謝瞻3  弟を思いて   

421 年、豫章よしょう郡で病にかかる。

これは治るものでもなさそうだ、

と悟った謝瞻しゃせんは、むしろ死によって

家門の破滅を見ずに済む、と

密かに安堵したようである。


兄の病を聞き、慌てたのが謝晦しゃかいだ。

職務もなげうち、豫章に駆けつける。

お前ね、と謝瞻は言う。


「お前は大臣だろう。

 どれだけの職務を担っている?


 そんなお前が変に外に出れば、

 疑念や誹謗を招くだろうに」


謝瞻の見立てどおり、

建康けんこうでは謝晦の謀反を

讒言するものが現れていた。


病の重症化を理由とし、

謝瞻は建康に帰還。

謝氏の家に戻ったわけではない。

羊賁ようほんしん明帝めいていの娘であった南郡なんぐん公主を

嫁に迎えた貴族がもと住んでいた家にて

療養生活を送ることとなった。


一方で、謝晦。

劉裕りゅうゆうからは、うかつに外に出るな、

という厳命を受けた。


なお、旧羊賁宅は領軍りょうぐん将軍府の近く。

つまり、当時領軍将軍であった、

謝晦がすぐに兄を見舞えるように、と

配慮がなされたのである。


謝瞻はこの措置に対し、語る。


「こんな監視しやすい所に

 おかれたところで、

 今更私に何ができるのでしょうか!」


そして、ついに臨終の床につく。

謝瞻、謝晦には手紙を書いた。

そこには、こう書いてあった。


「私はこうして無事に死ぬことができる。

 どうして誰かをうらんだりなど

 するだろうか。


 あとは、弟よ。

 お前がお国のため、家のため、

 職務を勤め上げてくれることを願う」


そして死亡。35 歳だった。




永初二年,在郡遇疾,不肯自治,幸於不永。晦聞疾奔往,瞻見之,曰:「汝為國大臣,又總戎重,萬里遠出,必生疑謗。」時果有訴告晦反者。瞻疾篤還都,高祖以晦禁旅,不得出宿,使瞻居于晉南郡公主婿羊賁故第,在領軍府東門。瞻曰:「吾有先人弊廬,何為於此!」臨終,遺晦書曰:「吾得啟體幸全,歸骨山足,亦何所多恨。弟思自勉厲,為國為家。」遂卒,時年三十五。


永初二年、郡に在りて疾に遇い、自ら治りたるを肯んぜず、永からざるを幸いとす。晦は疾を聞きて奔り往かば、瞻は之に見えて曰く:「汝は國が大臣と為り、又た戎重を總ぶらば、萬里に遠く出づらば、必ずや疑謗を生まん」と。時に果して晦の反を訴告せるもの有り。瞻は疾の篤なるに都に還じ、高祖は晦を以て旅を禁じ、宿を出でたるを得たらず、瞻をして晉の南郡公主が婿の羊賁が故第に居せしめ、領軍府の東門に在らしむ。瞻は曰く:「吾れ先人が弊廬に有りて、何ぞを此に於いて為さんか!」と。終に臨み、晦に書を遺りて曰く:「吾れ啟體の幸全なるを得、骨は山足に歸したり。亦た何ぞ多きを恨みたる所ならんか。弟の自ら國が為、家が為に勉めに厲まんことを思う」と。遂に卒す、時に年三十五。




もうちっとだけ謝瞻は続くんじゃ。


劉義符りゅうぎふ殺しは家門の罪ではなく、あくまで個人の罪、ってね。んなバカな。沈約しんやくの物語に、どこまで付き合ったもんか。いやもちろん「書かれていることは事実」なんでしょうけれど。


羊賁

羊祜ようこの異母兄のひ孫。父の羊曼ようまん兗州えんしゅう八伯の一人で、王導おうどうに仕え、やがて蘇峻そしゅんの乱で殺されている。子供の名前が残っていないあたりを見ると、娘ばっかりだったのかもしれないですね。

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