羊玄保  弘懿の望    

定子 羊玄保ようげんほ



羊玄保。泰山たいざん南城なんじょう県の人だ。

ようは西晋の名将、羊祜ようこの一族である。

祖父は羊楷ようかい、尚書都官郎。

父は羊綏ようすい、中書侍郎。


はじめについた職務は

桓玄かんげんの時代の太常たいじょう博士。

そこで母が死亡したため喪に服した。


喪が明けると、

何無忌かむき諸葛長民しょかつちょうみんから部下に欲しいと

要請があったのだが、共に辞退。

臨安りんあん令となった。


劉穆之りゅうぼくし劉裕りゅうゆうに羊玄保を推挙。

鎮軍參軍、庫部郎、永世令になった。

劉裕が太尉となると、書記官となり、

また丹陽丞たんようじょうに転属。


以降、どかっと記録のブランクが開く。


劉義符りゅうぎふが廃位される頃、つまり 424 年。

中央に配属され、尚書右丞となり、

すぐに左丞に配置換え、

さらには司徒右長史となった。


この頃の司徒であった王弘おうこうは、

羊玄保について高く評価していた。


副官の庾登之ゆとうし、吏部尚書の王准之おうじゅんし

こんなことを語っている。


「そなたら二人の博識ぶり、

 機知に富むところは見事なものだ。


 とは言えそなたら二人にしてみても、

 その度量の広さにかけては

 羊どのを推さんわけにはゆくまい?」


その後黃門侍郎こうもんじろうとなった。


囲碁の達人であり、

当時の三位に位置付けられていた。

ある時劉義隆と宣城郡太守の座をかけて

囲碁をし、勝ち取ったこともある。


羊玄保と言えば、

先祖を祀る祭礼をみだりに

豪華にしないことで有名だった。

季節折々の祭祀の品についても

それほど懸命に

揃えようとはしなかった。


464 年に死亡。94 歳だった。

定子と諡された。




羊玄保,太山南城人也。祖楷,尚書都官郎。父綏,中書侍郎。玄保起家楚臺太常博士,遭母憂,服闕,右將軍何無忌、前將軍諸葛長民俱板為參軍,並不就。除臨安令。劉穆之舉為高祖鎮軍參軍,庫部郎,永世令。復為高祖太尉參軍,轉主簿,丹陽丞。少帝景平二年,入為尚書右丞,轉左丞,司徒右長史。府公王弘甚知重之,謂左長史庾登之、吏部尚書王准之曰:「卿二賢明美朗識,會悟多通,然弘懿之望,故當共推羊也。」頃之,入為黃門侍郎。善弈棊,棊品第三,太祖與賭郡戲,勝,以補宣城太守。玄保自少至老,謹於祭奠,四時珍新,未得祠薦者,口不妄嘗。大明八年,卒,時年九十四。諡曰定子。


羊玄保は太山の南城の人なり。祖は楷、尚書都官郎。父は綏、中書侍郎。玄保は楚臺太常博士に起家し、母が憂に遭い、服の闕せるに、右將軍の何無忌、前將軍の諸葛長民の俱に板じ參軍と為さんとせど、並べて就かず。臨安令に除せらる。劉穆之は舉げて高祖鎮軍參軍、庫部郎、永世令と為す。復た高祖太尉參軍と為り、主簿、丹陽丞に轉ず。少帝の景平二年、入りて尚書右丞に為り、左丞、司徒右長史に轉ず。府公の王弘は甚だ知りて之を重んじ、左長史の庾登之、吏部尚書の王准之に謂いて曰く:「卿ら二賢は明美朗識にして會悟多通なれど、然して弘懿の望は故より當に共に羊を推したらんなり」と。之の頃、入りて黃門侍郎と為る。弈棊に善く、棊品は第三にして、太祖と郡を賭け戲れ、勝ち、以て宣城太守に補せらる。玄保は少きより老いたるに至りて、祭奠に謹ましく、四時の珍新せるに、未だ祠薦を得たらざれど、口に妄りに嘗ぜず。大明八年に卒す、時に年九十四。諡して定子と曰う。


(宋書54-4_為人)




名前が斉代梁代の皇帝にかぶっているっぽいですね。この辺には注釈すら入れられないのが厳しいところ。あと泰山にまで避諱がかかってるんですね。これは誰のことなんだろう。泰山についてはまだ調べようがあるけど、名前のほうは手も足も出ないよなぁ……。


すっげえ人だって言う割に官位のブランクがひどい。なんですか劉裕が鎮軍から太尉になったあと一気に少帝廃立まで飛ぶって。

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