劉道憐7 息子たち    

劉道憐りゅうどうれんには六人の子がいた。

成王 劉義欣りゅうぎきん

康王 劉義慶りゅうぎけい

恭侯 劉義融りゅうぎゆう

惠侯 劉義宗りゅうぎそう

肅侯 劉義賓りゅうぎひん

僖侯 劉義綦りゅうぎきである。


長男の義欣。劉道憐の家督を継いだ。

員外散騎侍郎に任命されたが辞退。

その後中領軍、征虜將軍となり、

青州刺史、魏郡太守として石頭せきとうに入った。

424 年に後將軍に進み、

426 年に南兗州みなみえんしゅう刺史に。

439 年に死亡。成王と諡された。


次男の劉義慶は夭折した叔父、

劉道規りゅうどうきの封爵地を継いだ。

後述する。


三男の劉義融は 420 年に桂陽けいよう県侯に。

武才があり、特に短楯の扱いに長けた。

441 年に死亡。恭侯と諡された。


四男の劉義宗は幼い頃劉裕りゅうゆうに愛された。

そのため伯奴はくどとあざなされた。

新渝しんゆ県男の爵位を与えられた。

420 年には侯爵に進む。

441 年に死亡、惠侯と諡された。

人士を愛しよく人に施しをした。

併せて読書を好んだため、

人々よりの称賛を得ていた。

……えっ、他の兄弟は?


五男の劉義賓は 425 年に新野しんや県侯に。

429 年に新野が荒廃したため、

興安こうあん県侯に改封させられた。

448 年に死亡。肅侯と諡された。


六男の劉義綦は凡庸な人物だった。

455 年に死んだ。僖侯と諡された。




道憐六子:義欣、義慶、義融、義宗、義賓、義綦。義欣嗣。為員外散騎侍郎,不拜。歷中領軍,征虜將軍、青州刺史、魏郡太守,將軍如故,戍石頭。元嘉元年,進號後將軍,加散騎常侍。三年,以本號為南兗州刺史。十六年,薨,時年三十六。追贈散騎常侍、征西將軍、開府儀同三司,持節、都督、刺史如故。諡曰成王。義欣弟義慶,出繼臨川烈武王道規。義慶弟義融,永初元年,封桂陽縣侯,食邑千戶。有質榦,善於用短楯。元嘉十八年,卒,追贈車騎將軍,諡曰恭侯。義融弟義宗,幼為高祖所愛,字曰伯奴,賜爵新渝縣男。永初元年,進爵為侯。二十一年,卒,追贈散騎常侍、平北將軍,諡曰惠侯。愛士樂施,兼好文籍,世以此稱之。義宗弟義賓,元嘉二年,封新野縣侯。六年,以新野荒敝,改封興安縣侯。二十五年,卒,追贈後將軍,諡曰肅侯。義賓弟義綦。凡鄙無識知。孝建二年,卒,贈平南將軍,諡曰僖侯。


道憐が六子は義欣、義慶、義融、義宗、義賓、義綦なり。義欣が嗣ぐ。員外散騎侍郎と為るも拜さず。中領軍、征虜將軍、青州刺史、魏郡太守と為り、將軍は故の如くし、石頭に戍す。元嘉元年、後將軍に進號し、散騎常侍を加わる。三年、本號を以て南兗州刺史と為す。十六年に薨ず、時に年三十六なり。散騎常侍、征西將軍、開府儀同三司を追贈せられ、持節、都督、刺史は故の如し。諡して成王と曰う。義欣が弟の義慶は出でて臨川烈武王の道規を繼ぐ。義慶が弟の義融は永初元年、桂陽縣侯、食邑千戶に封ぜらる。質榦有り、短楯を用うるに善し。元嘉十八年に卒す、車騎將軍を追贈せられ、諡して恭侯と曰う。義融が弟の義宗は幼きに高祖に愛さる所と為り、字を伯奴と曰い、新渝縣男の爵を賜る。永初元年に進爵し侯と為る。二十一年に卒す、散騎常侍、平北將軍を追贈せられ、諡して惠侯と曰う。士を愛し施を樂しみ、兼ねて文籍を好み、世は此を以て之を稱う。義宗が弟の義賓は元嘉二年、新野縣侯に封ぜらる。六年に新野の荒敝せるを以て、興安縣侯に改封せらる。二十五年に卒す。後將軍を追贈せられ、諡して肅侯と曰う。義賓が弟は義綦なり。凡鄙にして識知無し。孝建二年に卒す、平南將軍を贈られ、諡して僖侯と曰う。


(宋書51-7_為人)




ちょっと面白いと感じたのが「薨」「卒」の使い分けですね。王までは薨で、侯になると卒。確か公でも薨だった気がする。「人臣の中でも際立って上の人物」が王公だった、と言う事のようです。しかし劉義宗だけ読書人と褒められてて、劉義綦だけ「凡人」と切られてるのが面白い。えっほかの人たちは?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る