56 「今の悲鳴は一体! どうされましたっ……!?」
そこに立っていたのは執事服を着た老執事だったものだった。絶命した人間が動けるわけがない。目の前に立っている人が何なのかは、この場にエレオノーラが居ないためにすぐに理解できた。
「エレオノーラさん……?」
名前を呼ぶと、老執事の体から絶世の美女が抜け出してくる。壁を擦り抜ける幽霊には大分慣れたが、人から抜け出る幽霊は初めて見た。異様な光景に言葉を失う。
ドスンと、室内にセルゲイの崩れ落ちる音が広がった。床に転がっていたラウルの指先がぴくりと動いた。
「うう、ぅ……」
どうもラウルは息は残っているようだった。花瓶ならともしれず、ティーポットでは致命傷を負うのは難しいのかもしれない。
頭を強打されたラウルは、目を回しているだけに見えた。はっと我に返り、腰に下げていた剣を引き抜く。そして男の自由な足へと突き立て床に縫い付けた。
「ぎゃあああ!」
人がいることを忘れてしまったかのような、情けない声が部屋に響く。
そして部屋の中央に立っている幽霊を見て、裏切り者でも睨んでいるかのように顔を険しくする。
「エ、エレオノーラ……お前、どうして……」
それまで一言も発しようとしなかった幽霊は、赤色の瞳を茶髪の伯爵へと投げかける。
「どうして、じゃと?」
なぜ分からない? という嘲笑が混じった声が答えた。それは先程話した女性と同じ人物が出しているとは思えない、冷ややかな物だった。
「旦那様はやり過ぎたんじゃ。大昔から、主に噛み付く家臣というのは、教訓にしていいほど存在するもの。家臣の機嫌を取るのも主には大切な仕事……それを旦那様は忘れてしまったというだけの話よ」
ラウルの足から流れる血液が、床に広がる紅茶に混ざって奇妙な色合いを浮かべている。
その液体の中央に立った女性は、遠い昔を思い出しているように目を細めていた。
「妾が言われて嬉しいこと、旦那様は覚えていらっしゃるか? それもしない旦那様に、今回の愚行。女が男に愛想を尽かすには十分すぎる理由じゃ」
淡々と口を動かすエレオノーラの言葉に、強い既視感を覚えた。以前読んだ“湖畔の幽霊“でも、犯人がこのようなことを言っていたからだ。
一瞬だけ覚えがありそうに唇を引き締めたラウルは、しかし、と諦め悪く続けた。
「私を裏切れば、お前も死ぬことになるんだぞ……! それでもいいのか!」
「妾はもう十分生きた。それだけに、小娘を見上げる今の日々は苦痛で仕方ないのじゃよ」
最後の言葉を発音し終えると、エレオノーラはラウルに視線を向けることはなくなった。
代わりにエレオノーラは、言葉を失っていたこちらに顔を向ける。
「そういうわけじゃ。クオナがユユラングに吸収されることになろうが、妾は恨まんよ。なにせ、セオドア様は妾を褒めてくださり、旦那様の醜態を見せてくれた。期待通り、な」
ふふふ、と女性は微笑んだ。紅水晶のような瞳は悪戯な光を孕んでいた。
「リリヤ……長い間、世話になったの」
女性は一度、同じ幽霊のことを見て吹っ切れたように笑ったが、礼は言わないとばかりに顔を背けた。
「エレオノーラ……待っ……」
応える幽霊は一度悲しそうに眉根を寄せ、縋るような声を上げる。
仲は良くないようだったが、長い時間を過ごしただけに、様々な思いがあるのだろう。
だがぐっと何かを堪えるように、多くの者を見送ってきた紫色の瞳を女性に向ける。
「…………お疲れ様」
ぽつりと呟き、リリヤは視線を床に落とす。
エレオノーラがふっと目を細めた時、部屋からでも分かるくらい慌てた足音が耳に届き始める。
反射的に扉の方に顔を向けると、間を置かずして応接間の扉が開いた。
「今の悲鳴は一体! どうされましたっ……!?」
部屋に飛び込んできたのは、ユユラングの従者達だった。
女中服や質のいい服を着た彼等達は、部屋の中央に倒れている老執事と、足を怪我した隣領の伯爵、少し離れた位置にいる自分とを見て、息を詰まらせる。
「ま……まさかセオドア様が……」
女中の一人が顔を青くしながら、唯一血を流していない自分に疑いの眼差しを向ける
「違っ」
髪が乱れるのも気にせず首を横に振って否定しようと思ったが、続く言葉は口から出なかった。
幽霊が中心となって起きたことを、どう説明したらいいのか分からなかった。言葉を続けられずにいると、疑いの眼差しはどんどん強くなっていく。
「待て、セオドアがしたことなら首にあんな跡は残るまいよ。私がやったんだ、全て……」
疑惑を跳ね退けてくれたのは、髪を濡らしたラウルだった。
その声は苦痛よりも、飼い犬が脱走した時のような呆然とした響きを持っていた。
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