劉敬宣8 劉毅と劉敬宣  

劉毅りゅうきは若い頃に劉敬宣りゅうけいせんの部下となった。

人々は劉毅の風格を見て、

かれを大いに取り立てるべきでは、

と語った。


劉敬宣は言う。


「非常の才と呼ぶものには、

 その人格も含まれるべきだろう。


 その意味で、彼を

 真に豪傑と言っていいのだろうか?


 表向き寛容であるよう見せかけ、

 内実は猜疑心の塊。

 常にみずからを他者以上と誇る。


 彼のようなものは、

 ほんの些細なきっかけで

 国の患いとなりかねんだろう」


のちに劉毅、劉敬宣のコメントを知り、

深く恨みを抱くようになった。


そんな劉毅も、桓玄かんげん戦では大将の一人。

そして戦地において劉敬宣の復帰を知る。


劉裕りゅうゆう。劉敬宣親子のしんへの忠義は

 信頼に値するもんじゃない。

 しかもやつは、クーデターの決起にも

 関わっておらんのだ。


 やつをねぎらうよりも前に、

 このクーデターの立ち上げに

 参与した奴らを

 ねぎらうべきではなかったか?


 とはいえお前にとってやつが、

 恩人の息子だってのは確かだ。

 恩は返すべき、そういう論もある。


 なら、与えるのはそれなりの官職で

 よかったんじゃないか?


 いいか、いくらなんでも

 江州こうしゅう刺史なんぞはやりすぎだ。

 江州の民も、皆不安がっているぞ」


劉毅のコメントを受け、劉敬宣、

さすがに不安を隠しきれなくなった。

安帝あんてい建康けんこう城に復帰したタイミングで、

改めて辞職を願い出る。


この届け出は受理こそされたものの、

なにせ、劉裕の恩人の息子である。

辞任後にもかかわらず官舎を提供され、

錢三十万銭の月給を得た。

その上で劉裕はしばしば劉敬宣を

宴会に招待した。


劉敬宣には、ただごとでないレベルの

贈り物がもたらされる。

金、布地、車、馬、そのほかそのほか。

また、直後には宣城せんじょう內史に任じられる。


宣城周辺には山が多く、

山中に潜む山越と結んだ

反政府勢力には常々手を焼かされていた。


そういった勢力への対策に、

朝廷は人材やコストを

費やさざるを得なかった。


そこに赴任した、劉敬宣。


かれは宣城郡で横行していた

豪族による私兵組織を解体させた。

いっぽうで、宣城郡府に対して

やったことと言えば、

繁茂する竹を伐採し、

老朽化したを府舎修繕したくらいだ。


劉敬宣の温情深き施策に対し、

多くの亡命者たちが自首してきた。

結果、宣城郡府は、三千世帯近くの

新規入植者を得るのだった。




劉毅之少也,為敬宣寧朔參軍。時人或以雄傑許之,敬宣曰:「夫非常之才,當別有調度,豈得便謂此君為人豪邪?其性外寬而內忌,自伐而尚人,若一旦遭逢,亦當以陵上取禍耳。」毅聞之,深以為恨。及在江陵,知敬宣還,乃使人言於高祖曰:「劉敬宣父子,忠國既昧,今又不豫義始。猛將勞臣,方須敘報,如敬宣之比,宜令在後。若使君不忘平生,欲相申起者,論資語事,正可為員外常侍耳。聞已授其郡,實為過優;尋知復為江州,尤所駭惋。」敬宣愈不自安。安帝反正,自表解職。於是散徹,賜給宅宇,月給錢三十萬。高祖數引與遊宴,恩款周洽,所賜錢帛車馬及器服玩好,莫與比焉。尋除冠軍將軍、宣城內史、襄城太守。宣城多山縣,郡舊立屯以供府郡費用,前人多發調工巧,造作器物。敬宣到郡,悉罷私屯,唯伐竹木,治府舍而已。亡叛多首出,遂得三千餘戶。


劉毅の少きに、敬宣の寧朔參軍と為る。時の人の或いは雄傑なるを以て之を許さば、敬宣は曰く:「夫れ非常の才にして、當に別に調度有り、豈に便ち此の君の為人の豪なるを謂えたるを得んや? 其の性は外に寬にして內に忌まば、自ら伐りたること人に尚し、若し一旦の遭逢あらば、亦た當に陵上を以て禍を取りたらんのみ」と。毅は之を聞き、深く以て恨を為す。江陵に在せるに及び、敬宣の還じたるを知り、乃ち人をして高祖に言わしめて曰く:「劉敬宣父子の忠國は既にして昧なれば、今、又た義始に豫らず。猛將勞臣を方に須く敘報し、敬宣や比くの如きは、宜しく令し後に在らしむべし。若し使君の平生を忘れざらば、相い申起せる者を欲さば、事を語るに資せるを論じ、正に員外常侍に為したるべきのみ。聞くに已にして其の郡を授からば、實に過優と為らん。尋いで復た江州と為したるを知る。駭惋せる所を尤もとす」と。敬宣は愈いよ自ら安んぜず。安帝の反正せるに、自ら解職を表す。是に於いて散徹し、宅宇を賜給し、月給は錢三十萬たり。高祖は數しば引きて與に遊宴し、恩款を周洽し、賜りたる所の錢帛車馬、及び器服玩好は、比に與うる莫きのみ。尋いで冠軍將軍、宣城內史、襄城太守に除せらる。宣城に山縣多かれば、郡は舊きに立ちて屯以て府郡の費用に供され、前に人は多く工巧に發調され、器物を造作す。敬宣は郡に到るに、悉く私屯を罷り、唯だ竹木を伐し、府舍を治めたるのみ。亡叛の多きは首出し、遂に三千餘戶を得る。


(宋書47-17_政事)




とりあえず結果から引けば「劉毅サゲ」「劉敬宣アゲ」には警戒せざるを得ない。いや劉毅と司馬休之には強敵になってて頂かなきゃならんっつう個人的事情に基づいた提唱なわけですが。


ただ、そこを割り引いても劉毅の小者っぷりには違和感がですね。そんな単純なペルソナのひとが顕位に立てるとかマジですか、みたいに問い合わせたくはなるのだ。




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