江夷1  後進の美    

江夷こうい



江夷。字は茂遠もえん濟陽さいよう考城こうじょう県の人だ。


祖父は江霦こうひん庾翼ゆよくの参謀を務めた。

父は江敳こうがい王恭おうきょうから参謀に

取り立てたいという要請があったが蹴った。


江夷は若い頃から

一本筋の通った人として、

世代のリーダー的な存在だった。

はじめ住んでいた州から書記官として

就任要請が来たが、辞退。

桓玄かんげんが簒奪をなすと、

息子である桓昇かんしょうの教師につけられた。


劉裕りゅうゆうがクーデターをなすと、

江夷は仮の参謀として

劉裕の下につけられた。

それから司馬徳文しばとくぶんの下に出向。

いちど様々な行事絡みの仕事があり

免職となったが、

それらが終わると復帰した。


桓玄打倒に協力した功績から、

南郡なんぐん州陵しゅうりょう県の五等侯に封爵された。


その後の職歴は以下のようだ。

孟昶もうちょうの副官。中書侍郎。

劉裕のもとでは事務官。

劉道規りゅうどうきの副官兼南郡太守。

更には劉裕の参謀を経て副官となり、

中央に進むと侍中となった。


司馬徳文が後秦こうしん討伐に従軍すると、

江夷もそこに同行。

洛陽らくようで歴代晋帝の陵墓を参拝した後、

潼關どうかんまでは進んだ。

長安ちょうあんには行かなかったようだが。


建康に戻ると寧遠將軍、琅邪ろうや內史

本州大中正となる。

司馬徳文のサポート役として、

実務はほぼ江夷に一任された。




江夷字茂遠,濟陽考城人也。祖霦,晉護軍將軍。父敳,驃騎諮議參軍。夷少自藻厲,為後進之美。州辟主簿,不就。桓玄篡位,以為豫章王文學。義旗建,高祖板為鎮軍行參軍,尋參大司馬琅邪王軍事,轉以公事免。頃之,復補主簿。豫討桓玄功,封南郡州陵縣五等侯。孟昶建威府司馬,中書侍郎,中軍太尉從事中郎,征西大將軍道規長史、南郡太守,尋轉太尉諮議參軍,領錄事,遷長史,入為侍中,大司馬從府公北伐,拜洛陽園陵,進至潼關。還領寧遠將軍、琅邪內史、本州大中正。高祖命大司馬府、琅邪國事,一以委焉。


江夷は字を茂遠、濟陽は考城の人なり。祖は霦、晉の護軍將軍。父は敳、驃騎諮議參軍。夷は少きより自ら藻厲にして後進の美と為る。州は主簿に辟せど、就かず。桓玄の篡位せるに、以て豫章王文學と為る。義旗の建つるに、高祖は板じ鎮軍行參軍と為し、尋いで大司馬琅邪王軍事に參じ、轉じ公事を以て免ぜらる。之の頃、復た主簿に補せらる。桓玄を討ちたるの功に豫り、南郡州陵縣の五等侯に封ぜらる。孟昶が建威府の司馬、中書侍郎、中軍太尉從事中郎、征西大將軍の道規の長史、南郡太守となり、尋いで太尉諮議參軍に轉じ、錄事を領し、長史に遷り、入りて侍中と為り、大司馬の府公に從いて北伐せるに、洛陽の園陵を拜し、進みて潼關に至る。還じ寧遠將軍、琅邪內史、本州大中正を領す。高祖は大司馬府、琅邪國の事を命じ、一に以て委ぬ。


(宋書53-12_政事)




はじめて読んだ時なんでこんな業績よくわっかんねえ人乗っけてんだ宋書って疑問だったんですが、濟陽江氏って琅邪王氏、陳郡ちんぐん謝氏、潁川えいせん氏、泰山たいざんよう氏なんかと姻戚を結ぶような名族なんですよね。ついでに言えば劉穆之りゅうぼくしもその姻戚として結びついている。晋宋の血管みたいな一族だったりするわけです。そしてこのひと自身も有能ではあったんだろうけれど、直接武帝建国伝説に絡むような功績じゃないからか、省略されています。いやさぁ……。


ほんにこういう人の治績とかめっちゃ面白かったと思うんすよ。ほぼ何もないから、面白いとも、面白くないとも言えない。もったいないよなぁ。

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