孟懐玉1 建武司馬
孟懷玉 全3編
既出:劉裕16、劉裕40、劉裕45
劉裕47
親族の
副官であったため、
孟懐玉の父親、
死後には
そんな孟懐玉の一門は
代々
桓玄が政権を握り、
孟懷玉を副官につけていた。
孟懐玉、当然クーデターには参加。
クーデター後劉裕が京口に戻ると、
孟懷玉はその幹部として引き立てられ、
ちなみに下邳は劉裕が
クーデター直前まで任じられていた地。
もっとも、僑県下邳ではあるだろうが。
ともあれ、劉裕のもと任地を
引き継いだ形である。
407年。
とは言え
こちらもやはり僑県新蔡だろう。
孟懷玉,平昌安丘人也。父綽,義旗後為給事中,光祿勳,追贈金紫光祿大夫。世居京口。高祖東伐孫恩,以懷玉為建武司馬。豫義旗,從平京城,進定京邑。以功封鄱陽縣侯,食邑千戶。高祖鎮京口,以懷玉為鎮軍參軍、下邳太守。義熙三年,出為寧朔將軍、西陽太守、新蔡內史,除中書侍郎,轉輔國將軍,領丹陽府兵,戍石頭。
孟懷玉は平昌の安丘の人なり。父は綽、義旗の後に給事中、光祿勳と為り、金紫光祿大夫を追贈さる。京口に世居す。高祖の孫恩を東に伐てるに、懷玉を以て建武司馬と為す。義旗に豫り、京城を平らぐに從い、進みて京邑を定む。功を以て鄱陽縣侯,食邑千戶に封ぜらる。高祖の京口に鎮ぜるに、懷玉を以て鎮軍參軍、下邳太守と為す。義熙三年、出で寧朔將軍、西陽太守、新蔡內史と為り、中書侍郎を除せられ、輔國將軍に轉じ、丹陽府の兵を領し、石頭に戍す。
(宋書47-4_為人)
孟懐玉
上にも書いた通り、桓玄打倒クーデター首謀者の一人、孟昶の親族。かれの活躍には間違いなく孟昶と言うベースがあったはずなのだが、笑っちゃうくらい孟昶の話が出てこない。何なんだろうなぁ、いくら沈約さんが「あくまで晋の忠臣であり、宋の忠臣でなかった」と感じてたらっしゃったにせよ、せめて孟懐玉伝のところでもうちょっと書いとくべきだった気がすんだけど。
晋末の主導権争いについては、孟昶という人の動きを知るのが凄まじく重要になってくる。だが、とにかくこの人の動きが見えない、見えなさすぎる。いや本当、サムライの懐玉
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