謝述2  劉義康の補佐  

劉裕りゅうゆうに従って司馬休之しばきゅうし軍討伐にも参戦。

吉陽きつよう県の五等侯に封じられた。


しばらくは劉義符りゅうぎふの世話人をしつつ、

晋国内に宋国が立てられた時には

そこの典礼等を司った。

やがて長沙ちょうさ太守として出向。

長沙で善政を布いた。


425 年に中央に召喚され中書侍郎に。

426 年には武陵ぶりょう太守として出向。

間もなく劉義隆りゅうぎりゅうの弟、

劉義康りゅうぎこうの副官となった。

あわせて南郡なんぐん内史に転属。

これは謝述のいとこの謝曜しゃよう

急死によるものであった。


転属に先立ち、劉義隆は劉義康に

手紙を送っている。


「亡き謝曜の代役として、

 謝述をそちらに送る。


 その才覚は確かなもので、

 職歴における実績が示している。

 お前の補佐として適任だろう。


 お前は今回の赴任で直接職務に

 携わることになるわけだが、

 なにぶん責任は重く、

 なすべきことは多い。


 なので諸賢を良く頼り、

 良きチームワークでことにあたれ。


 お前の肩に載るのは、全て、

 お前の責任によってなせ。

 私の言葉など待たずとも良い」


劉義康が宰相の任につくと、

謝述も副官として従う。

清廉倹約な働きぶりであり、

個人的な自宅を持つ、

などと言うことすらなかった。

劉義康、そんな謝述を厚遇した。


時の貴顕であった殷景仁いんけいじん劉湛りゅうたんとも

深く親交を重ねていた。


その風采は美しく、

その舉止もまた美しい。

劉湛は謝述について、

ちょくちょく人に言っていた。


「謝述君は、いくら見ていても

 見飽きるということが無いのだよ」


435 年に死亡。46歳だった。




轉太尉參軍,從征司馬休之,封吉陽縣五等侯。世子征虜參軍,轉主簿,宋臺尚書祠部郎,世子中軍主簿,轉太子中舍人,出補長沙內史,有惠政。元嘉二年,徵拜中書侍郎。明年,出為武陵太守,彭城王義康驃騎長史,領南郡太守。先是,述從兄曜為義康長史,喪官,述代之。太祖與義康書曰:「今以謝述代曜。其才應詳練,著於歷職,故以佐汝。汝始親庶務,而任重事殷,宜寄懷羣賢,以盡弼諧之美,想自得之,不俟吾言也。」義康入相,述又為司徒左長史,轉左衞將軍。莅官清約,私無宅舍。義康遇之甚厚。尚書僕射殷景仁、領軍將軍劉湛並與述為異常之交。美風姿,善舉止,湛每謂人曰:「我見謝道兒,未嘗足。」道兒,述小字也。


太尉參軍に轉じ司馬休之を征せるに從い、吉陽縣五等侯に封ぜらる。世子征虜參軍となり、主簿に轉じ、宋臺尚書祠部郎となり、世子中軍主簿となり、太子中舍人に轉じ、出でて長沙內史に補せられ、惠政有り。元嘉二年、徵ぜられ中書侍郎を拜す。明くる年、出でて武陵太守に為り、彭城王の義康の驃騎長史となり、南郡太守を領す。是の先、述の從兄の曜の義康の長史と為りたるに、官を喪じ、述は之に代る。太祖は義康に書を與えて曰く:「今、謝述を以て曜に代える。其の才は應に詳練にして、歷職に著れ、故に以て汝の佐たらん。汝は始めて庶務に親しめど、任は重く事は殷んなれば、宜しく羣賢に寄懷し、以て弼諧の美を盡し、自ら之を得たらんと想い、吾が言を俟たざるなり」と。義康の相に入るに、述も又た司徒左長史と為り、左衞將軍に轉ず。莅官清約にして、私に宅舍無し。義康は之を遇せること甚だ厚し。尚書僕射の殷景仁、領軍將軍の劉湛は並べて述と異常の交を為す。風姿は美しく、舉止は善く、湛は每に人に謂いて曰く:「我れ謝道兒に見ゆるに、未だ嘗て足りず」と。道兒は述が小字なり。十二年に卒す。時に年四十六。


(宋書52-13_為人)




このあと元嘉時代の話とかがもうちょっと載ってるわけですが、ノータッチで参ります。「劉裕のために調べてる」と言う軸足は……まぁ割とぶれてますけど、大事にはしたいのです。


ただ、次の人に行く前に南史の内容を拾います。謝述ってより謝裕の内容な気もしますが。

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