謝裕1  博覧強記のひと 

謝裕しゃゆう。字は景仁けいじんちん陽夏ようか県の人。

謝晦しゃかいと先祖、謝拠しゃきょを同じくする。

父親が謝允しゃいんで、謝朗しゃろう(謝晦の祖父)の弟。


劉裕りゅうゆうが皇帝となると、

名が被っているという事で

字で呼ばれるようになった。


幼い頃には謝安しゃあんと出会っており、

目を掛けられていた。


前軍行參軍、輔國參軍を歴任。

当時の任官からすると

王恭おうきょう辺りの属官と思しい。


この頃司馬元顕しばげんけんの配下、

張法順ちょうほうじゅんが主君の権威を

嵩に着て成りあがっており、

宮中で張法順のもとに

詣でない者はいない勢いであったが、

謝裕がその流れに乗ることはなかった。


30 歳になると、

著作佐郎に抜擢されることに。

が、同タイミングで

桓玄かんげんが司馬元顕を殺害。

そして桓玄、司馬元顕の配下であった

謝裕を見、こいつぁやべえ、となる。


桓玄は周囲のものに言った。


「あのぐず司馬親子、道子どうしも元顕も、

 それは敗れるわけよ。


 謝裕殿のようなお方を

 齢三十になるまで

 飼い殺しでおったのだからな!」


桓玄が太尉となると、仮の幹部扱いに。

更に官位を大将軍に進めると、

正式な幹部として採用された。

王についた時には黃門侍郎に、

簒奪を為した時には驍騎將軍に。


謝裕は博覧強記であり、

また見たこと聞いたことを

うまく語る才能に長けていた。

なので桓玄は飽きることなく

謝裕と語らいあった。


どこかに外出する時にも、

いわゆる側仕えの殷仲文いんちゅうぶん卞範之べんはんし

馬に乗って輿の側につくのに対し、

謝裕は常に輿に同乗していた。




謝景仁,陳郡陽夏人,衞將軍晦從叔父也。名與高祖同諱,故稱字。祖據,太傅安第二弟。父允,宣城內史。景仁幼時與安相及,為安所知。始為前軍行參軍、輔國參軍事。會稽王世子元顯嬖人張法順,權傾一時,內外無不造門者,唯景仁不至。年三十,方為著作佐郎。桓玄誅元顯,見景仁,甚知之,謂四坐曰:「司馬庶人父子云何不敗,遂令謝景仁三十方作著作佐郎。」玄為太尉,以補行參軍,府轉大將軍,仍參軍事。玄建楚臺,以補黃門侍郎。及篡位,領驍騎將軍。景仁博聞強識,善敍前言往行,玄每與之言,不倦也。玄出行,殷仲文、卞範之之徒,皆騎馬散從,而使景仁陪輦。


謝景仁は陳郡の陽夏の人、衞將軍の晦の從叔父なり。名は高祖と諱を同じうせば、故に字にて稱す。祖は據、太傅の安の第二弟なり。父は允、宣城內史。景仁は幼き時に安と相い及び、安に知らる所と為る。始め前軍行參軍、輔國參軍事と為る。會稽王の世子の元顯の嬖人の張法順が權は一時傾き、內外に門に造らざる者無かれど、唯だ景仁のみ至らず。年三十にして、方に著作佐郎に為らんとす。桓玄の元顯を誅せるに、景仁を見、甚だ之を知り、四坐に謂いて曰く:「司馬庶人父子は云何んぞ敗れざらんか。遂に謝景仁に令し三十にして方に著作佐郎に作さんとす」と。玄の太尉と為れるに、以て行參軍に補せられ、府の大將軍に轉ずるに、仍ち軍事に參ず。玄の楚臺を建つるに、以て黃門侍郎に補せらる。位を篡いたるに及び、驍騎將軍を領す。景仁は博聞強識にして、前言往行を敍せるに善く、玄は之と言せる每、倦まざりたるなり。玄の出で行くに、殷仲文、卞範之の徒は皆な騎馬にて散從せど、景仁をして輦に陪せしむ。


(宋書52-7_為人)




始為前軍行參軍、輔國參軍事。

ここで誰の属官だったかを書かないのが実にロック。ちなみに 390 年ごろに王恭は前将軍に任じられ、後日輔国将軍に降格させられています。そして王恭と言えば、若き頃に謝安と親交を深めていました。王坦之と言い、王恭と言い、謝安と太原王氏の縁は深いですね。そうすると王恭は、「亡き謝安さまの志を継げるのは自分しかいない」くらいの決意でいたのかもしれません。

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