孔琳之3 徐羨之弾劾
410 年、
また
その後劉裕の北伐作戦にも参与する。
そして、侍中に昇進。
劉裕が
宋國の侍中となった。
まもなく
「公事」が生じたため免官。
禅譲に絡む行事の取りしきりだろうか。
421 年、御史中丞となった。
その振る舞いは法令に対し謹厳、
権威におもねることはなかった。
例えば、
まともに守ろうともしないと、
それを激しく糾弾。
徐羨之の免職まで訴え出るほどだった。
徐羨之、
あまりことを大きくしたくなかった。
当時、徐羨之は
ちょうど孔琳之の弟の
その部下として働いていた。
そのため孔璩之づてで弁明をし、
この件を何とか取り下げてもらえないか、
と頼み込んだ。
が、孔琳之。知らんがなと切り捨てる。
いやいや兄上、
そこはほら、宰相殿ですし?
そう孔璩之は食い下がったのだが、
あのなぁ、と孔琳之は言う。
「宰相どののご意向に逆らうのは
私一人だけ。
仮に罪に問われたとて、
お前にまで罪に問われることはない。
だというのに、どうしてそうも
懸命に食い下がろうとしているのだ?」
そう言って、
結局取り下げようとはしなかった。
徐羨之さまでも違反をすれば、
厳しく糾弾されてしまうのか!
孔琳之のこの対応に、人々は恐れ粛然とし、
以降、敢えてルール違反を
しようとする者はいなくなった。
この対応を劉裕、激賞。
自ら御史台に赴き、孔琳之を褒め称えた。
やがて本州大中正となり、祠部尚書に。
いわゆる貨殖には一切興味を示さず、
常に質素な暮らし向きであった。
423 年に死亡。55 歳だった。
太常を追贈された。
義熙六年,高祖領平西將軍,以為長史,大司馬琅邪王從事中郎,又除高祖平北、征西長史,遷侍中。宋臺初建,除宋國侍中。出為吳興太守,公事免。永初二年,為御史中丞,明憲直法,無所屈橈。奏劾尚書令徐羨之。羨之任居朝端,不欲以犯憲示物。時羨之領揚州刺史,琳之弟璩之為治中,羨之使璩之解釋琳之,停寢其事。琳之不許。璩之固陳,琳之謂曰:「我觸忤宰相,正當罪止一身爾,汝必不應從坐,何須勤勤邪!」自是百僚震肅,莫敢犯禁。高祖甚嘉之,行經蘭臺,親加臨幸。又領本州大中正,遷祠部尚書。不治產業,家尤貧素。景平元年,卒,時年五十五。追贈太常。
義熙六年、高祖の平西將軍を領せるに、以て長史と為し、大司馬琅邪王の從事中郎となり、又た高祖の平北、征西長史に除せられ、侍中に遷る。宋臺の初に建つるに、宋國侍中に除せらる。出でて吳興太守と為るも、公事にて免ぜらる。永初二年、御史中丞と為り、憲に明るく法に直なれば、屈橈せる所無し。尚書令の徐羨之を奏劾す。羨之は朝端に任居し、以て憲を犯し物を示したるを欲さず。時に羨之は揚州刺史を領し、琳之が弟の璩之の治中為るに、羨之は璩之をして琳之に解釋し、其の事を停寢せしめんとす。琳之は許さず。璩之は固く陳ぶらば、琳之は謂いて曰く:「我れ、宰相に觸忤せど、正に當に罪は一身に止りたるのみ、汝は必ずしも應に坐に從せざあらん、何ぞ勤勤なるを須めんや!」と。是れ自り百僚は震肅し、敢えて禁を犯したる莫し。高祖は甚だ之を嘉し、行きて蘭臺を經、親しく臨幸を加う。又た本州大中正を領し、祠部尚書に遷る。產業を治めず、家は尤も貧素なり。景平元年に卒ず、時に年五十五。太常を追贈さる。
(宋書56-7_直剛)
強い、とにかく強い。この当時の徐羨之の権勢ってかなりヤバかったはずで、下手すりゃ首を切られて(物理)もおかしくはなかったはず。まー質実剛健な劉裕さんの好きそうなタイプのお方であるように思う。
ところでこの人は
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054885834290
そして
http://home.att.ne.jp/iota/ten_tairiku/kakeizu/ka/kou04_05js_1_yu.html
転転大陸さん最の高かよ……。
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