到彦之1 遅参の名人
忠公
既出:劉義隆2、劉義隆3、劉義隆4
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謝晦14、謝晦16、謝晦19
謝晦20、謝晦22、謝晦23
到彥之、字は
春秋時代・
と言う事にしといてあげてください。
糞拾いで生計を立てており、
後に子孫たちは、そのことで
バカにされることとなる。
故郷の仲間を引き連れ従軍、
大いに手柄を挙げた。
劉裕が
慌てて劉道規に合流しようとしたが、
到着したころには、既に劉道規は
えっうそ!?
船の調達からしなきゃいけないわけ!?
晩になってようやく船を手に入れた到彦之、
京口に到着してみれば、既に劉裕軍は
慌てて追おうとした到彦之を、
何故引き留めたのかは謎。
京口の守りを任せた、
と言ったあたりだろうか。
とは言え劉裕が桓玄を滅ぼしたのち、
到彦之を罰しようとした時には、
到彦之も申し開きをしなかったものの、
孟昶もだんまりを決めていた。
かくなる次第で、かれは
桓玄打倒クーデター周りでは
昇進できなかった。
到彥之字道豫,彭城武原人,楚大夫屈到後也。以擔糞自給,故世以為譏云。宋武帝討孫恩,以鄉里樂從,每有戰功。義旗將起,彥之家在廣陵,臨川武烈王道規克桓弘,彥之時近行,聞事捷馳歸,而道規已南度江,倉卒晚方獲濟。及至京口,武帝已向建鄴,孟昶居守,留之。及見武帝被責,不自陳,昶又不申理,故不加官。
到彥之は字を道豫といい、彭城は武原の人にして、楚の大夫の屈到が後なり。擔糞を以て自ら給さば、故に世に以て譏云さるを為す。宋武帝の孫恩を討てるに、鄉里の樂從を以て每に戰功有り。義旗の將に起きなんとせるに、彥之が家は廣陵に在りて、臨川武烈王の道規の桓弘を克せるに、彥之は時に近きに行き、事の捷ぜるを聞きて馳せ歸せんとせど、道規は已にして南に度江し、倉卒にして晚に方に濟りたるを獲れど、京口に至るに及ばば、武帝は已にして建鄴に向かい、孟昶の居を守りたるに、之を留む。武帝に責めを被らるに、自らは陳べず、昶も又た理を申さずば、故に加官されず。
(南史25-1_紕漏)
はじめて到彦之伝読んだ時、史書を読むって言う素の段階で爆笑しましたよね。いやいやなに遅参しまくってんだよお前って。そのくせ後々には立身してるので、まぁそんだけもともとの信頼厚かった武将ではあったんでしょう。
残ってる記録負け戦ばっかだけどな!
なお「以擔糞自給,故世以為譏云」は到彦之の孫の
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