到彦之2 盧循戦での敗北 

桓玄かんげん打倒直後ころに

劉裕りゅうゆうの幹部として仮採用。


それからの五年間で、

表には出てこない軍功を

挙げていたのだろう。


410年に

盧循ろじゅん建康けんこうに攻めてきたときには、

檀道済だんどうさいと共に盧循軍の輜重掠奪に

成功している。


が、直後には盧循軍の暁将、

荀林じゅんりんと戦い、敗北。

この責から罷免された。


が、その後に「功績をたたえられ」

佷山かざん県の子爵に。

さらに劉裕軍本軍の幹部に。


劉道憐りゅうどうれん江陵こうりょうに出鎮すると、

そこに従い、西府軍の諮問役に。

後には軍事顧問となった。


更に劉義隆りゅうぎりゅうが西府入りすると

南蠻校尉なんばんこうい、つまり軍務の取締役に。


うん、残ってる記録からだけだと、

なんでこの人こんな累進してんのか

よくわかんない。


劉裕が皇帝となると、

侯爵となった。




義熙元年,補鎮軍行參軍。六年,盧循逼都,彥之與檀道濟掩循輜重,與循党荀林戰敗,免官。後以軍功封佷山縣子,為太尉中兵參軍。驃騎將軍道憐鎮江陵,以彥之為驃騎諮議參軍,尋遷司馬、南郡太守。又從文帝西鎮,除使持節、南蠻校尉。武帝受命,進爵為侯。


義熙元年に鎮軍行參軍に補せらる。六年に盧循の都に逼りたるに、彥之と檀道濟は循が輜重を掩うも、循が党の荀林と戰いて敗れ、免官さる。後に軍功を以て佷山縣子に封ぜられ、太尉中兵參軍と為る。驃騎將軍の道憐の江陵に鎮ぜるに、彥之を以て驃騎諮議參軍と為し、尋いで司馬、南郡太守に遷る。又た文帝の西鎮せるに從い、使持節、南蠻校尉を除せらる。武帝の受命せるに、爵を進め侯と為る。


(南史25-2_寵礼)




宋書に書かれてるのがこんな感じだったら、「あー沈約しんやくお前、到彦之って言うか到氏一門のこと大っ嫌いだったろ」で話が片付くんですが、これ南史だからなあ。


とはいえ他の箇所を見るに、南史はだいぶ宋書からの拾い上げで構築されている。なら、この到彦之伝の記事もだいたい宋書にあった内容なんだろう。そして宋書そのものでも「この人が実際に挙げた軍功は全然載せられていなかった」のじゃなかろうか。失敗とか敗北ばっかりを目立たせる形で。ほら、何せ沈約さんだしね。マジでこのひと魏收ぎしゅうレベルで叩かれてもいいと思う。

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