孟懐玉3 父の死、そして 

劉毅りゅうきが倒された後、荊州けいしゅうには改めて

司馬休之しばきゅうしが配置されていた。

司馬氏宗族の中で、最も声望のある人物。


かれの声望は、いつ東晋とうしんの勢力図を

塗り替えてくるとも限らない。


孟懐玉もうかいぎょく江州こうしゅう刺史、

つまり「建康けんこう江陵こうりょうの真ん中」

への就任は、司馬休之に対する

防波堤な役割であった。


415年、いよいよ劉裕が

司馬休之打倒に動こうか、

と言うところで、孟懐玉の父が死亡。


劉裕としては孟懐玉を対司馬休之戦の

主要将に充てようとしていたが、

父の死に対する悲しみのあまり、

孟懐玉は体調を崩してしまった。


この状態ではとても戦列に

出ることなどできません、

と、孟懐玉、辞職を申し出たが、

受け入れられなかった。


それでもなお食い下がる。

弟の孟仙客もうせんきゃくが別の家系を継ぐため

家を出てしまっているので、

父を祀ることができるのは

自分しかいない、と申し出、

ようやく辞職は受理された。


だが直後、任地にあって急死。

四十一歳だった。




時荊州刺史司馬休之居上流,有異志,故授懷玉此任以防之。十一年,加持節。丁父艱,懷玉有孝性。因抱篤疾,上表陳解,不許。又自陳弟仙客出繼,喪主唯己,乃見聽。未去任,其年卒官。時年三十一。


時にして、荊州刺史の司馬休之は上流に居し、異志を有さば、故に懷玉に此の任を授け以て之を防がしむ。十一年、持節を加わる。父の艱に丁わば、懷玉は孝性有り。因りて篤疾を抱え、上表し解したらんと陳べど、許されず。又た弟の仙客の出繼せるに、喪主は唯だ己のみなるを自ら陳ぶらば、乃ち聽さるを見る。未だ任より去らずして、其の年に官にて卒す。時に年三十一。


(宋書47-6_寵礼)




こうして見ると孟懐玉、かなり劉裕に期待されていたのがわかります。孟懐玉を失ったまま司馬休之戦に臨んだ結果グダグダな推移となり、劉裕は戦場にてキレていました。「孟懐玉さえいれば、あるいは」的な怒りだったのかもしれません。


ところで宋書には「三十一歳で死亡」と書かれていますが、この年齢だと弟の孟龍符もうりゅうふよりも若くなってしまいます。なのでここは魏晋南北ぎしんなんぼくブログさんの仮説

http://gishinnanboku.blog.fc2.com/blog-entry-750.html

に基づき、四十一歳死亡説を採用したいところ。

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