 王珣おうしゅんが疑義を挟んでいない。


 徐邈にせよ王珣にせよ、

 儀礼のエキスパートである。

 その彼らが問題としていないのだ。



 そなたが引いた陸機りくきの起居注の話だが、

 あれは、根拠にはならないと思っている。


 と言うのも、かの起居注を読めば、

 まず侍中が呼ばれた。

 司馬植しばしょく荀組じゅんそ潘岳はんがく嵇紹けいしょう杜斌とひん

 その後で、そなたが言う王らが来ている。

 更にその後に、三公の名がある。


 しかし、三公の前に来た、

 と言いたいのであれば、その前に

 黃門郎らの名が呼ばれていることを、

 どう説明するのか?


 また、そなたが問題とする四王に続いて

 読み上げられる名は、

 大將軍の司馬肜しばひょう、車騎将軍の司馬倫しばりん

 そののちに司徒の王戎おうじゅうである。


 ここで司馬肜、司馬倫は王である。

 同じ王でも散騎常侍に過ぎない

 司馬熾しばしよりも下の席次で呼ばれるのは、

 道理が通らないのではないか?


 予想に過ぎぬが、著述者が当時のことを

 書き残すにあたって、

 敢えて官位順である必要を

 感じなかったのであろう。


 そもそもにして、式乾しょくかんの集まりは

 私宴の要素が強く、

 国としての公式行事とは性質が違う。


 いわば、現在における含章西堂がんしょうせいどう

 集まりに近いものだったのであろう。

 あの場において、中書令のそなたは,

 本来では上となるはずの尚書僕射よりも

 席次が下となっているだろう?


 また、かの場においては

 侍中の席次が尚書より下ではないか。



 続いて、我が曽祖父が司馬昱しばいくよりも

 席次を下としていたことについて。

 私はあの段階で、曽祖父は司馬昱よりも

 官位が低かった、と考えている。


 また、そなたが挙げた故事への解釈が、

 やや私と違っている。


 皇帝の娘は、爵位をもたぬ。

 故に夫の立場でなく、

 皇女であることを理由に

 尊ぶべきなのである。

 しかるに、皇子は違う。

 宮廷に出仕し、官位を得ておる。

 ならば、宮廷のルールに

 従うべきであろう。



 ただ、最後の司馬奕しばえき即位時の

 大赦文については、やや気になる。

 とは言え、大赦発布前後の

 状況からすれば、やはり

 同じような結論を引けるのだろう。


 太宰は三公の、さらに上。

 ならば、大司馬より前となる。

 司馬昱は撫軍将軍であったが、

 この頃には丞相ともなっている。

 丞相は、やはり三公より上である。


 中外都督は重きものであるが、

 官位と言う意味で考えれば、

 三公を超越する、とまで

 言えるものでもあるまい。


 今、劉義真りゅうぎしん様は確かに

 揚州の軍全てを統べておられる。

 しかしながら、官位としては

 依然として持節や都督の下である。


 そなたもこのことを、

 重々検討なされよ」




廓答曰:「揚州位居卿君之下,常亦惟疑。然朝廷以位相次,不以本封,復無明文云皇子加殊禮。齊獻王為驃騎,孫秀來降,武帝欲優異之,以秀為驃騎,轉齊王為鎮軍,在驃騎上。若如足下言,皇子便在公右,則齊王本次自尊,何改鎮軍,令在驃騎上,明知故依見位為次也。又齊王為司空,賈充為太尉,俱錄尚書署事,常在充後。潘正叔奏公羊事,于時三錄,梁王肜為衞將軍,署在太尉隴西王泰、司徒王玄沖下。近太元初,賀新宮成,司馬太傅為中軍,而以齊王柔之為賀首。立安帝為太子,上禮,徐邈為郎,位次亦以太傅在諸王下。又謁李太后,宗正尚書符令以高密王為首,時王東亭為僕射。王、徐皆是近世識古今者。足下引式乾公王,吾謂未可為據。其云上出式乾,召侍中彭城王植、荀組、潘岳、嵇紹、杜斌,然後道足下所疏四王,在三司之上,反在黃門郎下,有何義?且四王之下則云大將軍梁王肜、車騎趙王倫,然後云司徒王戎耳。梁、趙二王亦是皇子,屬尊位齊,在豫章王常侍之下,又復不通。蓋書家指疏時事,不必存其班次;式乾亦是私宴,異於朝堂。如今含章西堂,足下在僕射下,侍中在尚書下耳。來示又云曾祖與簡文對錄,位在簡文下。吾家故事則不然,今寫如別。王姬身無爵位,故可得不從夫而以王女為尊。皇子出任則有位,有位則依朝,復示之班序。唯引泰和赦文,差可為言。然赦文前後,亦參差不同。太宰上公,自應在大司馬前耳。簡文雖撫軍,時已授丞相殊禮,又中外都督,故以本任為班,不以督中外便在公右也。今護軍總方伯,而位次故在持節都督下,足下復思之。」


(宋書57-5_政事)




やあ、これは面白い。訳出にあたっては

晋陽秋伝 【考察】晋南朝の「増位」

http://sinyousyuden.blogspot.com/p/blog-page_28.html


と、越智重明おちしげあき「劉宋の官界における皇親」

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD100000&bibid=2334001


の両者を参照させて頂きました。劉義真のやつなら言いそうな話だなーとか思っちゃいましたよね。それに大して蔡廓さんは内心でバカじゃねえのって思いつつも、それでも様々なケースを引っ張り出してきて検討を加え、やっぱりだめだなこれ、と結論づけてる。越智氏は「蔡廓の意見が退けられた」って書いてあるけど、いやこれ蔡廓の発言通ってるでしょ。劉義真+傅亮で勝てる回答じゃねえよ。

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