劉義慶2 文学サロン   

劉義慶りゅうぎけい、質素を旨としていた。

それほど浮ついたことは好まなかった。


また文章に触れることを好んだ。

自身の文才はそれほどでもなかったが、

宗室としての文辞を自ら為すまでには

至っていた。


様々な任地を歴任する中で

浪費や色事問題を起すこともない。

ただ晩年には仏教に傾倒、

それで僧侶たちのために

大枚をはたいたりなどはした。


若い頃は乗馬を好んだが、

成長するにしたがって、

世の中に労苦があるのに思い至り、

二度と乗らなくなった。


自らのサロンに文学の徒を集めれば、

遠近関わらず才能が集まってきた。

特に高名であったのが、袁淑えんしゅく

江州刺史であった劉義慶、かれに乞うて

自らの下についてもらった。

あわせて陸展りくてん何長瑜かちょうゆ鮑照ほうしょうらにも。

誰もが極上の文辞をなし、

劉義慶をサポートするのだった。


劉義隆りゅうぎりゅうはよく劉義慶に書を渡し、

その解釈について質問をした。


444 年、建康で死亡。42 歳だった。

侍中、司空が追贈され、

康王と諡された。




為性簡素,寡嗜欲,愛好文義,才詞雖不多,然足為宗室之表。受任歷藩,無浮淫之過,唯晚節奉養沙門,頗致費損。少善騎乘,及長以世路艱難,不復跨馬。招聚文學之士,近遠必至。太尉袁淑,文冠當時,義慶在江州,請為衞軍諮議參軍;其餘吳郡陸展、東海何長瑜、鮑照等,並為辭章之美,引為佐史國臣。太祖與義慶書,常加意斟酌。二十一年,薨於京邑,時年四十二。追贈侍中、司空,諡曰康王。


為性は簡素にして嗜欲寡なく、文義を愛好し、詞の才は多からざると雖も、然して宗室の表を為すに足る。歷藩を受任し、浮淫の過無く、唯だ晚節に沙門を奉養し、頗る費損を致す。少きに騎乘を善くせど、長ずるに及び世路の艱難を以て、復た馬に跨らず。文學の士を招聚し、近遠は必ず至る。太尉の袁淑が文は當時に冠し、義慶は江州に在り、請うて衞軍諮議參軍と為る。其の餘は吳郡の陸展、東海の何長瑜、鮑照ら、並べて辭章の美を為し、引きて佐史、國臣と為す。太祖は義慶に書を與え、常に斟酌の意を加う。二十一年、京邑にて薨ず、時に年四十二なり。侍中、司空を追贈し、諡して康王と曰う。


(宋書51-17_衰亡)




この辺もとっくにアディショナルタイムなんですが、袁淑、陸展、何長瑜、鮑照の名前は是非とも拾っておきたかったものでしてね。それにしても宋書を読む限りだと全然世説新語に接続してこないのが何ともかんとも。まぁ世説新語の成立もアディショナルタイムだしなー。困ったもんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る