第六話 クオナの幽霊
49 「お似合いですよ、若い頃の伯爵を見ているようです」
第6章 クオナの幽霊
朝食を済ませて、すぐユユラングを発つ支度を始めた。
昼にはクオナの館に到着していないと、上手くいく話もいかなくなる。一休みしている時間なんてなかった。アレックスがいないのでセルゲイに手伝って貰いながら、机の横に置いた鏡台の前で身なりを整えていく。
父から借りたジュストコールに袖を通し、手袋を嵌めた。
スカーフの位置を微調整して貰った後、改めて鏡台を覗き込む。
そこには自分の顔をした知らない人物が立っていた。
「お似合いですよ、若い頃の伯爵を見ているようです」
着替えを手伝って貰っていたセルゲイの声がする。決まり文句だとは分かっているが、褒められると嬉しくて、口元を緩めた。
最後に、腰に白濁色の宝石が埋め込まれた鞘に入った剣をぶら下げる。
これで一応貴族らしくは見えるだろう。
「もう厩舎に向かった方がいいでしょうか?」
「そうですね、お願いいたします」
老執事は頷き、先導するように先に扉を開ける。
「お前はちゃんと着れば似合うんだがなぁ」
扉を出る前、今まで定位置にいた少女が、ぼやきにしては大きな声を上げた。少々演技がかった咳払いをしてから、セオドアは部屋を後にした。
四階から一階に行こうと思うと結構な時間がかかるが、誰かとすれ違うことはなかった。元々少ない使用人のうち四人が留守にし、残りの人達で馬車の用意をしているのだから、誰とも会わなくても当然かもしれない。
厩舎の手前で、馬車の用意が整うのを待つ。
秋の訪れを感じる日の下で一人で待っていると、いつの間にか隣に来ていたリリヤがぽつりと零した。
「私はな、この世で嫌いな物が二つあるんだ。一つは火、もう一つは馬だ」
視線をリリヤに向け、僅かに首を傾げる。
火が嫌いな理由は何となく察しが付いているが、馬が嫌いな理由が分からない。少女はつまらなさそうに鼻を鳴らして続けた。
「私が生まれた村では、人の食料より馬の食料のが優先されていたんだ。そのせいで私の友達が何人も死んでいった。馬鹿げた話だろう」
若干怒気をはらんだ口調で言い、リリヤはふいと体の向きを変える。
この幽霊が、自分が生きていた頃の話をするのは初めてだ。眉を潜めてしまうくらい酷い話だ。
「私はパンの味を忘れるくらい長く幽霊をやっているが、嫌いな物は嫌いなままだ」
昔は今より土も悪かっただろうし、信仰も絶大な影響力を誇っていただろう。
そんな中で人間が十分に食べていけるわけがない。
「そういうわけだから私は歩いていってるぞ。まあ私のが先に着くだろうがな」
そう言い、長い時間を見つめてきた少女はこの場を後にした。姿が見えなくなってから、一度息をつく。
リリヤがアレックスの名前を覚えようとしなかったことにも、複雑な思いが潜んでいそうだ。
「お待たせ致しました」
秋風に吹かれる落ち葉のようにあっという間に居なくなった少女を見送ると、間を置かずにセルゲイの声がかかった。
振り向くとそこには箱型の馬車が用意されていた。
馬車を前に表情を引き締めたのは、クオナに行くことだけを考えていたからだけではなかった。
ユユラングとクオナの境にある森を進み、クオナ領に足を踏み入れる。
クオナは緑が少なく、数少ない緑もぼうぼうとしていた。幼い頃もこのように雑然としていたことを覚えている。馬車に一緒に揺られていたセルゲイはお喋りが好きではないのか、道中は静かだった。
クオナ領主が住んでいる館に向かう。
門を抜けて玄関の近くまで馬車をつけ、使用人に促されるまま馬車を降りた。
時間を決めての会合なら、玄関先であちらの使用人が待っているのが普通だ。だがクオナにはそれがない。
いつからかラウルが、必要最低限の使用人しか傍に置かなくなったからだ。
使用人が待っていないことは不便だとは思わないが、人の目が少ないのは不安だった。
いきなり後ろから殴られようが、誰も見ていなければ「妖精の仕業だ」と現実離れしたことも言えるからだ。
不安を抱いたまま館に視線を向け、あっと息を呑んだ。
入口の脇に、リリヤと見覚えのある白髪の女性が立っていたからだ。
鮮血を思わせるドレスに身を包んだ女性はこの世の物とは思えないくらい美しく、気品のある所作は簡単に自分の目を吸い寄せる。
エレオノーラだ。
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