37 「……セオドア様、お話しがあるのですが」

 黒い革の帽子を被り、黒い外套を着たジャックは、見違えるようにきちんとした少年だった。


「貴族の世界も大変だな」

「嫌な会話を聞かせたみたいでごめん」


 振り返って頬を掻きながら謝る。

 見てはいけない物でも見てしまったかのように、ジャックは眉を寄せている。


「明日、食べられるなよ」


 指先で槍を弄る少年が素っ気なく言う。


「うん、気を付けるよ」


 いつまでも門の前で雑談をしている場合ではない。ラウルはたしかに明日と言ったのだから、明日に備えて準備をしないといけない。

 跳ね橋を見る振りをして、一仕事終えたかのように疲れた表情を浮かべているリリヤに行くよ、と視線を向けた。


「それじゃあ、僕は行くよ」


 ジャックに挨拶をした後、中庭を通って城に戻ろうとする。


「あいつ、私を送りに来たつもりらしいぞ。馬鹿か!」


 事の次第を報告するようにリリヤが喋り始める。


「クオナはどうも、交渉の連絡を焦らしていたみたいだ。敵と対峙した獣が相手が先に隙を見せるのを待つように、ユユラングから使者が来るのを待っていたんだ」


 中庭を歩きながらやっぱりかと思った。

 こちらから人間の使者を出さなくて正解だった。


「私が行ったから、ラウルも重い腰を上げる気になったようだがな。それでもここぞとばかりに、日時を伝えに行く条件として私を側にいさせたが。お前の判断は正しかったが、悪かったな」


 後ろから着いてきたリリヤが謝ってくる。


「お疲れ様、災難だったね」

「うん、お前もな」


 中庭には使用人が何人かいて、リリヤを労う言葉も小さくなる。

 だが、いつの間にか側に金髪の女中が立っていてぎょっとした。ちらっと見ただけで分かった。アニーだ。

 メイド服に身を包んだアニーにはリリヤへの声が聞こえていたらしく、怪訝そうな表情を向けられてしまった。


「あ、一人言……」


 弁解するように付け足すと、こちらを見ていた女中の視線が僅かに緩んだ。腰まで伸びている金色の髪を耳に掛け、水色の瞳をこちらに向ける。

 先程まで土でも弄っていたのだろう。大急ぎで洗ったのか、その手は僅かに濡れていた。

 穏やかな態度に反してその瞳には微かな怒りが感じられた。


「……セオドア様、お話しがあるのですが」


 アニーがこのような感情を見せるのは珍しい。

 幼い頃、アレックスと泥遊びに夢中になっているとよく向けられた目だ。反射的に身構えてしまった。


「な、なに?」

「先程、ラウル様がお見えになっていましたよね? 遠目に見えました」

「あ、うん……すぐに帰られたけどね」


 自分に対する小言ではなさそうで肩の力を僅かに抜いた。


「ラウル様が着ていた服に私は見覚えがあります」


 話が見えなくて何度か瞬く。

 たしかに一等質のいい皮のシャツを着ていたが、リリヤがいたから格好付けたのだろう。


「あれは、レイモンド様達を乗せた船が沈んだと報せに来た使者が着ていた服です」


 ふつふつと報告され、最初何を言われているか理解できなかった。

 少ししてそれが、使者がクオナの人間であることを意味しているのだと気付いた。

 社会的信頼を求められる使者が、己の立場を証明する一番手っ取り早い方法が、貴族のように上等な服を着ることだ。他にも割り符や手形が用いられるが、服も必要な要素だ。

 公共機関に属する使者も居るには居るが、大半の使者は使用人や領民の中から見繕われる。

 そんな彼らが使者になるには、主人から上等な服を借りるのが早い。


「……君の記憶力が抜群だってことは知ってるけど、同じ服なんて世界には何着もあるから」

「皮を用いたシャツはこの地域だけのものです」


 身の潔白を訴えるように切々とアニーが捕捉する。

 自分が今着ているシャツも、夏でも寒い北方に合わせて薄く伸ばした皮を裏地に使用している。これは雪深い北方にしか需要がない服のつくりだ。

 あの時のあれはクオナからの使者だ、とアニーは言いたいのだろう。

 クオナからの使者なら、嘘を言われた可能性もあるのではないか、と。

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